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フィクションが足りなかった 見田宗介『まなざしの地獄』

 私はばかみたいに本を読む。どうしてかといえば、もうひとつの世界に行かなくては健康が害されるからである。私は物心つくかつかないかのころから、現実でないものを見るためだけに日ごと夜ごと本を読んでいた。まとまった時間などなくてもよい。あればもっとよいけれども、十分でも三分でもよい。向学心も向上心もない。読んだあとに役に立てようという気がない。本の中は現実でなければそれだけで価値があった。空想された物語がもっともよかったが、他者の人生であろうが、数字の並びであろうが、論述であろうが、眼前の〈この現実〉でさえなければそれでよかった。

 私の生育環境をちらと聞いた若い人が「えっ何それ地獄じゃないですか」と言ったので、まあそんなようなものかなとこたえた。しかしそれは子どもの時分の話である。十八歳以降は現実をそんなに嫌いではない。だいたい幸福だったし、いい人生を過ごしてきたと思う。人生も半ばまできて、身のまわりにいやなことは少ないし、たまに発生してもだいたい戦える。最悪でも逃げることはできる。

 だから本はもういらないかといえば、身についた癖は抜けない。現実がどれほど好ましいものであろうと、目の前の現実から遊離する行為を止めることができない。そういうふうにできあがって、たぶんもう直らない。だいいち、私個人がいくら能天気に暮らそうと、この世界から地獄の要素がなくなるわけではない。そして私は大人であり、世界に対してささやかな責任を有している(それが大人というものだと、むかし本で読んだ)。世界の地獄的側面に触れたとき、もちろん私は落ち込む。そうして本を読む。とりわけフィクションを。

 そんなだから、犯罪者についての論考など読むと、まったく他人事ではないと思う。だいそれた犯罪者の幼少時代にはしばしば、「空想にふけっていた」「(異常なまでの)フィクション好きだった」といった記述がある。本書ではそのあたりの筆致がことに美しい。堅苦しい文章にしかまとえないある種の情緒がある。情緒があるからなおのこと実感するのだが、異常にフィクションが好きで空想にふけってふと社会から逸脱するなんて、そんなの私である。

 私はたまたま「未遂」だった。私が犯罪をおかした彼らでなかったのは単なる偶然にすぎないと思う。私に何らかの不幸な出会いがあったなら、私が暴力を比較的肯定される男児に生まれていたら、私がもう少し怒りというものを抑圧されていなければ、私は物理的暴力を指向しただろう。そして私に他者のまなざしを気にするだけの社会性があったなら、私はその痛みに耐えることができなかっただろう。私にはまなざしを内面化する社会性がろくになかった。今もあんまりない。能力の高低でいえば社会性がないのはどう考えても「低い」側である。でもそれが幸いした。薄ぼんやりと夢を見るように生きていて貧しいことも係累がないこともどうとも思わなかった。「自分があなたみたいな立場だったら自殺する」と真顔で言われたこともある。私は今でもその人の言ったことが実はよくわかっていない。家賃三万四千円のアパートに住むなら自殺するってことかな。それとも外見とか、着るものとかのことかな。あのおうちはとてもいいおうちだったと今でも思うし、私の外見はかわいいと思うんだけどな。よくわからない。

 私が平気だったのは、自分の知性と感受性に(客観的に見たらまったくたいした知性でも感受性でもないのに)信を置いていて、それ以外の何を持っていなくても、そしてそれを指弾されても、「それって私のせいじゃないよね」「私はそういうのどうでもいいや」と思っていたからだ。私には夜ごとに読むべき本があった。いつでもあった。だから平気だった。

 私に他者のまなざしを内面化する能力があり、そして何らかの要素によってフィクションに没入しきれず、あるいは図書館に通うことが許されず、さもなくば文字を読むことに適した能力がなくて、そのために実生活の環境から受けたダメージを癒やし足りなかったとしたら、私は本書の彼に、N・Nになっていただろう。本なしにじゅうぶんな他者に接しようとしたら、どうしても「あなたみたいなら自殺する」という声がいっぱい耳に入ってくる。広告を収入源としたメディアは視聴者をジャッジする。こうであってはいけない、こうであることが上等だ、このくらいは当たり前だ、と示す。差異化こそがコマーシャルの種なのだから、もちろんそうする。面と向かってジャッジを口にする人も、接する人数が多いほど増えるだろう。そうしたらいくら私がのんきでも「こんなにいっぱい言われるのなら、私は自殺しなければならないのかもしれない、それなら殺す側に回る」と思うだろう。

 そう、私は彼我を隔てるものを、本質的には「じゅうぶん本を読むことができたか」の一点しかないと思う。じゅうぶんに現実の外に出て、その中で精神の体力をやしなうことができれば、人を殺さなくても済んだのではないかと思う。夜ごと現実の外に出て、本の中の、自分に熱心に語りかけてくれる何か、いつでも自分を待っていてくれる誰かと、古今東西の実に多様な他者と、話すことができたなら、人を殺さなくても生きていられたのではないかと思う。世界が自分を劣ったもの、卑しいもの、汚いものとして規定したこと、それを内面化したことが彼らの地獄だった。自分を卑しいものと規定したのが友人であるなら友人を捨て、生家であるなら生家を捨て、地域であるなら地域を捨て、そしてフィクションを読んで精神の筋力をやしないながら生き延びることができたなら、本書の彼、N.Nは殺人者ではなかった。どうなっていたかいうと、たとえば私になっていただろう。それがいいとは言わないが、少なくとも死刑よりはよかったのではないか。

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