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人と神の境界線を問い、自分の課題に専念するから、私は信仰と理性が衝突しません。

宗教や自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教に阿片のような作用があることは間違いないと思う。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50241?imp=0

👆賛成。

私はプロテスタントしか分からないけど、信仰は競馬の馬が被るブリンカーってマスクと同じだと思っています。問題解決に集中することも、怖いことを目に入れないことも、使い方次第。

環さんとおしゃべりしたことを、考えていました。

双極性障害になって、独りで療養してみて、「これはアカン」と思いました。人間の耐えられる苦痛を越えてると。
https://note.com/karasu_toragara/n/n48a1094338d4

魂の救済ではなく、病の治癒でもなく(現代医学で治らないものを治せると主張するなら信じない)、パンク・破滅を回避したかった。キリスト教だけでなく、宗教はPCに例えると、メモリ増設の機能があります。祈って、祈ったことで問題や課題や心配事を、神や信仰対象という増設したメモリに「預ける」ことが出来るから。

祈りの本質は、感謝であり、「預ける」ことであるから、祈ることを知る人は強いです。何の宗教であれ。1人でも、抱え込まないから。

メモリの増設だけでなく、OSレベルで価値観の書き換えも行われます。一向一揆を僕らは歴史で習うけど、宗教は死を恐れない兵士を生み出すことも出来ます。宗教の悪用だと、私は思います。

私は、宗教を己の理性を病苦から守るために取り入れました。「神様確認しますけど、何かの間違いじゃなくて、コレが私の課題ですか?」と愚痴りつつ、問題に取り組みます。結果、父のように問題から逃げることを回避出来ました。

神学者でも宗教家でも哲学者でも無い私は、神自身を探すのではなく、「カルトや擬似宗教」ではなく、洗脳せず・反社会的でなく・奴隷にしてお金を巻き上げない宗教を探しました。

時間に洗われている方が、様々な問題を対処済みなので、伝統的な宗教を選びました。

キリスト教だけが正しいのでしょうか? 👆上記の通り、キリスト教の価値観の中では絶対的な正しさは成立します。でもカトリックとプロテスタントだって、分かり合えない点あります。例えば聖餐式のパンと葡萄酒の解釈とか。「箱」の内と外を意識するので、他の宗教でも、カルトと擬似宗教でなければ、どれでもいい。縁です。

宗教に興味を抱く少年でした。空海も真言宗も尊敬しています。ヘーゲルと空海を比較して論じるとか、クールですよね。(19世紀生まれのヘーゲルと、774年生まれの空海ですよ? 1000年違う)。「ヘーゲル 空海 比較」でググると論文出てくるみたい。当時感動したことだけ覚えてます(ひどい!)

インドで生まれた原始仏教が大乗仏教として日本で様々な宗派に枝分かれしていったのも、当時を懸命に生きた人達の足跡だから好きです。比叡山は当時の大学でもありますよね。他力本願の考えは、キリスト教と共通点があって面白いし、禅宗は母の母校の関係で、強く影響受けてます。内観とか。

修験道もあるし、神道もあるし、自然崇拝・アニミズムもあるし、祖先崇拝もありますね。

母方の祖父は仏教+祖先崇拝だと思う。祖父は孫がクリスチャンになるとは想像もしなかったでしょう。


僕らは農耕民族で、収穫を神に感謝することはあっても捧げ物は穀物やお団子などですよね。中東の遊牧民のご先祖みたいに、全焼の生贄(牛を丸ごと焼いて捧げる)はしないから、そもそも「イエスキリストの犠牲」や身代わりを、文化的に理解しにくいはず。

『旧約聖書』は失敗の歴史で、どうしても人が自由意志を使いこなせなくて愚かだから、最終的な解決として、救世主を預言したのでしょう。そして、神が人の歴史に介入したのがイエスキリストだと認識してます。『新約聖書』の時代も、例えば石打ちの刑が何か調べたら、けっこう残酷なので驚くと思う。日本も打首を晒したり村八分があったけど、異文化だと感じます。肉食の民は、なんか違うなと。

縁側でおはぎを食べる世界とは、あまりに遠い。

砂漠の昼の暑さと夜の寒さのように、一神教は白黒つける面があります。対して日本は、曖昧でAでもBでもあることを大事に出来る文化です。日本語の自由度の高さにしろ、海外から文化を受け入れて発展させることの巧さにしろ。
遠藤周作は父性的な宗教と、母性的な文化土壌のギャップに取り組んだ方ですよね。

 私は、父の引き起こした問題で苦しんだから、
 父性的なものを求めたのでしょう。
 かつ、病の療養で理性を壊されることが嫌だから、
 白黒はっきりさせる「基準・教え」も求めたのでしょう。


