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雪の雫

雪 の 雫



登場人物

・白峰 稜  27歳。民間山岳救助隊の隊長。趣味はバックカントリー・ス
                          ノーボード。

 

・雪恵   ギャルっぽいサイドテールの娘。

      明るくて人懐っこい性格。

                      お菓子の【雪苺娘】が大好き。


・酒田   稜と同じ山岳救助隊員。隊員の中で一番若い。


・最上   稜と同じ山岳救助隊員。





「こちら山形県警。ヒトゴーマルマル、山岳遭難発生。場所は鳥海山山頂より南に2~3㎞、概ね6合目付近。至急出動要請されたいが可能だろうか?どうぞ」

「こちら民間救助隊鳥海、救助要請了解しました。状況を詳細に説明願います。どうぞ」

「南斜面山腹、八丁坂南西斜面付近にてBC(バックカントリースキーorスノボ)中に雪崩が発生して巻き込まれたと通報あり。通報した同行者によればビーコン装備あり。なお雪崩に流されて250mほど滑落した模様。遭難者のけがの程度不明。悪天候につき、防災ヘリを現地に向かわせることが出来ない。また県警の山岳救助隊は別件で出動中のため、本件の支援を頂きたい。どうぞ」

「了解。遭難地点付近現在視界不良で降雪中。現地の状況に依りますが可能な限り対応します。どうぞ」

「感謝する。くれぐれも二次遭難のないように。」


山形県の民間山岳救助隊・鳥海。

稜はその隊長を務めていた。


これから向かう鳥海山は日本海に面し、庄内平野に聳える独立峰。

特に冬型の気圧配置が強まると海を渡ってきた北西風が猛烈に荒れ、森林限界を超え遮るもののない雪氷の山腹を暴風雪が罷り通る。

気象庁の予報を確認すると、一帯は今夜にかけてかなり風雪が強まる予報だった。


稜は外へ出て空を見上げた。

低く垂れこめた雲と烈しい季節風。それに粉末のような雪が絶え間なく降り続いていた。

視程も低いこの状況での出動は極めて難しい。

通常の捜索チームならこの時点で出さない。

ただし、稜にとってこのエリアは自らの庭のように熟知した場所だった。


稜が率いる民間山岳救助隊は総勢5名。しかしこの日は平日で常駐は2名、それも若くて経験の浅い酒田隊員だけだった。


稜は後輩の酒田隊員に状況を説明し、こう告げた。

「本来なら原則2人以上での出動が望ましいんだけど、こんな状況なので、2人で出ちゃうと下での支援(救急や警察への連絡や、支援がスムーズに進むようにするための周辺段取りのこと)をする人が誰もいなくなっちゃうんよ。なので酒田君にはそれをお願いしようか。僕はこの辺りも山の状況もよく識っているので、とりあえず山小屋近くでビーコンの反応を探ってみたい。無理なら引き返す。生存の可能性がある限り、できるだけのことはしたい。どうやろか?」

「隊長がそういわれるのであれば。無事に帰ってきてくださいよ」

「無論そのつもり。ありがとう」

「そしたら、ユニックにスノーモービル積んどきます」

「助かる。南側だったら県道368号の高原牧場のT字路に停めて、そこからモービルで行ってみる。発見出来たら連絡するので救急車が要る時はそこへ来てもらって。」

「了解しました!」


稜と酒田は直ちに捜索の準備に取り掛かった。

無線機、ビーコン、ゾンデ棒、スノーショベル、スノーシュー、ピッケル…。

己の二次遭難を防ぐためのツェルトやガスバーナー、非常食の類もザックに詰め込んだ。

あとは、流されず的確な決定を下すための冷静な判断力。


「よし、行ってくる」

稜は高原牧場のT字路へ向けてトラックを走らせた。


積雪量は予想以上だった。

県道368号は高原牧場のT字路までは除雪されているものの、それから先は除雪されておらず、現場付近まではスノーモービルを用いる必要があった。


稜は積載されているクレーンでスノーモービルを雪面に降ろし、捜索に必要な装備を詰め込んだザックを背負った。そしてスプリットタイプのスノーボード…これは最後まで迷ったのだが、スノーモービルが埋まるなどして動かなくなった場合、迅速に帰ってくるための手段としてこれを持ってゆくことにした。


