北海道保安防備隊概要

北海道保安防備隊(Hokkaido National Security Guard)とは、北海道の治安維持及び防衛を行う州兵的組織である。

1945年9月18日、北海道北緯43度線にて大日本帝國陸軍とソ連軍が停戦。
以降、北北海道と南北海道に分割され、43度線を挟んで自衛隊とソ連軍が睨み合う状況が続く。
1991年、ソ連崩壊に乗じて自衛隊が越境を開始し、日ソ・露紛争が勃発。一年間の紛争の後、自衛隊が北北海道を奪取し北海道を統一する。
その際に大量に鹵獲したソ連軍装備品及び米軍からの供与装備を消費するために結成された組織が北海道保安防備隊である。
結成当初は紛争後に余剰となった自衛隊員の受け入れ先となっていた。

199X年、旭川市にて暴動事件が発生し(6.15暴動、旭川暴動事件)、暴徒が火炎瓶、猟銃等を使用したため既存の警察力のみでは対処不可能と判断され、北海道保防隊に出動命令が下った。保防隊は第一普通科大隊、第一特種車両大隊を召集し出動、重軽傷者多数行方不明者3名の被害を出しつつも暴動の鎮圧に成功した。

199Y年3月、函館市にて赤化勢力主導による暴動が発生。暴徒の一部はАК小銃、RPG等を所持しており、また警察内でも離反が相次いだため保防隊に出動命令が下った。これに際し保防隊は第一普通科連隊、第一機械化普通科中隊、第一及び第二特種車両大隊、第一空中機動普通科中隊を召集し出動した。また、水上部隊としていしかり型警備艦(元しらね型護衛艦)一隻、くしろ型警備艦(元クリヴァク級駆逐艦)一隻が出動、航空部隊としてA/T-2改戦闘機三機が出動した。
民兵並の装備を持つ暴徒及び離反した警察と保防隊の戦闘は熾烈を極め、函館市内及び下水道にて壮絶な市街戦が繰り広げられたが、死者124名重軽傷者多数行方不明者11名の被害を出しつつも鎮圧に成功した。

二回の暴動後、活躍を認められた北海道保安防備隊は規模を拡大した。

20XX年、保防隊一部幹部等が「レッドパージ」を宣言し幕僚らを殺害、麾下の部隊を率いて小樽にて武装蜂起した(3.19事件)。これに対し、道知事は蜂起に参加していない部隊の全力出動及び自衛隊の派遣を要請。蜂起部隊と保防隊及び自衛隊の間で戦闘が発生した。戦火はたちまち北海道全土に飛び火し、内戦状態となった。約半年間戦闘は続き、最終的には蜂起部隊幹部が自決し幕を閉じた。

この事件を期に保防隊の縮小が進み、現在は最盛期の半分以下の戦力となっている。


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