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アフリカにも特異解はある

アフリカは人がいいとよく聞くけれど、本当だろうか。
日本人は礼儀が正しいというけれど、本当だろうか。

こんなことを考えたのは自分が働くルワンダのレストランでは、自分が会釈すると笑顔で返してくれたり、最高においしかったと伝えてくれたりする人が多く、快く接してくれるようなお客さんばかりだからだ。

自分が働いているのは、どちらかというとルワンダに滞在している外国人や、現地でも富裕層といわれる人たちがよく来る場所なので、もしかすると顧客層などにもよるのかもしれない。ただ、それ以外でも全然知らない子供がHeyと呼び掛けてきて、ハイタッチのような握手のようなアフリカ独特のあいさつをしてくれたりすることも少なくない。

日本ではいい意味でも、悪い意味でもチェーン店などが多いこともあってか、血の通った店員とお客さんの人同士でのコミュニケーションはアフリカに比べて多くはないと思う。そのこともあってか、いわゆる顧客側からのクレームや、店側からの過剰なほどの謝罪なんかもかなりあったりする。

ただここで言いたいのは、決して日本人のお客さんのほうが実は礼儀がよくないとか、アフリカは人がいいから素晴らしいとかではなく、結局は、個別具体の事例に落ち着くのではないかということだ。アフリカでも、すさまじくサービスが悪く、ずっとへらへらしているような店も存在するし、日本もサービス精神が素晴らしく、とても居心地のいいコミュニケーションをとるような店は数多くある。

たとえ、人種や国籍といった表面的な違いがあっても、あくまで最小の単位は、その人個人なのだ。そう言った表面的なわかりやすい違いを取り上げて、あたかも共通項を取り出したかのように一般化してしまうのは簡単だ。でも大事なのは、そういった上っ面ではなく、その人やその店そのものを見ることではないかと思うのだ。

確かに一般化することは便利だ。何かを判断するうえでの基準となりやすく、自分の危険も回避しやすくなる。ただ、一般化することで、手のひらからこぼれ落ちてしまうものごとがあることについて常に自覚的でなければならない。

例えば、よくあるのは外国人滞在者が増えると日本の治安が悪くなるといった議論。わかりやすいからすべての在留外国人を枠に当てはめて、外国人が増える=犯罪率が増加するという、わかりやすい公式をつくる。そこで、たまたまあてはめられた外国人が偏見の目にさらされるということは、少なくないだろう。

でも実際に本当に犯罪を企てている人なんて本当にわずかだろう。それなのにそんな偏見の目にさらされるのなんておかしくはないか?

あくまで僕らは外国人というようなわかりやすく分類可能な枠から入って、その人をジャッジするのではなく、その人自身の行動や、その人自身との対話から、どんな人なのかということを判断するべきじゃないのかなあと思うのだ。

これはあくまで一例で、アフリカなどの地域、それぞれの信じている宗教、信条、性別など、身近にいえば学歴や、就職先など、自分たちにとってあくまでわかりやすい枠に、その人を勝手に当てはめて、一般化して公式化してしまうのは簡単だけど、それでなんでもわかったきになるのは、とんだ勘違いだ。人間はもっと複雑で、それぞれの個体がオリジナルなんだ。

とはいえ、自分もきっと気づかぬうちに、何かを一般化してしまう公式化して、偏見を生み出してしまっているような気はする。ただ〇〇=××という公式を見かけたら、ほんの少しこれには当てはまらないパターンも絶対あるぞと、意識するだけで、すこしだけ世界は優しくなれるんじゃないかなと感じた。

ほんとうに描きたかったことから、ずいぶんそれてしまった。またそれについては今度書こう。読んでいただいてありがとうございました。


大阪大学の理系学生(休学中) アフリカが足りないという言葉に魅せられ、ルワンダに4か月間のインターンシップに来ています。主にこっちでの生活で感じることを徒然なるままに綴っていきます。