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敬意を持って他者と関わるための、最初のステップ。

でもどんな経験も悲しみや絶望も、その人が「意味がある」と思えば、そこには意味があるんだ。
いつかは終わる人生だと誰もが知っていて人を愛したりすることも、花が枯れるとわかっていて寝室に飾ることも、同じなんだ。
https://note.com/yumehana_san/n/nb2e1136daaeb

自己決定と、心理学の境界線の意味で、正しいです。「お節介」自体が、自分と他者の責任の線引きを踏み越えているので。

そう言うと、note書いてくれた夢花さんはともかく(困らないけど)、考え方に慣れてない人は「冷たくない?」「ロボットみたい」という反論も出ます。「せっかく親切にしたいのに(して上げようとしたのに)」と心の中で思ったかもしれない。善意なんだよと。

昔、ほぼ日の糸井重里さんが、たぶん今日のダーリンだったと思うけど、あまりにも色んなことを言う方が多過ぎて、「自分の行為に『せっかく』を用いるのはどうかと思う」という趣旨の指摘をされたと記憶しています。また、『地獄への道は善意で舗装されている』という諺もあるように、善意が望んでいない結果を招くことは事実です。

なら、私達は他者と交流することは不可能なのでしょうか。私はそうは思いません。

苦しみや困難が見えて、力になりたいと思ったら、境界線を踏み越えないようにしながら、ドアをノックします。「私が見ていて辛いのだけど、何か出来ることはありますか?」と。もちろん、比喩で、声の掛け方も工夫します。

応答は無いかもしれない。余計なお世話だと言われるかもしれない。それは、タイミングが違うし、手を貸す相手が私ではなかっただけの話。善意を善意として手渡すには、関係性を作る必要があることを理解しておくと、伝わらなかったり拒絶されて驚かずに済むかもしれません。

人は自分で考えて決めたいし、その人の責任において決めた意味を、その人の人生の責任を負わない他人がどうこう言わないことは、心地よい関係性を育てる第一歩だと思うのです。

👆ヘッダーはdonguriさんからお借りしました。

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