日本語には一音づつ意味がある?一音一義説について
日本語の一音一音には意味がある。という説を一音一義説という。音義説とも言う。
例えば、「あ」という音には、"明るい"などという意味があり、"木"を意味する「き」と組み合わせると、"明るい木"、即ち、"紅葉"、即ち「あき(秋)」という意味になる。と。
また、「あ」とは、"明るい"に連想し、"物事の始まり"をも意味するなど、その一音が象徴する意味を連想ゲームのようにして考えることができる。
藤原姓には特別な意味が込められている
私が、この説を知ったのは父の家の書棚にあった神道に関する本だった。題名は忘れたが、日本文化に関して、多くの示唆を与えてくれた本だった。
藤原家の「ふぢはら」という言葉は、富士山とも繋がると書かれていた。
「ふ」とは、新芽がふっと噴き出る様などの"勢い"を表す音という。「ぢ」とは、そのまま"地面"を表す。よって、富士山の「ふぢ」とは地面から噴き出ている様を表すと共に、季節が巡るたびに新芽が生命を吹き返す「不死」の意味も持つという。
よって藤原という姓は、とても特別な意味を込められたものである、と。
※「は」と「ら」の意味については恥ずかしながら失念しました。どなたかご存知の方、書籍題名を教えてくださると幸いです。
「ま」が中々、面白い。
確かに面白い説だったので、色々と自分なりに思索を巡らせてみた。
例えば、「ま」。これは、"魔"を意味する言葉ではないだろうか。この場合の"魔"とは悪魔などの意味ではなく、もっと神妙で捉えどころのないケイオス(chaos)の状態を指す。科学的方法論によって分節し、顕在意識に照らされた明るい世界ではなく、顕在意識外の未分節の魔術的世界の状態のことだ。
古代、祭りとは祈りであり、呪いであった。「魔を吊る」から「まつり」。祭りには神へ捧げる舞踊(神楽など)が行われる。「舞い」とは「舞う」を名詞化した言葉。では、「舞う」とは「ま+う」であり、魔を動詞化した言葉ではないだろうか。
「お」は、奥という意味だろう。「お」を動詞化すると、「お+う」となり、"追う"。となる。「追う」から転じて同じ発音で「逢う」とも読む。「逢瀬」のような読みだ。
魔を逢う(追う)時刻を「逢魔が時(おうまがとき)」と呼ぶ。夕方の薄暗くなった時刻を言う。昼でもなく夜でもない、混沌一体となった未分節のケイオス(chaos)の時間帯に魔と逢うからだ。
「魔・奥・時」。ひらがなを象徴的意味として捉えると、意味が繋がる気がする。
日本語の動詞化については別記事にまとめています。
若者ことばは言語の成立過程じゃないか?
言霊に思いを馳せる
こうやって、日本語の言葉の意味を考え、それぞれ一つ一つに意味を見出すことは、とても興味深い。
遠い先祖たちがどのように言葉を捉え、それを現代まで数珠繋ぎのようにして伝えていったか。そのことを想像するロマンがあり、言葉を大切に扱わなければならない、と神妙な気持ちにさせる。
まさに一音一音に祖霊が宿っている。だから、言霊なのだ。
一音一義説、非科学的だった。
ところが、この音義説。江戸時代中期から後期にかけて、国学者たちによって研究されたものの、現代の日本語研究では信奉者はほぼいない状態だ。
その理由として、大きく挙げられるのは、一音づつの意味付けに対し客観的裏付けがないので、あくまでも個人の印象や感想によって恣意的に左右される、という点だろう。
人によっては、一音の意味が主観によって捉え方が異なり、各説同士で矛盾が発生する。その矛盾を晴らす手立ては妥協点の模索に終始することとなり、何らかの決定打になる証拠資料の発見までには至らないのだ。
個々人の主観による恣意性が含まれてしまっては、科学的アプローチたりえない。よって、科学的価値に乏しい、ということで、日本語研究者からは無視されている状況にあるようだ。
しかし、どうだろうか。確かに科学的アプローチによる研究価値はないように見える。だが、博学的観点からすれば、日本文化を理解するための教養の一つとしては個々人が考えることに有用性はあるように思える。
誤解を招かぬよう。例えば、「水からの伝言」のような疑似科学を我田引水したスピリチュアルなどを肯定するつもりはない。
物理学者の田崎晴明氏による批判「水からの伝言を信じないでください」
しかし、音義説のような文系的科目においては個人の主観にせよ自説を持つ、ということには意義がある。もし、間違えていたことが判明したならば、考えを改めればいい。
少なくとも、成る程。と自分が腑に落ちた事柄があれば、その悟りは必ず他の本質を見抜く地力になる。
大悟十八回、少悟数知れず。
白隠禅師
日本語の構造について深く知る
そもそも、音義説が成り立つためには、日本語の発音の特殊性が関係している。
日本語は、英語やそのほかの言語に見られるような複母音ではなく、世界的に類い稀な単母音であるからこそ、音義説が唱えられる。
こうした日本語の構造に実感を持って捉えるには、音義説は役立つのではないだろうか。
日本語の美しさの再発見をするかもしれない。
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