10年とかいう勝手な節目
今日は3月の11日です。
この日が、なにか日本中を包む、大きな意味のある日付となったのは10年前のこと。
(※以下、地震等に関する描写が出てきます)
私は当時小学生でした。小6の卒業を間近にひかえお祝いの品を作っている最中に起こりました。最初は非常に小さな揺れで、日常的なレベルのものだと思っていたところ、大きな揺れが襲ってきました。
「地震が来たら机の下に隠れなさい」なんていうけれど、地震が来たら机の下に隠れた経験なんてその日までありませんでした。何かが落下する危険性の高い大きな地震には幸いめぐいあったことがなかったので。でも、その日は「机の下に隠れざるを得なく」なりました。立てなかったんです。強すぎて。机の上から、文房具が落下し、ノリやハサミも落下し、潜っていても危険でした。幼馴染は泣きながら、泣いている別の生徒を励まし、先生のいうことを聞かないことで有名だった私の学級も途端におとなしくなってしまいました。
私は、そのときの窓の外の光景を今でも覚えています、電線がめちゃくちゃたるんでいたんです。大きな波を打っていました。空は薄暗く、夕暮れを思わせるような色をしていました。建物の揺れ方は、建物を大きなクレーン車につかまれて建物ごと揺さぶられているといった感じ。当時、机の下にもぐっていたわたしは、ひとりでそんな光景を考えていました。そしてちょっぴり賢かったのもあり、東北の地震に違いないと感じていました、つい二日前に大きな地震があったことも知っていながら、どうなっているんだ上布をくれ!と思っていました。
なんて話を、今の小学生にすると、「うそ~!」とちょっと笑われます。私は当時も現在も東京にいますので、小学生からすると歴史上のひとつの出来事でしかないんだなと痛感します。
揺れがおさまり校庭に避難するまでの間にも大きな余震が襲ってきました。地面は一部ひび割れてしまい、校庭の一部は屋外プールの水でびしょびしょになっていました。屋外プールと校庭のあいだにもそれなりの壁があったと記憶しているので、揺れの大きさがとてもリアルに伝わる映像でした。
帰宅後、テレビを見たとき人生で初めて「黒い波」をみました。その後も何度も見ることになる光景です。
その日の夜、福島県の二つの村に避難指示が出されたのをよく覚えています。その時は、よくわかりませんでした。夜になって避難する理由が。
夜も怖くて、全ての部屋の明かりをつけたまま寝ました。明かりがつく環境にいたこと、やはりありがたいことであったと今ならば思うことができますが、当時はそんな余裕はありませんでした。寝ようと思っても、携帯やテレビから緊急地震速報のサイレンが聞こえてきて、寝ることをあきらめようとおもいながら疲れ果てて寝てまた起きてを繰り返し翌日になりました。
翌日、朝起きると全容が少しずつ明らかになっていました。まず、昨日見た「黒い波」は多くの人の命を奪っていったこと。津波が到達した地域は、全てが流されていました。
私の家はまず、ご飯を買いにスーパーに行きましたが、もぬけの殻です。お菓子売り場までも空っぽになっており、買うものがないスーパーってすごいな…なんて思っていました。コロナ禍でも同様の光景にちかいものを見ましたが、それ以上でした。本当に買えるものがなかったです。
あとよくわからない「原子力発電所が爆発し大変なことになった」を小学生の頃の私は目にしました。この爆発がもたらした影響を知るまでにあと数か月、数年かかります。
あのころは、3.11を経て日本が大きく変わると思っていました
きっと変わる兆しもあったし、変わってきたところもたくさんあります
被害のあった地域では、かさ上げが進み新しい家屋や店舗が少しずつ増えてきたようです。
一方で、いまだに故郷に帰れない方も、家族を見つけられない方もたくさんいます。
10年がたち、「節目」といわれ、毎日のように震災を振り返る、この10年を振り返る映像、報道がなされています。でも明日からは、きっとしばらくはまた触れられなくなります。
「忘れない」というけれど、昨日までも、そして今日を含めこれからも「忘れられない」「忘れることができない」人がたくさんいて、その方々に向かって「忘れない」って、なんかちょっと、上から目線だなあなんて思ってしまいます。自分に対しての反省でもあります。
毎日毎日、この震災と向き合う必要は、ひとりひとり全員にあるわけではない。でも、毎日毎日向き合っている方々がいることは、ちょっとでも心の片隅に日々置いておきたい。
過去でもあって、今でもある。そして未来でもある。
10年がたち、明日から11年目が始まる。
わたしは明日も日本に生きる
生きて自分なりの体験を伝えていく。
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