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[歴史読み物]関東争覇の実態

使い回しイベントちゃんですが、せっかくなのでここで実際の歴史において関東争覇がどのように展開されたのかを少し話してみようと思います。戦国布武の話は1ミリもありません笑


1. 大誤解? 関東管領とは何なのか

最初に誰しもが知るトピックについて話しましょう。
つまり、長尾景虎が、上杉憲政の養子になり上杉家の家督と関東管領職を継いだので、関東を支配する大義名分ができたとする通説です。

関東管領は室町幕府の役職です。
ちなみに室町幕府には管領という役職もあり、細川氏などがついています。位置付けは幕府のナンバーツーです。

つまり関東管領とは、関東の管領、関東のナンバーツーということになります。
ナンバーワンの役職が他にあるんですね。
ですので、関東管領なんだから関東は全て上杉のものだ、という感じで受け止めるのは、なかなかの誤解です。
もちろんこれは程度問題であり、なんの正当性もない越後長尾家時代よりはマシになっているのは当然です。
注意喚起したいのは、あくまでも、他に関東支配の正統性を主張できる存在がいる、という点です。

2.室町幕府での関東地方の権力構造

さて関東管領がナンバーツーにすぎないという話を前項でしました。
ではナンバーワンは誰なのか、という話になりますよね。
これは「鎌倉公方」(鎌倉将軍)と呼ばれる存在がいました。初代は、足利尊氏の次男、足利基氏です。

室町幕府は地方分権体制を取っており、「奥州探題」や「九州探題」などの役職は信長の野望などでも採用されているように、それぞれの地方にまとめ役を置いていました。
その地方組織がかなりの権力を持つ、地方分権体制を敷いています。

なぜ室町幕府がこのような地方に丸投げ体制になったかと言うと、成立過程で南北朝時代などを経たこともあり、中央での権力闘争が長く、地方まで直接支配をする暇も力もなかったという説が一般的です。
これに関しては今ジャンプで連載中&アニメ化されている『逃げ上手の若君』を見ることである程度補完できるのでぜひオススメです٩( ᐛ )و

というわけで、足利一族の鎌倉公方を関東のトップとして、上杉家が関東管領という体制でスタートしたわけですが、次第にこの両者が対立を深めていきます。
歴史物を読むとよく見る流れですね〜。

3. 戦国時代よりも前から戦乱だった関東

鎌倉公方が足利尊氏の次男の系統であることを先に述べました。
すると、室町幕府の将軍家とはほぼ同格であるという考えをする人たちが出てくるわけなんですね。
第4代鎌倉公方である足利持氏は、第6代室町将軍である足利義教に徹底して反抗的でした。元号が変わったのに前の元号を使い続けたり。
足利義教はくじ引きで将軍に選ばれた逸話があるあの人です。クジなんかで選ばれた元僧侶やないか、という侮りもあったのかもしれないですね。

この点、御三家という名を与えても徹底的に将軍家の下であることを示し続けた&御三家同志が牽制し合うようにした徳川幕府は、室町幕府の失敗から学んでいるわけです。閑話休題。

そんなこんなで対立を深めた室町幕府と鎌倉公方の争いに、関東管領上杉氏は、幕府側で参戦します。
室町将軍&関東管領  VS 鎌倉公方 というバトルです。 永享の乱 と呼びます。
まあ関東管領という役職自体、幕府の役職だし、世襲している上杉氏は越後守護でもあるし、幕府側の言うこと聞くよねそりゃあって感じです。

結果的に鎌倉公方、足利持氏は戦死し鎌倉公方は一旦ご破産になりました。さらに混乱の中で時の関東管領も辞任。
1439年の出来事です。応仁の乱よりも前です。戦国時代はもうちょっと先ですね。

しかしお忘れでしょうか。室町幕府に地方を直接支配する能力はなく、そのため鎌倉府と鎌倉公方を置いていたことを。
それを幕府自らが滅ぼしてしまったので、その後に起きるのは混乱、混乱、ただひたすらに大混乱です。
関東管領上杉家が事実上の関東のトップとしてがんばりますが(鎌倉公方がいなくなったのでナンバーツーが実質ナンバーワンになった感じ)、滅ぼされた鎌倉公方、足利持氏の子供達を担ぎ上げて反乱を起こす勢力が現れたり、豪族同士の小競り合いが絶えませんでした。
最終的に幕府は、永享の乱から約8年後、1447年に鎌倉公方を復活させます。

そして新しい鎌倉公方は持氏の子なわけですが、当然ながら、その前に自分たちとバトルした関東管領上杉家を信任するわけがないですよね。
だって8年前に親殺されてるんだぜ? なんなら親の仇じゃん?

