引き寄せって言葉に違和感
引き寄せとか、願望実現とか、人生をより良くしていく方法とかが大好きだった過去の私。
目まぐるしく価値観が変わっていった結果、引き寄せって言葉に「?」を感じるようになった。
人は、良い事(とされる事)・望む事や物・思い通りの事が起きた時に主に「引き寄せた」という言葉を使ったり、そう感じたりする。
でも実のところ、今自分が望んでいないと感じる現状や、嘆かわしいと感じる現実さえも全部自分で創造している。つまり引き寄せている。全てを、森羅万象を引き寄せている。何もかも叶っている。
そう腑に落ちてから、より良いとされる現実の引き寄せを望んでいた自分が実に滑稽に思えてきた。
一般的に悲しい・辛い・しんどい・厳しい・理想とかけ離れている・望まないとされる体験だって、楽しい・嬉しい・幸せ・望ましい・理想的な体験と同じように、味わってみたくて今ここに生きているのだから。
良くなろう、変わろうとすればする程、反対方向へ向かってしまうこのパラドックスの世界で、「良くなろう」とする事ほど無駄で、しんどくて、それでいてこの上なく刺激的でファンタスティックな遊びはない。
良くなりたいという気持ちがダメという事を言っているのではなくて、自分にだってその価値観がまだあるからこうやってこの文章を書いているわけで。
伝えたいことは、こう思ったらダメ。ということではないと明確に記しておきたい。
その真逆で、実はどんな感情も願望も現実もダメどころか、完璧であり完全であるということを私は言いたい。
良くなろうとしてもいい。
今の自分を否定してもいい。
変わりたくてもいい。
変われない自分を否定してもいい。
所謂「頑張る」体験を楽しんでいい。
それと同等に、
良くなろうとしなくてもいい。
変わらなくてもいい。
今の自分をそのまんま受け入れてもいい。
どちらの体験も自分が深いところで望んで創造しているのだから、何を体験しても尊い体験です。
例えばスカイダイビングという体験と、スキューバダイビングという体験に上も下も、良し悪しもない。
空から飛ぶか海に潜るかの違いだけで、そこに価値の差はない。
その体験や現実はただそこに在るだけで、ただ起きているだけ。
そこに良し悪しをつけてジャッジいるのは自分自身であるということ。
自分が創造主として全ての体験を、現実を選んでいることを受け入れると、どんな出来事もただ起きては終わっていくだけの事であり、それを体験しているだけであるというニュートラルな視点に立つことができる。
こうしてこの文章を書いている時点で、この事を完全にまだ受け入れられていない3次元的な自分が存在していることの証明になっている。
良くなりたいとする自分と、全ての現実の創造主としての在り方を選ぶ自分がどちらも私の中にいる。
でもそれすらもただその状態であるだけ、そういう経験を今しているというだけ。
なんて中途半端な!と否定することもできるけど、ああ今はそんな気持ちなんだなと淡々と受け流すこともできる。
流れに身を任せて今の体験を、感情を味わい尽くすだけが楽だ。
味わい尽くしたらどうせガムのように味が無くなって終わっていくだけだから。
良くなりたいをベースとした成長ゲーム
全ては完璧とする手放しのゲーム
双方に優劣なく、どちらも魅力的で尊いものであることを明記した上で、私は後者を選んでいきたいと思っている。
どちらのゲームも体験したい自分がいると認めた上で後者の在り方を選ぶと決めている。
3次元の成長ゲームは、もうたくさん味わった。
劣等感、罪悪感、自己否定、不足感、絶望感、それらの感情のおかげで経験できる努力や根性のプロセス、ああ本当に楽しかった!
楽しくて刺激的で、尊く儚い経験だった。
だから感謝を込めて手放したい。
「ありがとう、もう充分楽しんだよ」って。
そんな激動の、荒波のような体験はもうお腹いっぱいなので、もうドラマはいらないので、創造主で在り全てで在る自分を思い出す体験を選んでいこうと思う。
私は何もジャッジしない。
そう言っておいて、ジャッジしてしまう自分すらもジャッジしない。
楽しかった3次元の体験、本当にありがとう。
大嫌いで辛いと思っていたのに、こんなに今感謝が出てくるなんて思わなかった。
今まさに、今まで手に入れてきたことや持っているものを手放して、まっさらになって、生まれ変わっていくプロセスの途中にいる自覚がある。
そんな生き方を楽しんでいきたい。
そして、そんな生き方を選ぶ人たちと一緒にこれから楽しんでいけたら、もっともっと嬉しい。
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