犬、虹の向こうへ


家族を失った。

大切な、これ以上ないほど愛していた家族を。


私がこの彼と出会ったのはちょうど5年前。

見知らぬ土地に嫁いできた私を彼はすぐに受け入れてくれた。


ボーダー・コリーの雄、当時8歳で、いくつか芸ができた。元々この犬種は犬の中でも特に賢いと言われていると知った。


私の夫によく懐いており、バタバタと足音を鳴らして、2階の我々の寝室まで何度も遊びに来た。はじめこそ、ここは入ったら駄目だよ、と嗜めていたが、懲りずにやってくる彼を私達は結局部屋に招いて彼が満足するまで撫でてやる日々だった。


彼は犬にしては珍しく、散歩するのを嫌がった。小さな頃に道路に出て、怖い思いをしたことがあるらしい。

その代わりに家中を走り回り、広い庭で用を足して、ヘケヘケと息をしては、笑っているような表情を私達に向けたのだった。


結婚当初からの義両親との同居を解消したのは1年ほど前。「様子がおかしいのよ」と義母からの連絡を受けて、私達は犬の元へと向かった。


普段なら出迎えてくれる彼がその日はお気に入りの布団の上でうつ伏せになり、上目遣いで目をきょろきょろと動かすだけだった。


「どうしたの」「どこか痛いの」口々に家族に聞かれるも相変わらず伏せっていて、その後すぐにかかりつけの動物病院へと向かった。


エコーで体を診た獣医は胃に腫瘍がある、と私達に告げた。手術はできるのかと聞いたが「12歳の身体には負担が大きいでしょう」ということだった。以前から飲んでいた薬を追加でもらって、ステロイドを注射してもらい、その日は何もなかったかのように、けろっとした表情でいた。家に帰るとすぐにごはんも食べ始め、私達は安堵してまた義両親に犬を任せて新居へと帰った。


その後も月に何度か行っていた義実家では変わらず彼は元気に過ごしていた。何しろ食い意地が張っていて、いつものカリカリごはんでは足りないというふうにごはんのお皿を加えて人間の足元に持ってくる程だった。


段々と貧血のような症状が見られるようになり、時は流れ2024年1月1日。

あけましておめでとう、と義実家に顔を出したがなんだか様子がおかしい。寝っ転がったまま、寝返りもせず、たまに苦しそうに息をしている。また、けろりと動き出すだろうと思っていたが、皆でおせちをいただいている間もひたすらに荒い呼吸を続けていた。


日にちが日にちだけに、かかりつけ医は休診。私達は隣の市にある救急動物病院へと向かった。


到着するなり、犬は毛布に包まれたまま診察室の中へと連れて行かれた。


しばらくして呼ばれると松永と名乗った獣医は「思った以上に容態がよくない」と私達に言った。いくつか検査をして、少しでも楽にしてやるために酸素を吸入させましょう、費用などをお知らせしますので、待合室でお待ちください。と言われ、しばらく待たされた。また呼ばれて明細書を見ると入院という項目があり、皆で驚いた。


「このお会計でよければすぐに処置に入ります」と説明を受けて、お願いします、と頭を下げた。


次に呼ばれた部屋で、レントゲン画像を見せてもらった。お腹の中で出血が起きていて、本来脈が取れる足の付根から脈がとれないこと、他にも異常が見られ、処置としてはこのまま酸素吸入を続け、さらに点滴もできるが、血が薄まってしうデメリットがあること等の説明をしてもらった。入院をして処置をつづけても緩やかに死へと近づくだけだろうとも言われた。


苦しさは取ってやれないという状況を見て夫が「安楽死」の提案をした。

「初回の診察の患者さんには言わないようにしているのですが、この状況では第一選択は安楽死です」と端的に説明をしてくれた。


これ以上はQOLがさがるだけ、犬側にも看取る側にもストレスもかかる。


私達は安楽死をお願いした。準備まで時間がかかるという。その部屋に犬を連れてきて、お別れをする時間を作ってくれた。


準備ができました、と今まさにその処置が始まろうというとき「ここで処置をします、一緒に看取っていただくか、お辛いようであれば処置室で処置を行います」との言葉に夫はその部屋に残り、憔悴している義母と共にわたしは部屋を後にした。


10分ほど経っただろうか、夫が「安らかに逝きました」と部屋から出てきた。涙が溢れ、ただただ泣いていることしかできなかった。


くたりとした姿の犬を「車までお運びします」と担当医が連れてきてくれた。家に帰り、眠っているようなその安らかな犬の顔に幾ばくかの安心を覚えた。


もう、苦しまなくていいね。


ポルタ、そこから見ていておくれ。

何十年か先、必ず会いに行くと約束するよ。たくさんの楽しい思い出をありがとう。ありがとう。




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