となると面白くないのは関東管領上杉家。それまで鎌倉公方が不在の時は自分たちがやりたい放題だったのに、遠ざけられるようになったら嫌ですよね。
そして今度は関東管領上杉家の家臣達が暴走を始めます。
上杉家の家宰(家臣筆頭くらいの感じで大体おk)であった長尾氏と太田氏が、第5代鎌倉公方足利成氏を襲いに行ったんですね。
ちなみに戦場は江ノ島です。江の島合戦
主人の主人をぶっ殺しに行くの、松永久秀より先がいたんですねー。

ちなみにサラッと書きましたが、ここで下剋上だぜ〜をやりにいった長尾氏は後の上杉謙信を産む越後長尾家の本家筋、太田氏は数代後に有名な太田道灌を産みます。
役者が繋がってきましたね。

そしてそして1454年、今度は、いじめられてた第5代鎌倉公方の足利成氏が、関東管領上杉家の当主を暗殺
再び全力全開の大バトルが巻き起こります。なんと30年近く続きました。

この辺で少し話をシンプルにまとめていきたいのですが、まあ次の年表が一目瞭然でしょう。

1438〜1439  永享の乱。鎌倉公方が一度断絶。
1447  鎌倉公方復活
1450  江ノ島合戦。鎌倉公方 VS 関東管領 の構図が止まらない
1454〜1482  享徳の乱。鎌倉公方が古河公方へとお引越し。
1487〜1505  長享の乱。関東管領扇谷上杉家と山内上杉家の大バトル。
1493(参考) 北条早雲の伊豆討ち入り

関東の争乱

そうなのです。
応仁の乱(1467〜1477)より先に、関東はずっと戦乱状態にあり、そしてそのまま戦国時代へと突入していくのです。
参考に載せていますが、北条早雲は、この大混乱の中をうまく利用して関東に勢力を築き上げて行きました。

4.それぞれの大義名分

さて話が長くなってしまうので、再び、みんながよくしる戦国時代に話を戻します。
ここでは関東管領上杉謙信と、同じく関東管領北条氏康との大義名分バトルを見ていく感じになります。

おや?と思った方もいるでしょう。北条氏康が関東管領?と。
しかしこれは実際に文書に残されており、北条氏綱および北条氏康は関東管領を名乗っていた形跡があります。
最大の根拠は、後北条氏が、鎌倉公方のち古河公方の正当な血統を、形式的には主君に、実質的には支配下に置いていたことです。
つまり関東のナンバーワンに認められた俺らが関東ナンバーツーの関東管領を名乗ってよかろう、という理屈ですね。

この辺は織田信長が形式上は足利義昭を主君という形で京都に上洛したことを想起いただくと良いと思います(そして足利家側から見たらいつか裏切ってやりたくなる構図も同じ)。

前段で書いた年表の中で、めんどくさいので端折ったのですが、この間、鎌倉将軍についてもそれぞれの勢力が、「こっちが本物の鎌倉将軍だ!」と言って乱立し始めます。
これは南北朝と類似ですね。
鎌倉公方のちの古河公方、堀越公方、小弓公方など、それぞれ本拠地とした土地の名前がついています。いずれも、関東のナンバーワンってことを名乗っています。

この流れの中で、実は、上杉謙信も新たな鎌倉将軍に名乗りをさせています。
北条氏が北条氏綱の孫に当たる足利義氏を古河公方として擁立していたのですが、その異母弟である、足利藤氏という存在を上杉陣営は古河公方であると言い張りました。

古河公方:足利義氏(北条氏綱の孫)
関東管領:北条氏康

VS

古河公方:足利藤氏
関東管領:上杉謙信

実はこんな構図だよ

小田原城包囲などで上杉謙信と北条氏康の戦いは熾烈を極めていましたが、その構図は、関東管領として正義の上杉家が逆賊の北条家を倒すというような単純な構図ではありませんでした。
それぞれがそれぞれの鎌倉将軍を経て、それぞれが関東管領を名乗りバトルをしていたのです。
ちなみに上杉陣営が擁立した足利藤氏は、1562年とかなり早いタイミングで北条家に捕まって幽閉されています。将軍のカードを失った分、上杉陣営のほうが大義名分なくなった感じですね。

