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石徹白洋品店は、服屋だけれど・・・

石徹白洋品店は、
石徹白で、石徹白らしい暮らしが
これからも続くように、という思いから始まった。


2007年、私は初めて、石徹白を訪れた。

グネグネとカーブが続く、標高1000メートルの峠を
やっとの思いで超え、
現れた鍋底のように広がる、開けた土地に
赤や青やエンジ色の屋根の家が点在し、
隅々まで手入れされた畑や庭先に植わる花々に
気持ちよく迎えられ、桃源郷のような空気感だった。

山奥とは思えない、空の広さ。
道を歩くと親しみ深い表情で
話しかけて下さる人々の懐の広さ。

「サステイナブル」な社会を求めて、
小水力発電の導入の仕事のために
ここに暫く通い、地域の人々とともに体を動かし
数機の小さな発電システムを導入。

その過程で分かったことは、
この土地の、この人たちの暮らし自体が
「サステイナブル」であり、
縄文時代から脈々と続く、
この土地での生活と、
その背景にある精神性の中に、
今、私たちが抱えている様々な問題を解くヒントが
あると感じたのだ。

それは、小難しいことを考え尽くした果ての
結論、というわけでは全くなくて、
私にとっては、とても情緒的で、
自分の中での野性的な判断だったと思う。


小さな集落だからか、特にお店も娯楽場もない。
けれど、お互いの家に呼びあって、お茶して愉しむ。

その時に出されるのは、手作りのおやつ。
それが最高に美味しい。
実が小さくて中身をとるのが難儀な山栗を拾ってきて
それで作る栗きんとん。
(私は、お隣さんに、旅の土産に栗きんとんを買ってきたら
それ以上に甘くて滋味深い手製の栗きんとんをお返しにいただいて
美味しさと嬉しさと、気恥ずかしさで赤面・・・)

下のおばあさんが作るもち米から自家製のあんころ餅やきな粉餅。
おはぎの中にイチゴやあんこが贅沢に入ったもの(名称不明のオリジナルおやつ)。

標高が高い石徹白で育ったトウモロコシは糖度がメロン並。
誰もが喜ぶので、石徹白では誰もが育てる。
初めて訪れた時、こんなにたくさんのトウモロコシは
食べたことない!と思うほどの量のゆでたての湯気が上がるのを
大皿に盛って出してくださったのはいつまでも忘れられない。

美味しい、嬉しい、そして(話が)面白い。
この、心が満たされる3大要素が
至極当たり前のようにここにあるのは、
脈々と受け継がれた歴史の中で培われてきた
人と人との信頼関係、絆の強さによるものと感じられた。

ここにいたら、何があっても、生きていける。
(文字通り、餓え死にしない。)
愉快に、たくましく生き延びていける、
という、私の中の動物的判断は、きっと正しかったと思う。

よちよちと畑仕事を始め、
それを見かねたお隣さんは
私たちの収穫以上にお野菜をくださる。

たどたどしい機械の扱いにハラハラした地域のドンは
田んぼの師匠になってくださった。

私たちにもほんのすこしだけ
土のめぐみで生きて行く術をつけつつある(と信じたい・・・)。

けれど、どこの日本の地域とも同じように
どんどん人は減っていくし、
時代の変化の中で、従来の生活文化の喪失は
止められるものでもなく、
私が初めて石徹白を訪れたときから13年、
すでに、たくさんの取り戻せないものが
目の前から消えていったように思う。


そのこと自体は、自然の中の自然のことで
悲しんでも、悔やんでも
時間は勝手に過ぎて、日常も繰り返されていく。

私はここに住んできた人と全く同じことはできない。
なぜなら、ここで生まれ育った人たちが
見てきた彼らの原風景は、
すでに変わっていて(いい意味で変わったものも多いと思う)、
写真でしか見たことがないし、
ここで暮らすことで培われてきた心は、
表面的に聞いて共感することはできても、
同じように持つことは極めて難しい。

