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「ほんとうはもっと与えられるべきだった」と無根拠に思いこむ人間の恐ろしさ  映画『ジョーカー』

 ※ トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』の内容に触れています。また、当然のことながら、あくまで個人の感想文にすぎないものです。

 この映画の主人公であるアーサーはコメディアンの仕事で細々と収入を得、福祉の補助なども受けながら身体が不自由な母親の介護をして暮らす青年だ。彼がこのたびの「ジョーカー」、今まで何バージョンものキャラクターが提示されてきた伝説のヴィランの最新バージョンである。彼が住むのはもちろんゴッサム・シティ。バットマンのいる、あの町だ。すなわち、きわめてアメリカ的な、ニューヨークのように大きな都市でありながら閉塞した田舎のような空気をも漂わせ、犯罪者がすぐ精神病院にぶちこまれる(そしてひょいひょい脱出する)、例の町である。

 のちにジョーカーになる主人公・アーサーの生活は貧しい。しかし、それほど激しい貧困状態ではない。ありふれた、なんなら「ちょっとした貧しさ」にすぎない。これはとても大切なことだから、先に述べておきたい。『ジョーカー』は貧者が蜂起する映画ではない。映画の前半では、アーサーの貧しさ、アーサーの病気、アーサーの不運が描かれる。そしてそれらはすべて「ありふれている」。

 たとえば、アーサーは病人だ。突然笑ってしまって、人々から不気味がられる。だから彼はカードを持っている。不随意の笑いの発作で話せなくなっても他者に手渡すことで自分の状態を説明できる、ラミネート加工したカードを。「突然笑ってしまうのは神経の病気のせいなんです。気にしないで」。そう、これはいい手だ。アーサー、適応しているじゃないか、と観客である私は思った。世の中には不随意のいろんな動作が出る病気があるし、外見が尋常でなくなる病気もあるが、それらのために社会参加を諦めろというのはむちゃくちゃな話で、それらを抱えて働くのは当然の権利だ。不随意の動作や尋常でない外見を不気味がるのは無知によるものである。不気味がるほうが悪い。私も若い時分に病気で何年か変わった外見になり、自分でも「こりゃあすげえな」と思ったが、しかし一方でこうも思った。「とはいえ、これくらいの怪物性を帯びた外見は、ありふれてもいるけどね」。

 たとえば、アーサーの生活はつましい。お金の余裕はぜんぜんなさそうである。そもそも、アメリカでは成人してだいぶ経つ人間が親と住んでいる段階で「お金ないんだな」感が出る。しかも彼はコメディアンとしてもまったく売れていない。ピエロの仕事もたくさんもらっているようには思われない。貧しい人である。

 しかしそれは「(コメディアンという)夢を追う人間」としては標準的といってもよい貧しさだと私は思う。カネの入りにくい職業をめざしているのなら、副業や何かで収入をサポートするのは当然のことだ。コメディアンやピエロの仕事だけでは食えないなんて当たり前のことである。ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。そんな人は日本にもいっぱいいる。

 たとえば、アーサーは母親の介護をしている。食事の世話をし、椅子からベッドに移動させ、お風呂に入れてあげる。アーサーは日中出かけているし、家にいても母親とは別の部屋にいたりするから、四六時中拘束されるような介護ではない。こうした「身内による介護」も、やはりありふれている。私の知人にも二人ほど、介護のために近親者と同居していた人物がある。子どものころから親の面倒を見ている人間もこの世にはいる。アーサーの母親は介護者に糞便を投げつけるか? ノー。アーサーの母親は飲んだくれて何時間も介護者の人格を否定しつづけるか? ノー。アーサーの母親は介護者を性的に搾取するか? ノー。少なくとも画面に映っているあいだ、彼女はそうしたことをしない。アーサーの介護はやはり「ありふれた大変さ」の範疇である。

 さあ、おわかりいただけただろうか。アーサーは貧しく不運だからジョーカーになったのではない。貧しく不運な人はこの映画の中にも彼の他にいくらでも出てくる。ではなぜアーサーが、アーサーだけが、ジョーカーになったのか。

 「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」

 これがアーサーをしてジョーカーに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。彼らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。私は最初、その怒りの意味がまったくわからなかったのだけれど、何人かと遭遇して理解した。彼らはこう言っていたのだ。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない、それは本来おれ(わたし)に向けられるべき賞賛だ」。

