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不愉快な気持ちよさとアディクション ステイシー・レヴィーンの話

 ステイシー・レヴィーンの話がしたい。でも誰も聞いてくれない。聞いてくれそうなわずかな相手にはもう話し尽くしてしまった。だから書く。私はどうしてもステイシー・レヴィーンの話をしたいのだ。

 ステイシー・レヴィーンはアメリカの作家である。邦訳された単行本はまだない。ごく短い短編が三つ、いずれも岸本佐知子によって翻訳されている。「ステイシー・レヴィーン」で検索すると、短編が収録された単行本の販売ページと翻訳作品のリストらしいページのあと、三番目に私のツイートが出てくる。それくらい話されていない。

 単行本が出ていないからまあしょうがない。アンソロジーに収録された短編が二つ(『コドモノセカイ』『居心地の悪い部屋』)、単行本未収録の短編が一つ(『monkey business』vol.9)なのだから、話されていなくてもまあしょうがないかなと思う。それほど売れるタイプの作家とは思われないから、なおさらしかたないと思うーー客観的には。ふん、客観なんてなんになるのさ。私はもう九年ものあいだ、たったの三編でステイシー・レヴィーン欲をむりやり満たしてきたんだよ。話くらいさせてほしい。

 そう、ステイシー・レヴィーンの小説への欲望はステイシー・レヴィーンの小説をもってしか満たすことができない。世の中にはいろんな小説がある。そして私は小説を読んでいればだいたい幸福である。それでもときどき「あれがほしい」と思う。「あれ」というのは任意の作家の文体をさす。定期的に摂取しないとからだの表面が粟立って焦燥感におそわれる、そういう文章を書く作家がこの世にはいるのだ。たぶんなにかしらの薬理作用がある。読むとキマる。特定の人にだけキマる。その数が多いと人気作家になるのだと私は思う。もちろん文体以外にも大切なことはあるのかもしれませんが(えっと、よくわかんないけど、たぶん)、でもみんなとりあえずは文体が気持ちいいから読んでるんでしょ? まずは気持ちいいから読むんだよね?

 作家は人間である。したがってそのうちに死ぬ。死んだら新作が出ない。だから分散する。一人の作家に頼ると危険だから、自分の脳にいい感じでキマる文章をたくさん確保しておく。分散するのだ。それが利口な大人のやり方というものだ。ああ、でも、私の飢えはほんとうに分散されているのだろうか? 単に増えているのではないか? それをまぎらわせるためにまた別の本を読んでいるだけではないか? 

 彼女のことは知らなかった、名前も、仕事も、どこから来るのかも。私と出会ったあと、彼女は知恵を使って、少しずつ、私に気づかれることなく私のことを調べた、そうして私の無力なところや恐れていること、可愛げのない部分や欠けているところ、そうしたものを残らず見つけだした。彼女はそれを吟味し、吟味しおえると、やがて私の肌をひっかきはじめた。
 (「ひっかき傷」『monkey business』vol.9

 これは私が最初に読んだステイシー・レヴィーンの冒頭の一文なのだけれど、冒頭だからこうなのではなくて、もうずっとこの調子なのだ。読点でぶつ切りにしながら句点は次のセンテンスにぴたりと(ほとんど真空状態で)接し、同じ単語が変拍子を刻む。読んでると鼻の奥と喉の上のほうがシュワってして、指の先に膜が張ったみたくなる。背骨の上のほう、特定の頸椎がちりっと痛む。痛んだときにそこが痒かったことに気づいて、もっと痛くなればいいのにと思う。アディクション。

 私にとって、世界は半ば液状の、わけのわからないものである。自分という存在もまったく信じられない。実はきのう誕生したんだ、ちょっと記憶を読み込んでおいたよ、と言われても「そうか」と納得するだろう。私が自己決定を愛し、(少なくともからだを縦にしているときには)能動態であることを強く意思するのは、私の自我と世界がものすごく脆いからである。水に箍を填めているようなものだ。私の社会的な自我は液状の私がこの世をわたっていくために作り出したフィクションである。もう一つの皮膚といってもいい。

 ステイシー・レヴィーンを読むと、自分のからだの中の、ふだん使っていない、ごく小さな、しかし強力な何らかのスイッチを押している感じがする。気持ち悪いと言ってもいい。怖いと言ってもいい。でもそれが気持ちいいんだ、目頭の涙腺から何かが逆流してくる感じがする。私の世界は、ほんとうは液状だから、私の脆い皮膜に浸透する文章が、そうやって入ってきてしまう、そして私はとても気持ちよくなってしまう。

 わたしは丸々となりたかった、とても丸々と、なぜならわたしは丸々としていなかったから、だからわたしは何か手だてを、計画をたてようと思った。それがどんな手だてなのかわたしはたぶん知っている、たぶんずっと前から知っていた、すでにそれを知っていて、あとはそれを引き出すだけ、計画はただのロジックにすぎない。わたしは家を出て、歩いていった、街はわたしのまわりに建ちならび、わたしが動くといっしょに動いた、わたしは建物の中に入っていき、何人かの人と話し、そしてほどなく仕事を得た。
 仕事を得たので、もうすぐわたしは丸々となれるはず。
 (「ケーキ」『居心地の悪い部屋』

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