けれど、私はいつもこう思っている。

私が石徹白の人にしてもらって、
嬉しかったことは数限りなくあって、
それを、私も当たり前のようにしていきたい。

その時は、その人にとっては小さなことだったかもしれないけれど
街場に住んでいた私にとっては感動と思えることがいっぱいあった。

山に行って、ウドをとって、それをその場で
ニシンの味噌汁にして料理してくれた
Tさんは、料理の達人として私の中に記憶されている。

うちでつけたといっていただいた甘酒が
ちょっとお酒っぽくて、味わい深く、
私もここで甘酒(ドブロク?)をつけようと
毎年せっせと繰り返している。

道で出会ったらする世間話も
立ち話なのにすぐに盛り上がって
最終的には子育ての相談なんかもさせてもらって
心が軽くなったりする。

特別なことじゃないかもしれないけれど、
(山でのうどは特別だったな!)
実は、街では特別になってしまったような
日常の中の豊かさが
人口の自然減によってなくなっていくのが悲しいなら、
その豊かさをおすそ分けしてもらった私が
それを日常の当たり前にしていきたいと思う。

その上で・・・
私がここで生きていくために
自分の仕事を作ろうと始めたのが
石徹白洋品店だった。

もしかしたら、洋品店 じゃなくても
良かったのかもしれないけれど、
私は服を作ろうと思った。

学校の家庭科の時間は苦痛そのもので
私がミシンを触ると必ず壊れる(あるいは止まる)
恐怖の裁縫を、
石徹白移住を前提に、28歳(10年前!)から2年間、
専門学校に通った。

今ならちょっと考えられないけれど、
(そんな風に考えらえる余裕はないけど)
その時は人生において、自分がもっとも苦手とすることを
克服したいという20代ならではの思いもあった。

でも正直、最初は死ぬほどしんどくて、
16、17歳の器用な女の子の隣で
どんなに心がけてもまっすぐ同じ間隔の針目で
縫えないことに腹を立てるどころか、悲しくなった・・・。

同じアイテムを3枚くらい作らないと
作れることにならない・・・と言われた時は
焦り屋の私は、同じものを3枚作るなんて、そんな時間もったいない!
と、先生と諍いしたことも。(でも実際は、3枚作っても完璧じゃなかった、、、)

やはり、それでも、家庭科の時間とは違って
プロの先生に教えてもらうことで
一応、一通り、デザイン・パターン・縫製まで学び終え、
石徹白に移住したのが2011年9月。
一冬かけて、準備をし、2012年5月にお店をオープンした。
・・・

先日、石徹白洋品店の仲間とともに
ブランディングに関するワークショップをした。

ホームページを改変しようと思っていて、
そのために行うことに。

初めは一人でスタートした小商い。
そして、二人、三人と仲間が増え、
今では10人近い仲間がいてくれる。

子育てのごちゃごちゃの中で
(最近はエントロピーがさらに増大中)
なんとか、お店をやりながら、生き延びてきた
ここ数年の、私の頭には
ブランディングとかマーケティングとか
全く考える余裕もなくて、
すごく新鮮な気持ちになった。

ああ、石徹白洋品店って、
こういうブランドなんだ、とか
こういうことをしていきたいんだ、って改めてわかって
(というか、初めて分かったこともいっぱいあった!)
本気で手をつなぎ、進んでいける仲間がいることで
いろんなことができて、いろんなことを変えていけるんだ、
って嬉しくなってさらに妄想が膨らみつつある。

始めたのが2012年で、会社にしたのが2017年、
そして今は2020年。

もっとこうしていれば良かったのに・・・と
振り返ってみれば思うこともあるけれど
その時はその時々で必死で、
きっと今の状態は
私の中でのベストなんだと思う。

小さなことにくよくよせず
大きな志を持って言葉にしていこう、と
近くにいてくれる取締役(兼、夫!)が
背中を押してくれるので
私は躊躇なく夢を描き、
一番最初に書いたことが
実現できるように、
進んでいくのみ。



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