療養で生じる痛みに対して「アヘン」を用いるのは、命そのものである理性を守るためです。

もともとプロテスタントは奇跡や神秘を強調しませんが、私は奇跡・神秘を必要としません。聖書に書いてあることは知っています。洗礼を受けることは、三位一体の1つ、聖霊を受け入れる設定は理解しています。でも、取り出して確認出来るものでしょうか? 生き方を通して、「なるほど、こいつはクリスチャンかもしれないね」という他者の評価を受け、間接的にしか証明出来ないはずです。

処女懐胎もイエスキリストの十字架も、キリスト教にとっては必要なことです。神が人の形を取り、罪なく処刑され復活したのですから。

また、水の上を歩いたり、人を癒したり、水を葡萄酒にしたりするのは、2000年前の文化レベルで庶民が理解しやすかったから必要なのではないかと、私は受け止めています。私は文化背景違うし、奇跡は無くても通じるので。つまり、私にとって奇跡は、比喩の一種です。

いずれにせよ、考古学者ではない私は、事実確認出来ません。

おそらくイエスキリストは存在し、ユダヤ教イエス派が形成され、処刑があり、復活を信じた人達がいて、パウロの存在もあり、世界宗教へ育ったのでしょう。

でも、全部嘘でもいい

神学者や哲学者が研究してくれればいい。仮にタイムマシンを開発しても、事実確認は捗りますが、人が次元の異なる神を理解しきれない問題は解決出来ないと、私は思う。

時間と場所に縛られず、全ての人に対して無限に時間を割く事が出来る。複数の存在、例えば天使などを間に挟むのではなく、神が直接対応する。神は無限で、有史以来(キリスト教成立前も含めて)の人を愛してるわけですよね。
人間は合計何人いるのだろう。『創世記』は当時の文明レベルに合わせた物語だとして、進化論を採用すれば、最初の人間の親兄弟は猿ですよね? 突然変異なんだから。どこから、人間だとカウントするのでしょう。動物学者の領域ですか?
同一の存在(神)が、信じ難いマルチタスクを行えることを、私はイメージしにくいです。マルチタスクは今ここも含み、あらゆる時間と場所で行われます。

👆神の在り方の一面ですが、私は正確にイメージするの無理です。

奇跡や事実より、2000年以上信じる人達が続いてきたことで、私は十分。
キリスト教の価値の検証に、労力使いたく無いのです。

じゃあ、何をしているのか?
私は対人関係で、境界線を大切にしています。
信仰も同じです。

キリスト教では、神は明確に上位の存在で、人はしもべに擬えられます。(キリストが長子で、信徒は神と養子縁組した設定です。しもべのはずが、相続権持ってるのは当時の時代背景考えると革新的です)。人には人の分際があります。謙虚さだけでなく、次元が異なる。

問題を考える時に、私の課題か、神の領分か意識します。神の領分は触れず、己の課題に取り組むことは、思考停止ではなく、私の理性をより良く活用する道です。

・私の課題  →私と神で取り組む課題
・他人の課題①→その人単独で
・他人の課題②→何らかの信仰とともに
・神の課題  →私と他者の課題と重なっても、
       人が責任を負えないこと

例えば、殺人について。
犯人が捕まり刑事罰を受けるとします。
法律上、罪を償ったことになりますが、遺族は納得いかないですよね。
意思表示出来ない被害者(故人)も納得いかないでしょう。
これ、現状の法律では、人ができることを済ませてますけど、誰か責任とりましたか?

不可逆的な問題(殺したら、殺害前の状態で蘇らせ、事件が存在しなかった状態に戻せない)は、責任取れるんですか?
取れないから、賠償金など次善の策を採用してますよね。

ヒトラーやポル・ポトは虐殺してますけど、責任取りました? 人は虐殺の責任を負えるのですか? 銃乱射でも通り魔でもいい。

取れるはずがない。物なら弁償出来ることもあるけど、思い出の品なら物しか返せない。まして、人なら。仮にクローンが可能で、中身までバックアップ可能になったら、それは人なのか問いたい。そして、不可逆的な問題も解決されてない。被害者AさんのバックアップBさんを連れてきたとして、Aさんが苦しんで亡くなったことは変わらない。

悪や悲しい出来事が起きるのは、神が自らに似せて、人にも自由意志を与えたから。

自由意志の使い方を誤った場合、人間に責任が取れない問題も起きます。人は人の次元で法整備や技術革新など出来ることをしますが、限界を越える部分は、神の領域だと思う。

全知全能なら、何が起きるか分かるのに、それでも敢えて人に自由意志を与えた責任は、神に負わせるのが筋だと、私は考えます。

この立場だと、どれほど不条理があろうと、人間の次元で自分の課題に集中出来ます。



Thank you for taking the time to read this.