マル、ありがとう。



今日は悲しいお知らせがあります。


ここで、こんなことを書いてもいいのか、と思うのですが、マルがここで2年弱、暮らしてくれた証を残すためにも、書き記しておきたいと筆を取りました。

数日前、私たちが大好きだった羊のマルが亡くなりました。

ちょうど2歳になって、1ヶ月ほど後には2回目の毛刈りを予定していました。

私が岐阜に出張で出かけていたところで、夫から夜遅くに着信があったのですが、電話に出られず、翌朝掛け直すと、隣にいた長男が「・・・が死んじゃった」と言いました。

私ははっきりと聞き取ることができなくて、「えっ??なになに??」と聞き返すと、次男が大きく、しっかりと聞こえる声で「マルが死んじゃったの」と教えてくれました。

うそでしょ。
どういうこと。
どうして・・・

とにかく気持ちが混乱して、それが事実なのか、冗談なのか、受け止めることができませんでした。
すると夫がとても冷静に普段通りの声色で一部始終、教えてくれました。

マルは外からやってきた何者かに襲われて、命を落としてしまったのです。

彼の話を最後まで聞いて、私はようやくそれが事実であることを理解しました。

マルが亡くなってしまったこと、相棒でずっと一緒にいたヤギのアルが寂しがっていること。

その日はずっと、夫と連絡を取り合って、これからどうしたらいいのか、各所へ相談をしながら決めていきました。

結果、マルが住んでいた小屋の横に穴を掘って埋葬しようということになりました。

出張から戻った次の日の午前中、近くの土建屋の社長、Hさんが手伝ってくださって、ショベルカーで穴を掘りました。そこに亡くなったマルを入れました。
2歳にもなって30キロ以上もある大きな体でしたが、夫と、そして1ヶ月石徹白に滞在してくれているTくんと二人で運んで、大きな穴の底に置いてくれました。

Hさんが「かわいいで(かわいそうだから)、体が隠れるまでは、スコップで土をかけてやれ」
と言ってくれて、私たちは、スコップを手に、子供たちも一緒に、マルに土をかぶせました。
長男と次男は金物のスコップで、三男は「怖い」と言って逃げていましたが、私が連れ戻して、プラスティックの雪遊びのコップで土をかぶせるお手伝いをしてくれました。
ここ数ヶ月、マルのお世話をしてくれた大学院生のSも、黙々とスコップを手に土をかけてくれました。

マルが見えなくなったら、Hさんがショベルカーで土をきれいにかけて、穴を戻し、小さなお山にしてくれました。

ショベルカーが去ったと同時にお隣のNさんが来てくれました。
私がマルが亡くなって、これから埋めるのだということを、直前にお話に行っていたから、私たちを気遣って来てくれたのです。

Nさんは私と一緒で、鼻を真っ赤にして、目に涙を溜めて、お菓子と大根を持ってきて渡してくれました。

「かわいかったなぁ(かわいそうだった)」と言ってくれました。そして、悲しいけど、仕方のないことだと慰めてくれました。

Nさんも一緒に、改めて、その小さなお山にみんなで手を合わせて、マルの冥福を祈りました。

いろんな思いが頭をよぎりました。
いろんな後悔も抱きました。

でも、マルがもうここにいなくなったことは事実なので、それを受け止めて、これからどうやって心を整えて、どうしていけばいいのか、考えなければならない、と思っています。


マルをここに迎えたのは、「ウール」を扱う者として、どうやってウールができていくのかそのプロセスを学びたい、ということがありました。
また、子供たちと共に動物を過ごすことで命の大切さや、動物と生きることで得る学びを共有したい、という気持ちもありました。

マルが亡くなったのは、昨年初めて毛刈りをして、毛を洗って、それを糸にしたり作品にしたりしようと動き出したタイミングでした。

私は、ただただ毛を加工していくプロセスだけが大切なのではなくて、羊という動物が生きていくために伸ばしていく貴重な毛をいただいている、命そのものを纏う、それが「ウール」であることを知りました。

ウールをいただくということは、羊が生きていることが大前提だし、長い歴史の中で人が毛を刈り取るために品種改良して「家畜」となったので、育てる「人」がいないと成立しない動物になっています。

人と羊の深く密接な関係性があるからこそ、いただくことができているものなのです。

ウールもカシミヤもアンゴラもアルパカも、「獣毛」はとても温かい。それは彼らの体を守るものだから。命そのものと言ってもいい。今回のことがあって、それがより明確に理解できました。


子供たちと一緒に命の大切さを学ぶこと。
この目論みによる結果は、想像していなかった形で訪れました。

壮絶な足跡を残して何者かがマルの命を襲い、その残忍な現場を子供たちは目の当たりにしたのです。老衰で亡くなっていくとか、あるいは新しい命が生まれてくるとか、「命」の大切さを学ぶ、ということの私の想定を超えた現実が目の前に現れたのです。

生と死は隣り合わせであること、今日と明日は同じではないこと、子供たち以上に私自身がその現実に打ちのめされることになり、私は子供達に何を言えばいいかわからず、ただただ涙が止まらないし、頭の中も空っぽのような状態が続きました。

言葉を掛け合って慰めあうことより、時間が過ぎる中で、自分自身でこの現実を受け入れて、咀嚼するための「間」を持つことが、私には必要な気がしています。


マルが石徹白に来てくれて、たった2年間ではあったけれど、私たちに大きな学びを与えてくれたことに、本当に本当に感謝しています。

一つの命を受け入れる覚悟と責任をより一層強く感じています。私自身、もっともっと成長しなければと心をあらためています。

マル、本当にありがとう。マルのこと、ずっと忘れない。
マルを愛してくれた皆さん、本当にありがとうございました。

合掌。

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