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生きるためにたましいの内臓をひとつ切除する話  アゴタ・クリストフ『悪童日記』

 自分を自分から切り離す訓練をしたことがあるだろうか。私にはある。あなたにもあるだろう。そのことを、ここで私が誰かに「あなた」と呼びかける相手であるための要件であると言ってしまおう。

 この小説は十五の私にとってただ「よくわかるもの」だった。「よくわかるものが美しく描写されているので気味の悪いもの」でもあった。そのあたりが当時の私の言語化の限界だった。そんなものがあっていいはずがない。私は義務教育中の少女であって、だから「これは私の本で、けれども出版されているのだから私のために書かれた本ではないのだ」ということだけがわかった。うまく受け止めることができないので、暗記するほどに読んだ。

 そうした感情を呼び起こすシステムが文学とういものの商業的価値であり、私のような消費者はそのような書籍にささやかなカネを落とせばいいのだ、と理解するのはその数年後のことだった。とはいえ、中年になって読み返すと、いくらなんでも小説に飲み込まれて年単位で感想を言語化できないということはない。平気で明日も出勤できる。つまらないことだ。

 本書はやたらと巧い。本書が書かれる背景--第二次大戦中のナチス・ドイツ体制下--を鑑みるに不適切ではないかと思われるほどに、巧い。だいいちに、本書の語りの人称は一人称複数形である。これほどまでに私たちの(冒頭の要件に合致するような人間たちの)要望に合った表現があるだろうか。以下に本書の前提条件を記述する。

 ある種の人間は自分を分割し、その片割れとだけ、手を取って生きようとする。それ以外の自己認識を持つことができない。

 さて、本書の主人公はふたごの少年である。あるいは自分をふたごの少年だと認識している者である。それらの意味は本書において等価である。一人称の外側が完全に排除されているためだ。彼らは第二次大戦中、ナチス・ドイツの領土のひとつで育つ。都市は迫害と飢えに満ち、伝手のある親は子を体制の締め付けの弱い地域へと逃がす。疎開というやつだ。主人公は疎開児童(たち)であって、そのサバイバル日記が本書、というのが、取り急ぎの体裁である。どうですか、巧いでしょう。

 少年(たち)は生きるためにじゅうぶんなだけ賢明なので、まずは苦痛を切り離す。これはたいしたことではない。今の日本でもそこいらの人がやっていることだ。とはいえ戦時下だから急いで実行する。私たちはその速度と精度に息をのむ。彼らは食べるために家畜を殺すことも、家畜でないものを殺すことも、次いで人を騙すことも、もちろん殺すことも、平気になる。

 彼らはそれから、愛着を切り離す。これはなかなかの難行だった(と私は思う)のだけれども、彼らはやってのける。息もつけないほど巧妙に。だって、愛していては生きていられないからだ。想像できないって?それなら本書を読むといいですよ。想像できる人が読んだらなおのこといいと思うけどね。

 サバイバルの物語の常として、彼らは彼らを規定していた境界を越える。そのために犠牲になるのは愛着の最後の一線である。そういうのってすごく当たり前のことだ。そうして当たり前のことを書いた小説はなかなか見つからない。よろしいか、これはただ一冊の小説、ただのフィクションなのですよ。巧みにすぎて浅い吐き気がする。

 自分を自分から切り離す訓練をしたことがあるだろうか。その報いを受けたことがあるだろうか。感情を感じない処置をしたあとしばらくすると、私たちは感情に復讐される。感情はその取り分を取りにやってくる。感情は厳密で吝嗇だ。びた一文も負けやしない。

 本書の主人公が切り離したものごとに復讐されるようすは、本書の続刊において子細に描写される。それもやけに、とても、美しく。本書と同じように巧く。読んでください。そう、あなた、このような駄文を読むようなたちの、あなたは。

※ 本noteには過去に他メディアで公開した内容が含まれます。現在閲覧できないもので私の手元に残っている感想文をnoteに集約しています。

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