映像作品:WINDY NIGHT感想

人が創った作品へ感想文を書くことは気を付けるべきだと私は常々、思っている。

なぜなら、常に作品とは作者の個的な体験が表現されたものだからだ。だから、他人がいくらその作品を読み解いたとて、それを完全に受け止めることはできないどころか、作者からすれば、頓珍漢なことだったりもするだろうし、だいたい「あんたがどう受け止めようが勝手さ」ということだとも思う。(だからこそ、批評は感想の枠を越えていかなければならないのだ。)

さて、昨日、友人の映像作家が、映像作品を送ってくれた。
Youtubeのタイトル欄には、「WINDY NIGHT」と書いてあった。

ということで、勝手に、私の見た感想を、思いのまま、ノリのままに書いてみようと思う。(怒らないで…)

まあ、作品はリリースした限り、その名の通り、リリース(解放)なのだから、何を言われても文句は言うな。もし、本人から文句を言われたら消すので、悪しからず。(どうせ誰も、私のnote読んでないと思うけれど)

「WINDY NIGHT」
https://www.youtube.com/watch?v=GtRmBi0atUo

肯定的な感想(勝手な感想)

WINDY NIGHTというからには、恐らく、「一夜」ということだろう。複数の夜、というよりも、一夜なんだろう。多分。WINDYにはいろんな意味があるけれど、そこは「風吹く夜」ということでいいんだろう。

まず、感想を一言で言えば、「詩的な作品」に見えた。
詩的世界を映像として表現すると、こういうことになるのだろうと思う。
行間を読ませる感じだ。

なぜ、そう思ったのかと言えば、見ていると、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」という詩を、私に想い出させたのだ。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

https://pdmagazine.jp/works/nakahara-chuya/

ちなみに、中原中也について全く詳しくない上に、特段、私の好きな詩人ということでもない。だからこそ、頭の引き出しから、勝手に出てきてしまったということになる。

「WINDY NIGHT」の映像表現の中に、悲しみ、を明確に表現はしていないし、どちらかというと「静寂さ」や「静謐さ」という言葉で片付けて表現できるとも言える。

しかし、単に「静か」という片付け方を越えて、この中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」という詩が、私の中で共鳴した。もちろん、感情としての「悲しみ」ではない。云わば「そこはかとなさ」だ。(だって、感じたんだからしょうがないよね…)

作品からは、その場の「香り」や「物音」、まさに「風」と表現すべきものが、鑑賞者の地肌へ、じかに触れて、擦れて、通り過ぎていくかのような感覚。その巧みさをもってして、だからこそ、より一層、世界をカメラのレンズを通して見ている作者本人の心情の一端がかいま見える気がする。「退屈」と片付けてしまうと少し表現が乱暴な気がする。

細かいことを言うと、正直、私は、この作者特有のカラーグレーディングのクセは苦手だ。しかし、それを補って余りある、構図のバランス、動きの細やかな機微が、彼の映像センスを物語っていると思う。

だって、明確な被写体を提示していない映像なんだ。よくも、ここまで見ごたえのある画が創れるな、と素直に感心させられてしまう。

個人の偏見と否定(わがまま感想文)

さて、ここからは否定的な個人的な偏見を書きたい。悪く思うな。(ここからが本番だ。)

叙情性はあんまり好きじゃない

よく言えば、「繊細」。悪く言うと、「叙情性」に陥り過ぎていると思う。性として表現するなら、「男性寄りな中性さ」だ。

私は、叙情的な作品を好まない(だから映画もなにかコトが変化しないと見てられないタチなんです)。あくまでも叙事的に、心情や情感を表現することを是とする傾向にある。だから、文語表現においても、常に叙事的な表現に徹するよう心掛けている。(だって、人の感想とか心情なんて、行動でしかわからないじゃないですか。)

従って、一つ一つのカットはとても綺麗だし、表現したいテーマを表現できていると思うけれども、個人的には面白いとは思わない。(テーマすら、私の勘違いかもしれない。とか言い始めたら、何も言えないんで無視してます)

例えば、同じ詩的世界でも、ガルシア・ロルカのような、陽光の陰りというのか、眩いばかりの光と、暗く落とす影のようなコントラストがきついトーンが好きだったりする。

午後の五時
それはまさしく午後の五時だった

少年が純白のシーツを持ってくる
ただあるのは死だけ
意気軒高なのは雄牛だけだ
死は傷口に卵を生みつける

それはまさしく午後の五時だった

寝床は車つきの棺
面前で雄牛はうなり
部屋は苦痛で虹色に光る
遠くには壊疽が姿を現した

午後の五時

緑の鼠頚部の喇叭水仙の傷口
傷は太陽のように燃える
なんと荒涼たる午後の五時
昼の陽光の翳りの中の午後の五時

余談だが、作品を形容する際に「リリカル」という言葉がある。リリックも詩という意味なので、「ポエティック」同様に、「詩的」と訳せる。
しかし、私は明確にと「リリカル」と「ポエティック」を使い分けている。

音楽で表現すると以下のようになる。

リリカル1:Dulce Pontes「La Grima」

リリカル2:王菲「我願意」

リリカル3:Pablo Alborán「Perdóname (con Carminho)」

ポエティック:「Tme After Time」


ポーン、と抜けている感じ、これが「リリカル」で、私が一番、大切にしていることなのだ。

黒澤明の「隠し砦の3悪人」のラストシーンにリリカルが詰まっている。他にも、これと共鳴する感覚は「カッコーの巣の上で」「グッド・ウィル・ハンティング」「フォレスト・ガンプ」に抱いている。

「画」について

次なる偏見は、「画」だ。

写真的な映像に仕上がっているから、これはこれでアリなんだろうけれども、とはいえ、なんか古臭さを感じるのだ!往年の巨匠の作品を感じさせすぎる。威風堂々としすぎとでもいうのか。

私自身、亀倉雄策とか、往年のデザイナーの作品、大好きだし、憧れる。影響を受けてないとは云わない。しかし、今、同じことをやろうとは敢えてしたくない。(別にこの作品が何かを模倣しているとは言わないけれど)

過去の名作の映像は、まっすぐで正面から堂々としたものがあり、それは、もう本当、かっこいい。しかし、今、それを踏まえて、新しい表現で普遍性を求めたい。(私の勝手な願望)

ともかく少し、古めかしさを感じてしまったのです。

次回作に勝手に期待すること

ということで、次の作品を期待しつつ、待とうと思う。
なので、勝手な希望を書いておこう(勝手すぎる)。

まあ、こんな作品を見てみたいよ、個人的に。ということなので。

器の広い「抜けた」作品を見てみたい

広い世界観が表現された作品を見てみたい。もっと大きな存在。例えば、WINDY NIGHTという題材ならば、都会だけではなく、海とか山とか畑とか。

取り留めのある作品も見てみたい

作意に満ちあふれたものが見てみたいのです。

以上、書きなぐり

書きなぐっての感想で申し訳ないと思いつつ、見せてくれたので、文章にまとめて、伝えてみようと思って、書いてみました。
デザインやろうと思って、つい観たら、感想書かなくてはと思い、書いちゃった。あらららら。

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