 アーサーには父親がいない。母親もどうやらそのあたりの話をしてくれていない。だからアーサーは父親の夢を見る。アーサーは映画の中でずっと、手を変え品を変え、父親の夢を見ている。貴種流離譚的な夢だ。お金持ちの、人格者の、有名人の、素晴らしいパパが、僕を迎えに来る。そういう夢である。アーサーははじめから、いわゆる「信頼できない語り手」だが、それは彼の性格からして当然というか、「アーサーは金持ちの父親から生まれてテレビで賞賛されるのが自分の本来の姿だと思っていた」という、それだけのことである。そう、彼は自分を王子さまだと思っているのだ。王子さまのはずなのに王さまのパパがいないから気も狂わんばかりにそれを求めつづけているのだ。

 昔話の王子さまは冒険の旅に出るが、アーサーはその点、昔話のお姫さま的に動かない。簡単に言うと、すてきなパパの夢を見ながら、「美しい女が自分に恋をする」とも思っている。だからといって具体的に女を口説くことはしない。まるで王子さまを待つ白雪姫である。グリム童話の白雪姫は家出して七人のこびとと仲良くなって家事などしていたからアーサーよりぜんぜんマシだ。アーサーは家出もしない。りんご食って寝てるだけの白雪姫、完全無欠の受動態である。

 アーサーは不運にも仕事をうしなった。でも彼の首を切った職場の上司はそんなにはちゃめちゃに邪悪な人物というわけではない。アーサーが子どもたち相手にピエロの仕事をしているとき懐に忍ばせていた銃をおっことした、だからクビだと言ったのだ。理由のあるクビである。不運ではあるが、世の中への怒りがグラグラに沸き立つタイプの不運ではない。たとえば「社長から二人きりの出張を組まれ、現地に行ったらホテルの部屋が一緒だった。社長は異性愛者を公言していて自分は社長にとって年若い異性である。社長がホテルの部屋に入れと強要するので全力で逃げて自腹で別のホテルに宿泊した。するとクビになった」みたいな不運ではない。ちなみにこのような不運で職を失ったセクハラ犠牲者はありふれている。アーサーの上司はこのたとえで出した「社長」みたいな人間ではない。

 でも、アーサーはその上司を許さない。クビの原因になった銃をくれた同僚を許さない。自分をあざわらう裕福な奴らも許さない。自分の「パパ」じゃなかった有名人も許さない。許さないけれど、同じように許さない仲間を募ってデモをやるわけではない。文筆をもってゴッサム・シティに檄文を撒いてまわることもない。いきなり裕福なやつらを殺す。いきなり同僚を殺す。バッキュンバッキュンに殺す。そしてジョーカーになる。仲間をつのって暴動を煽るのではない。仲間が勝手にやってきて祭り上げてくれるのだ。徹底している、と私は思った。狂を発して「アーサー」から「ジョーカー」になるときでさえ、彼は「与えられる」側でなければ気が済まないのだ。りんご食って寝てるんだ。永遠に家出をしない白雪姫なんだ。

 さあ、おわかりいただけだたろうか。アーサーの怪物性がいかなるものであるかを。アーサーはなぜジョーカーになったか。アーサーは貧しかったからジョーカーになったのではない。アーサーは不運だったからジョーカーになったのではない。アーサーは「自分は大金持ちの有名人の子に生まれてテレビでスポットライトを浴びて子どもたちに大人気のコメディスターであるはずなのに、そうじゃなかった」からジョーカーになったのだ。アーサーは、自分は無限の賞賛を浴びて当然の人物だと(無根拠に!)思い上がっていたから、ジョーカーになったのだ。

 私にはそういう映画にしか思われなかった。だから本作を観たあと、映画通の友人に「怖いね」と言った。「アーサーみたいな人、増えてるもんね、なんかこう、無限の賞賛を求める系の人。ホアキン・フェニックスがアーサーを魅力的に演じすぎていて、まるで時代のヒーローみたいに見えて、よろしくないよ、あの映画はだから、私は支持できないよ」。

 すると友人は言った。「あの監督はそんなこと考えて撮ってない。前半のアーサーを貧しくてけなげな男性として撮っている」。

 私はぞっとした。映画のどの場面よりぞっとした。友人は言った。その話、書いたらいいよ、インターネットに。

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