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人の立場に立つって、いくつになっても難しい

こんにちは。仁科かおりです。

とりとめのない日常のできごとですが、今日は、最近考えていたことについて書きたいと思います。


バス停で、バス待ちの列に並んだ時のこと。
バスが来る直前だったこともあり、結構長い列ができていて、私の前には中学生の女の子3人組が並んでいたのですが、バスが見え始めた頃に、同じグループと思われる女の子たちが5人くらいやってきて、何食わぬ顔で列に割り込んで合流したのですよね。


ちょっと待って。ちょっと待って。
これって、大人としては「後ろに並びなさい」と言うシーン?と、一瞬考えたのですが、私の後ろを振り返ると誰も並んでいなかったので、仮に私がそう伝えたとして、わいわい楽しそうに話している女子中学生グループの間にひとり挟まれるのも居心地が悪いし、割り込んできたせいで誰かがバスに乗れないといった問題も起きないので、何も言わないことにしました。


子どもの頃、マナー違反をすると、おじさんやおばさんに叱られるものだったけれど、私自身、おばさんの立場になってみると「まぁいっか。」という感じになっていて、"叱れない大人"というのも社会問題なのかなと思ったりしました。


その後、電車に乗り換えたら、電車の入口付近に若い女性が立ち止まったことに腹を立てた男性が「奥に行け!」と小言を言いながら乗り込んできて、それも気分が良くなかったのですよね。

確かに入口付近に立ち止まるのは良くないかもしれないけれど、腹を立てるような邪魔な場所ではなかったと思うし、"次の駅で降りようと考えていたら、奥に入らないよね‥"なんて考えていたら、本当に次の駅で降りていって、その女性は降りる時のことを考えて、邪魔にならない場所を探していたのだと思いました。


結局、自分の世界にどっぷり入っている時、まわりのことは見えなくて、誰かのさりげない心配りを想うこともできなくて、自分本位の冷たい判断・とげのある行動になってしまうのですよね。


女子中学生達はきっと友達のことしか見えてなくて、私の存在には気付いていなかったのでしょう。
分かる分かる。私もそういう時代があったから。笑


電車で小言を言っていた男性も、自分の見える範囲で邪魔だと感じたり「電車に乗ったら奥に入る」という常識に捉われて、不快に感じたのだと思う。
でも、女性の立場に立つと、降りることを考えて邪魔にならない場所を探していたのだから、気配りのできるひとと言えるのかもしれない。


人の立場に立って考えるって、いくつになっても、なんて難しいのでしょう。

私も、ついついやっちゃう。自分の見えてる範囲だけで「私の方が大変」「あの人の進め方は良くない」なんて思ってしまうこと。


そこを改めるには、結局、自分の器の小ささに気付いて、呆れて、「私ってなんて愛のない人間なんだ」って自分に懲り懲りするしかないのですよね。
そうしない限り、1ミリも変わらない。

じゃあ、どうやってそこに気付いていくか…ですが、やっぱり圧倒的に大きな愛に触れていくことだと思う。それは例えば、尊敬するひとの眼差しや言葉遣い、何気ない所作から感じることもできると思うし、自然の恵みや、いつも見守って導いてもらっている見えない存在から感じることもできます。

家があることも、こうしてSNSでつながれることも、当たり前ではないし、毎日いただく野菜やお肉・魚も、今着ているお洋服も、すべて命の上に成り立っているということを思い出して、傲慢な自分がでてきたと感じたら「違う違う。私は生かされている存在なんだ」って感謝や祈りによって仕切り直して、いつも大きな愛の中にいることを信じられる自分に、成長させていくしかないように思います。

一生モノの修行ですね。
でも、これを事ごとに意識していくと、心が強くおおらかになり、自分の土台が確実に整っていく感覚が得られると思います。そして、日々日々繰り返すことで、怒りや悲しみの表現方法は、人の心にちゃんと伝わるものへと変わってゆくのではないでしょうか。

私も反省&仕切り直しの修行をしながら、時には、愛ある言葉で叱れる大人に成長していきたいと思います。

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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