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物語と再び出会うまでの旅、拝見しました。

物語を読ま(め)なくなったのは、人間の感情の揺れに接触したくないからだったのではないかと今では思う。それは突き詰めると、それに誘発される自分の感情の振れ幅を体感したくないという由だったのかもしれない。
https://note.com/kikionatrip/n/n920a7a8acb5e

環さんの旅と冒険が語られたエッセイ。同じ場所にいるのに、行って帰る構造にもなっている。詳細は元のnoteをご覧あれ。

「感情」はとても大切なもので、他者と接する際も、己の内面の小さな声に気づくにも、力を貸してくれる頼もしい存在です。半面、情報量が多すぎることありませんか。例えば、激怒していたり、泣きながら話す人と接すると、「伝えたいこと」に怒りや悲しみの情報も乗っかってくるので、胃もたれみたいに、要件だけ知りたい時もあります。(要件のみだと味気なく思うこともあるので、勝手なものだなと己を見ています)

そうだなあ。そんなに詳しくないけれど、活字情報なら論文は構造が決まっているから、活字からの文字情報がキツイ私の場合だと、論文のスキャン(拾い読み)なら、払う労力と受け取る知的好奇心を満たすもののバランスが良いです。(新書も準じるのですが、読ませたり売るための仕掛けや色気がある分、構造の点から見るとノイズもあります)

河合隼雄は子どもの本をとてもリスペクトなさっていて、「忙しいビジネスマンこそ絵本を。質の高い絵本は物語という意味で、良い小説と等価だから(物語は物語だから)」という趣旨の話をされていました。これを覚えていて、絵本やティーン向けの書籍でリハビリしたことも有ります。

(余談ですが、読書力が一時的に戻った時、SFを好んで読みました。「今ココ」と、出来るだけ離れた物語が必要だったようです)

問題は論文も絵本も、探して読めるようにする手間が大きいこと。私の場合は病が原因で読書力落ちているから、医師から教わりつつ、のんびりリハビリをしています。以上は、「読めなくなる」経験ですが、「読まなくなる」ことと、共通点があるかもしれないので書いてみました。

呼吸するように読んでいた人ほど、驚きますよね。読まなくても時は過ぎていくのだと気付くと。もしかすると、人生の季節とか、レセプター(仮)も関係するかもしれません。

「読まなくなる」ことは、音楽を聴かなくなることと似ている気がします。小学生が「うっせぇわ」の流行に熱狂出来るのは、作品の魅力だけでなく「同時代の流行」が初めての体験だという面もあると思うのです。彼らは平成の終わりに生まれて令和で小学生してるのですから。

私自信、熱狂はしなかったですけど「およげ!たいやきくん」や「だんご3兄弟」などのブームはあったし、刺激的な表現なら椎名林檎を聴いたことで、「うっせえわ」を受け取るレセプター的なモノが、私は既に埋まっているのかなと、己を観察しています。同じように音楽作品Aが流行って評判が良くても、心の中に他の作品やアーティストがいるから、出会わないことも多いです。

だから、20代と比較すると稀になりますが、同時代の作品にお金を払って聴きたいと思えて、繰り返し鑑賞する機会は宝物だと思っています。

もう2年前の作品ですが、私は『アナ雪』が好きで、劇場に字幕と吹き替え併せて5回通い、もっと通っておけばよかったと思っています。デジタルビデオも購入し、いつでも鑑賞できるのに。

「Into the Unknown」は幾つかの言語で聴きましたが、韓国語版を担当したテヨンの歌が心に残りました。歌う人にとって無茶な音程の上下があるはずなのですが、声量が豊かでメリハリ効いてるのが好きで、カバーなのにテヨンのために書き下ろされたかのようだと思っています。『アナ雪』はミュージカルでもあるので、音楽の使い方がとても工夫されていますね。例えば、そっと「雪だるまつくろう」のメロディが流れる演出も、心に温かく残っています。

(余談ですがアナ役の神田沙也加が、先に英語の原曲を聴き、エルサ役の松たか子に「姉さん大変です」って連絡した話が気に入っています。松たか子もプロなので、やれないとは言わず歌うわけですが、何てことしてくれるのだと血の気引いたらしくて)

もし読書にもレセプターのようなものが存在するとしたら、「良い本だけど、私の心にはあの本がもうあるから」って、席が埋まってるケースも起きるかもしれませんね。

環さんのケースを拝見すると、活字で読むと最も効率的にダイブ出来てしまうから(出来すぎてしまうから)、一度朗読とAudibleという、他者の身体性を通した読み方を経由することで、「潜れるだけ潜ってしまうのではなく、物語との心が疲れない間合いを獲得なさった」のかなと、私には思えました。

深海や宇宙みたいな深さではなく、光や命綱が届く深さだと、(環さんのケースには関係ないかもしれないけれど)レセプターが仮に埋まっていたとしても、深度と色合いが違うから「これはこれで」と受け取る場所が渋滞せずに済む効果もあるかも知れません。

現代は情報も情報に伴う感情も多すぎるし、情報量は年々増していく状況が続いています。私が静けさやアンガーマネジメントを好むのは、鎖国と出島みたいなものかなと観察しています。

「怒りの貿易はご禁制です」
「許可を受けた情報のみ、お通り下さい」

と、一旦、出島で止めておく自己防衛な気がするのです。例えば、読めば不愉快な情報は入れないとか、どなたかの訃報に接したら追悼の言葉に触れ過ぎないとか、ゴシップ・スキャンダルに関しては他者の弱さや失敗を笑うことは簡単だけど何一つ得る物は無いから避けるとか、私の「出島」は幾つかの工夫で成り立っています。

私にとって、感情は意識して大切に扱う「資源」なのかもしれないです。実際に鎖国しているわけではありませんが、心の出島を機能させておかないと、反射的に「感情」を浪費させられてしまうから。

何はともあれ、物語を取り戻す旅、お疲れ様でした。お帰りなさい。

👆ヘッダーはKeisuke@さんからお借りしました。





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