コンセプチュアルアートと、NFTアート

私はコンセプチュアルアートとNFTアートについて否定の立場を取っている。理由を書こう。

芸術とはなにか

アート(ART)とは、アルテ(ARTE) ー 即ち、技術を意味するラテン語を語源とする。技術とは、アーティストの努力や資質で成しうるものである。アートには内容・形式・伝達の3本の柱がある。内容とは表現したい思想または感情を指し、表現形式とは内容をどのような形式で表現するか、伝達とはそのままの意味である。

例えば、俳句の「古池や 蛙飛び込む 水の音」を例に挙げよう。

この場合、表現内容は、古池に蛙が飛び込む、というなんの変哲もない一見平凡そうに見える情景が深い趣を持って捉えられる、ということになる。
表現形式は、俳句である。

一見、表現形式はなんでも良いように思える。この句を音楽表現や視覚表現(絵画、映画など)にしてもアートたり得る。
が、しかし、実は表現形式というのが非常に重要な位置を占めていると私は思う。作品が素晴らしいかどうかに直結するからだ。

音楽だからこそできる表現や、映画だからこそできる表現。油絵だからこそ、俳句だからこそ、彫刻だからこそ..... 〇〇だからこそ、という表現形式こそアートをアートたらしめている。

芸術とは技術だ

世界をより精緻に捉えることで、より思想は深淵になり、感情は複雑化する。また、人それぞれ見ている世界が異なるため、他人が抱いた思想や感情は興味深かったり、あるいは共感を得たりする。これらが表現内容の意義であり、表現形式によって表現したいことの原点になる。が、この表現内容は、即、芸術たりえない。アイディアは実現によって意味がある。むしろ、表現内容が単純でも表現形式が優れていれば立派にアートになる。

例えば、「千と千尋の神隠し」は、異世界冒険譚であり、古今東西、類似するストーリーや内容は民族神話を含めて多くある。内容自体はさして、真新しいものではない。しかし、アニメーションという表現形式を突き詰めることによって、優れた作品になっている。

また別の例を挙げよう、子供の書く絵は自由でのびのびとして面白い、伝えたいことがストレートだったり、そんな発想があるのか、と脅かされたりする。また、未来の才能の萌芽を見ているようで、すんなりと受け入れられる。しかし、だからと言って、そこに文化史的な価値があるかといえば、例外を除いて、ほぼない。(稀にモーツァルトのように実力と資質に裏打ちされた人間もいる)

理由は簡単で、表現形式が突き詰められていないからである。価値を裏付ける技術がないのだ。ピカソの絵は子供が書いているようだ、と云う意見の反論に、実はピカソはめちゃめちゃ絵がうまい、というのは有名だが、確かな実力と素養がある上で、それを崩す。というのは古今東西、アーティストが乗り越えるべき壁としてあり、これも表現形式を突き詰めることに他ならない。日本語にも守・破・離という言葉がある。

元々、絵の練習をしたことがなく、あるいは才能なしに、うまく描けていないということと、実は絵をうまく描けるが、表現内容を最大限に表すために、わざと下手らしく描くということとは、全く別の意味を持つことになるのだ(実際、後者を下手とは言わない)。

このように、実はうまいのだけれども、あえてこう書く、ということだけが表現形式の本質ではない。アンリ・ルソーのように本来、絵が下手で、描いてある絵も下手だが、評価されているケースもある。ルソーの絵の批評をするつもりはないが、彼の絵の何が素晴らしいかを、あえて言葉で表現すると、彼の絵を特徴づける癖 ー 人物が浮いてみえるほどデッサン能力がないことと、草木を書くことについては異常なまでに執着があること ー がジャングルというモチーフによって、最大限に活かされたことによって、絵そのものも蠱惑的な異彩を放っており、且つ、新しい視覚表現が生まれた。ということである。天然・ルソーは、あまりの下手さが故に天才・ピカソに大きな衝撃を与えた。その時代を代表するアーティストになったのだ。

流派からイズムの時代へ、イズムからコンセプチュアルの時代へ

本来、表現形式がアートをアートたらしめる重要な位置にいたのが、時代が近現代になると、表現内容に重心がうつった。理由はいろいろあるが、とりわけ、<思想>にフォーカスがいくことになる。

それまでのアートは、フランドル派、印象派、などの<流派>で語られる。流派は流れを継ぐという意味だから、流派間の優劣や正誤はない。例えるなら、四川流ラーメンも、日本流ラーメンも、ラーメンとしては別物だけれども、どっちも美味しいね、という具合である。どちらが正しいか、という問題ではない。

