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ルシア・ベルリン、岸本佐知子訳『掃除婦のための手引き書』  あなたのルシア、私たちのルシア

 ある種の本は開いて字を目に入れると自動的に気持ちよくなる。私はそれらを口あけて何も考えずに読む。かつて「ばかの読書」と言われたことがある。否定はしない。

 ルシア・ベルリンの短編集『掃除婦のための手引き書』【註1】はそのような「ばかの読書」をする私にとって最高の一冊だった。目に入れると気持ちよくなる、しかもその気持ちよさが新しい。知らない作家の本を読んでこのようにヒットするとほんとうにうれしい。私のための本のようだと思った。人に誘われて出版記念のトークショー【註2】に行ったらば、登壇した翻訳家とコラムニストが「私たちのルシア・ベルリン」と何度も言った。「ルシア・ベルリンをこんなに愛しているのは私だけだと思いました」「そう思わせる作家なのです」「俺のルシア、ですね」「俺たちのルシア、ですね」。

 すぐれた作家にはそういうところがある。ある種の読者に「私の」と思わせる機能がそなわっている。ほんとうはぜんぜん私のじゃないんだけど(翻訳家など文学関係の人はともかく、私みたいな消費者にとって、作家はただの知らない人である)、でも「私の○○」と言いたくなる。本を買うときに「自分はその『私たち』に入るか」がわかっていればラクだろう。よかったらこの感想文を「私の作家」判定に使ってもらいたいと思う【註3】。ルシア・ベルリンはきっとあなたのルシアでもある。

タフでセクシーなヴォイス

 作家はだいいちに声である。文体というか、流れというか、意味内容以前の感触がものすごくだいじだ。私は小説を読むとき、自分の官能に触れるヴォイスが聞こえることを第一の要件とする。私は「ばかの読書」をしているので、役に立つとか勉強になるとかはどうでもよく、とにかくヴォイスが肌に合う作家を選ぶ。良いものではなく、肌に合うものを選ぶのだ。美声でイントネーションが整っていればよいのではない。そんなのは捨てておけ。ヘイ、これは小説だぜ、Siriじゃねえんだ。

 ヴォイスは作家のたましいのいちばん外側であり、作家と外界(読者)を介するインターフェースでもある。この人に恋をするのかしら? と思ったら近寄っていってにおいをかぐでしょう。ああいうときみたいに文章をためしてほしい。そしたらあなたの作家かどうか、きっとわかるから。

 ルシア・ベルリンのヴォイスはざらりとしている。そしてとても色気がある。たとえば掃除婦が掃除をして仲間としゃべってバスに乗る、その文章が官能的なのだ。そういうしみったれた、あるいは日常的な描写ばかりでなく、恋人の差し出す花束とシャンパンがあり、危篤の一報を受けて乗る飛行機があり、豪邸で使用人にかこまれる少女があり、名作短編をものする刑務所の囚人がある。それらの描写のすべてに色気がある。でも湿度は低い。じめじめしていない。かそけき声ということばがあるけれど、ルシア・ベルリンの声はその反対だ。かそけくない。野太くもない。どこか優雅でタフだ。小説の主人公がコインランドリーで洗濯が終わるのを待っているときにも、かけおちめいた誘いの電話にうなずくときにも、自分で自分の歯を抜く(!)歯科医の祖父を手伝ってやるときにも。

赤裸々をやらない

 ルシア・ベルリンは劇的な人生を送った人である。アラスカに生まれ、子ども時代をチリで過ごし、メキシコにもいたことがあって、アメリカ国内でもあちこちに住んでいる。教師や掃除婦や看護師として働き、三回結婚して四人の子どもを産み育てた。生家にはさまざまな問題があり、本人も長じてからアルコール依存症になった。裕福な時期も貧困の時期もあった。

 そうした人生が色濃く反映された作風だと聞いて、読むのをちょっとためらった。というのも私は事実を赤裸々に語る作風がどうにもだめなのだ。私は、ひどいことをひどく書いて「どうですか、ひどいでしょう」と差し出すなんて、ぜったいにいやなんだ。他人がやるのは勝手だし、それが必要な人もいると思う。でも私は買いたくないし、読みたくない。そういう営為に購入や読書というかたちで参画したくない。うっかりやっちゃったときにはしばらく落ち込む。できるだけ予防したい。

 このたびはだいじょうぶだった。ぜんぜんだいじょうぶだった。ルシア・ベルリンはまったく赤裸々じゃなかった。そこには距離がある、と翻訳者は言った(トークショーで)。もちろん嘘も書かれている。なんなら一人称が男性の短編もある。でもそれ以上に、たとえ事実が素材であったとしても、赤裸々じゃない。どういう種類の魔法なのか私にはわからないんだけど、いや、ほんとのこと言うとちょっとはわかるんだけど、うまく言えない。だからトークショーでの翻訳家の発言を引用する。「ルシア・ベルリンという人物と作家ルシア・ベルリンがいる」。そう、そのふたりは別々なのだ。そういう種類の魔法を好むのが「私たち」なのだ。