また、これは書くタイミングを見失ってここで書くのですが。
越後長尾氏が関東管領上杉家の忠実な家臣筋であったというのも大誤解です。
家臣筋ではありますが、越後長尾氏は守護代の立場から、越後守護の上杉家(関東管領の分家)を追い出して越後支配をしている立場です。
ここに関連して、上杉謙信の義父となり上杉家の家督を渡した上杉憲政ですが、その義祖父である関東管領の上杉顕定は、上杉謙信の実父である長尾為景から越後を取り戻そうと戦争して戦死しています(1510年)
つまり、自分の義祖父を殺した仇の息子を、自分の義理の息子にして家格とか家宝とか関東管領の役職とか全部渡しているわけで……
北条も長尾もどっちも親の仇レベルのやつらだけどギリマシなのは長尾、くらいの感覚でしかないんですよね、これ。
そもそも上杉一族も内紛ばかりでどうしようもないので。

そんな事情なので、上杉謙信が関東管領をもらうことにしたのも、彼が義の人だからうんぬんというよりかは、「関東支配の大義名分バトルで負けないカードが手に入ったぜラッキー」くらいの実利的なものが実態に近いと私は思っています。

5. 関東争覇の終わり

そんなこんなでお互いの打算だらけの大義名分バトル。
終わりの遠因は織田信長が桶狭間で今川義元を破ったことでした。
それによって弱体化した今川氏を武田信玄が食い荒らし、武田・今川・北条の三国同盟が崩壊。
北条にとって武田信玄はもう同盟国ではなく、また川中島などで武田信玄と争っていた上杉謙信にとっても、武田は警戒すべき相手でした。

というわけで北条と上杉のバトルはここで終焉、武田に対抗するため同盟ということになりました。
上杉謙信が義の人なら、武田より北条倒して関東を取り戻すべきだよなあ?という気がしますよね、という感想。フィクションは傍に捨てた方が良いでしょう。
なおこの時の同盟の取り決めで、関東ナンバーワンである古河公方は北条家が支配下に置いていた足利義氏に一本化され、ナンバーツーである関東管領は上杉謙信に一本化されました。
また北条家から上杉謙信に養子として、後の上杉景虎が遣わされることになります。

New体制

古河公方:足利義氏(北条氏綱の孫)
関東管領:北条氏康   ←これが越相同盟の条件でナシに

古河公方:足利藤氏   ←これが越相同盟の条件でナシに
関東管領:上杉謙信

一本化だ!

でもこの同盟も長続きせず、北条氏康の死後にすぐ破棄されました。2年くらいしか同盟してなかったです。
かといってすぐにバチバチ戦う感じでもありませんでした。
お互いに助け合えなかった理由として、他の敵がそれぞれいて、今更バトルするところじゃなかった感じです。

1560-1561  上杉謙信による小田原城包囲
1560  桶狭間の戦い
1568  今川滅亡
1569  越相同盟(北条と上杉の同盟)
1569  武田信玄による小田原城包囲
1571  越相同盟の破棄、甲相同盟(武田と北条の同盟)
1578  御館の乱。上杉家の家督争い(北条VS武田の代理戦争)

そして上杉謙信の死後に、北条家からきた上杉景虎が、上杉景勝と、跡目相続を争うことになるわけです。御館の乱です。

武田勝頼に代替わりしていた武田家は上杉景勝側に協力し、
北条家は当然ながら自分たちの身内である上杉景虎側に協力するという代理戦争の構図になりました。
そして武田と北条の同盟関係が崩れました。

この時、北条憎しで長尾家についたはずの元関東管領の上杉憲政ですが、なんとここで上杉景虎側=北条側に立っています。
そして上杉景勝陣営に攻められて戦死。
なんかもうめちゃくちゃですね。大義名分もなく、ぶっちゃけ勝ちそうな側についてただけじゃね?感がすごい。

6. まとめ

  • 関東は応仁の乱より前から戦乱だらけで調べると面白いよ

  • 関東管領は関東ナンバーツーの役職だよ

  • 後北条家も関東管領を名乗っていたよ

  • 後北条家は関東ナンバーワンを支配下に置いていたよ

  • 上杉謙信は義の人だから関東管領を継いだわけではないよ

  • 関東管領をくれた上杉憲政は最後は北条側についたよ

  • 義の人なんかいないよ。当時の人たちはみんな打算的だったと思うよ

そして関東争覇の実態としては、
初期は武田と北条が同盟して上杉に当たっており、
中期は北条と上杉が同盟して武田に当たり、
最後は武田と上杉が同盟して北条に当たる
そんで武田が織田・徳川にやられる
という形で、実際は三つ巴の色は結構薄いですね。

以上。

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