しかし、近現代に入ると、アートは<主義(ism)>で語られることになる。フォービズム(マティス)、キュービズム(ピカソ)などだ。主義は<自己>や<個人>という近代的概念に屹立する。主義が自己的であるならば、他者否定は必然的な帰結だ。私の主義はこうであるから、あなたの主義は間違っている、という具合になる。

<流派>には師匠の存在やその流れを汲む歴史がベースにあり、表現形式を突き詰める行為である。そして、他者の存在を寛容する。

対して、<主義>はどこまでも個人的である。表現形式そのものを破壊する行為である。そして、他者の存在を否定する。

私は、まだ、2000年台初頭のイズムは全く否定していない。むしろ、私が好きなアーティストはその時代に多い。それまでの表現形式を破壊することで新しい表現を生んだのは事実で、それによって、多くの可能性が開かれたさらに、実際の表現に技術が伴い、表現物としての魅力が備わっている。

しかし、それから時代がくだり、現代に入ると、その流れを汲むコンセプチュアルアートが生まれる。これが問題である。芸術を観念で捉えはじめる時代に入ったのだ。(誤解を避けるために言うと、1960年台の現代アート全てを否定しているのではない。マークロスコ、ジャスパージョーンズ、アンフォルメルなどはとても良いと思っている)

芸術を観念で捉えることの馬鹿馬鹿しさ

芸術を観念で捉えるということは、表現形式の無視に近い。本人たちからすれば、いや、この表現形式だからこそ、できるんだ、という屁理屈が飛んでくるかもしれないが。

芸術は感性によって捉えられるべきであり、観念で捉えることほどナンセンスなことはない。観念とは言葉である。それなら、言葉を使えばいいじゃん、ということだ。

「あ〜、あの夕日、とっても素敵。でも言葉では表現できない。。どうやったら表現できるだろうか。。。あ、音楽なら私の表現したいことが表現できるぞ!」というのが、芸術の発端である。

言葉では伝わらないものをどうやったら伝わるか、それを模索し、実際に表現することが芸術のあるべき姿である。と私は思う。

写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉を借りるなら、
「写真とは、頭と心と目のフォーカスを合わせること」と云う。頭は、脳で考えることである。心は、心に突き動かされる衝動。目は、見たものの美しさ、である。技巧と論理、心と衝動、そして美。この三位一体こそが芸術の本質と言える。そして、これらは表現形式を通して具体的に表現される。

だから、コンセプチュアルアートは芸術的に無意味だ。ということだ。

コンセプチュアルアートが高値をつけるのは、単に、アート界隈の思惑があるというだけだ。そのアートに高値をつけないと、末端のアートの相場が安くなりすぎる、とかそういった理由で、作品が素晴らしいからではない。

バレンタイデーでチョコを送る文化と似たようなもので、あれは製菓業界の思惑で生まれた文化だが、それに近い。アートそのものにはなんの価値もない。

それを持ち上げる消費者がいるのは、もはやアートがどん詰まりになっている証拠かもしれない。

コンセプチュアルアートとNFTアートのうさんくささは全く一緒(結論)

コンセプチュアルアートに価値は全くない。というのはNFTアートにも通じるところがある。

昨今の高値がついているNFTアートも業界の思惑で高値がついていたりとか、そういった政治的、経済的絡みが大いにある。コンセプチュアルアートの市場と全く一緒である。

簡単にいえば、より良い作品を創ろうと求道的に芸術を追求するアーティストと、その作品を鑑賞して、素直に感動し、賞賛する聴衆、というのが芸術活動の健全なあるべき姿だと思いませんか???

対して、NFTやコンセプチュアルアート市場は、金に目が眩んだ三流以下のエセ・アーティストと、これまた金に目が眩んだ投資家と、それらを煽る業界構造の自己利益の奪い合いという醜い惨状がそこに広がっている。しかも、デジタルだから現実での生産性はほぼゼロというありさまだ。そして、そういった現実を見抜くことができない、ボンクラマスコミ共がハエのように寄ってたかって、虚像まで創りあげちゃうもんだから、もはや手に負えない。

この姿こそ、まさにデカダン(退廃芸術)と云えちゃって、コンセプチュアルアートみたいなもんなんじゃなかろうか???

唯一、NFTアートで面白いのはテクノロジーを利用していることである。テクノロジー(技術)の進化が新しい表現形式を生む。新しい表現形式が生まれれば、新しい芸術作品が生まれる余地がある。ということだ。

新しい表現形式を代表する優れた偉大なアーティストは文化史に名を残すことになるだろう(予言)

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