代表しないーー女とか母とか移住者とかアメリカ人とか

 私がちかごろうんざりしていることばに「ロールモデル」というのがある。私のようなアマチュアにもたまに文章のリクエストが来る。ありがたいことである。そしてそのなかで近ごろ私をうんざりさせるのは、「四十代独身女性のロールモデルになるようなお話を」みたいなやつである。私は何も代表したくない。フィクションにさえお手本役割が求められるなんてどういうことなんだ。みんな役に立つことをしすぎているのではないか。ずっと正解して効率化してパフォーマンスを最大化しているのか。信じられない。私はだんぜん非生産的な生活を送る。ばかの読書をして野良犬みたく死ぬ。そうしたいのだ。「正解」教の人々はどうか私を放っておいてほしい。

 ルシア・ベルリンは代表しない。貧困層を代表しない。女を代表しない。母親を代表しない。シングルマザーを代表しない。移住者を代表しない。アメリカ人を代表しない。

 もちろんルシア・ベルリンの小説には貧困層の生活が出てくる。子どものいる家庭が出てくる。離婚した人が出てくる。女性の主人公が出てくる。生まれた国でないところでの生活が出てくる。生まれた国であるアメリカでの生活が出てくる。でもそれはルシア・ベルリンの小説であって、何かを代表しているのではない。

 私は思うんだけれど、『掃除婦のための手引き書』を読んで「私のルシア」と思う読者はおそらく、小説の主人公なり作者なりに「共感」しているのではない。母親として、とか、異性愛者女性として、とか、アルコール依存症の人間として、とか、そういう読み方をするのではない。自分と同じ属性の人間を探して本を読むのはべつにかまわないと思うけど、『掃除婦のための手引き書』はそうした目的をもった読者に最適な本とはいえない。「私たちのルシア」と思うタイプの読者はたぶんそういうのあんまり求めてないと思う(少なくともルシア・ベルリンを読むときには)。「私たちの」という感覚は共通する属性とか「共感」とかで成立するものではないのだ。

ものすごく短くて、ありえないほど近い

 『掃除婦のための手引き書』には二十四の短編がおさめられている。一冊に二十四というのはけっこうな数で、つまり一編一編が短編としても短いほうなのだ。長い小説はある程度読まないと全体のうねりが体感できないことがあって、だからその作家のヴォイスを感じるのに手間がかかるといえばかかる(個人的には長ければ長いほどうれしいですが、でもそうじゃない人もいっぱいいる)。短い話は長い話に比べて作者のヴォイスをつかみやすい。

 ルシア・ベルリンの短編のキレといったら、それはもうたいへんなものだ。ばーんと連れて行かれてぼーんと放り出される。まるでワープだ。短い作品だと読み終わるまで五分くらいしかかからない。「このリッチな体験が五分!! 」と仰天する。もっとも短い作品は見開きにおさまっている。Web記事みたいな文字数である。

 小説には読者をたぐりよせるしかけがある。読者がこんこんと重い扉をノックしてギギギと開いて入るものもあれば、長いトンネルをくぐっていくものもある。しばらくドライブしなくちゃいけないものもある。長編のほうが手間がかかるというのは先ほど言ったとおりだけれど、短編でもアクセスに時間がかかる場合もある。文字数が少なくても入り口が遠いタイプの小説があるのだ。作者と読者が多くの文化を共有していないとか、設定がこみいっているとか、文章のつくりが複雑だとか、そういう理由で「遠く」なる。

 ルシア・ベルリンは近い。ありえないほど近い。なんでだよと思う。どういう種類の魔法を使っているのかぜんぜんわからない。これはもうほんとうにひとつもわからない。わからないけど体感はできる。だからちょっと立ち読みしてみるといいです。それがあなたにぴったりの乗り物であったなら、一瞬で連れて行かれるから。

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【註1】 ルシア・ベルリン、岸本佐知子訳『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』講談社、2019年6月刊行。作家自身は2004年に逝去している。生前から出版されており、同時代の作家たちに影響を与えていたが、有名ではなかった。2015年にあらためて刊行、再評価された。和訳はこれまで「早稲田文学」増刊女性号、岸本佐知子編『楽しい夜』で短編が紹介されており、『掃除婦のための手引き書』は最初の和訳単行本。

【註2】 岸本佐知子×山崎まどか 「待望の作品集刊行記念!私たちが愛する『ルシア・ベルリン』ナイト!『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』刊行記念」2019年7月19日、本屋B&B。なお、トークショーの内容は槙野の記憶によるものです。

【註3】 言うまでもなく、私の感想文はすべて私の妄想にすぎない。根拠などはない。文学を専攻した経験はなく、文学関係の教育は高校の国語までしか受けていない。評論などの勉強をしたこともない。

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