稜はスノーモービルに跨ると、冬季積雪で閉鎖されている県道に沿って湯ノ台口を目指した。

始めのうちはややどっしりと締まっていた雪も、登山口が近づくにつれさらさらと軽さを増していった。


湯ノ台口に到着した稜は、ここから更に直線距離で500m程のところにある滝ノ小屋を目指した。通報を行った同行者はこの小屋に避難していた。


山腹に広がるブナの林の間をスノーモービルで縫うように進む。

しかし樹間が狭くなり進行速度が落ちてきた辺りでカーブを切ると、案の定スノーモービルはパウダースノーに埋まり込んだ。

致し方ない。稜はそこから先は徒歩で向かうことにした。冬用の重登山靴にスノーシューを取り付け、必要装備を詰め込んだザックの背面にスプリットボードを結わえ付けた。

このスプリットボードは、搬送用の大型のそりや担架などを持ち込むのが難しい少人数での救助活動の際、工夫次第でそりの代わりになるので重宝していた。


登山道とはいえ冬は登る者もほとんどおらず、それ以上に絶え間なく降り積もる豪雪はその跡をすっかり覆ってしまっていた。


ふわふわの雪道。なめらかな雪面を踏むと感じる、片栗粉を握った時のようなきゅっと締まる感覚。それでいてスノーシューから伝わる優しい反力。


稜はこの雪と触れ合う感覚が幼いころから大好きで、それこそ子供のころは雪が降るたびに夢中で雪の中をはしゃぎまわった。少し大きくなるとスノースポーツを覚え、その中でも特にスノーボードの虜になった。全身でパウダースノーに突っ込んでいく時の浮遊感と疾走感、雪まみれになる爽快感がたまらなかった。それ故彼もまたバックカントリーをこよなく愛しており、同時にそれに伴う危険、その中でも雪崩の脅威も重々承知していた。


稜は雪の中を泳ぐようにして滝ノ小屋までたどり着いた。そこで通報を行った同行者から状況を聞き、遭難者の位置の概ねの予想を立てた。そして持ってきたダウンシュラフを一つと非常食、簡易バーナーを手渡して、寒さを凌げるように助力した。


滝ノ小屋を出て少し西に歩き山腹を見上げると、そこから更に数百メートル先の八丁坂南西斜面に雪崩のデブリ(滑った雪が堆積したもの)が目視出来た。また、山腹の中~上部は折からの視界不良で全く見通せなかったが、デブリの量から小規模な表層雪崩であろうと思われた。


稜は避難していた同行者にこう伝えた。

「救助隊に状況を連絡していますので、天候が安定し次第隊員が救助に来るはずです。それまではこの小屋で温かくして待機していてくださいね。私はこれからお連れの方の救助に向かいます」

「有難うございます。宜しくお願いします…!」

その悲壮な叫びにも似た彼の声色から察するに、ある程度覚悟はできているのかも知れない。それでも、生存の可能性がゼロでない限りは諦めたくはない。

 

風雪は更にその強さを増し、視界もあまり利かなくなっていた。


今回の現場は大規模な雪崩が頻発するような急な長斜面ではないのだが、恐らく滑走する際に斜めに大きく斜面を切ってしまったのだろう。そのラインと思われる部分より下の表層雪が滑り落ちていた。デブリの厚みもそれほどないので、雪崩れた雪の量もあまり多くなさそうだった。


デブリの上を慎重に踏み進めると、意外にも早くビーコンの反応があった。

慎重に反応を追ってゆくと、雪の塊の合間にニット帽のようなものが半分埋まっているのに気がついた。それは遭難した男性の頭部だった。


「〇〇さん!大丈夫ですか!?」と声を掛けながら慎重に顔周りを掘り起こすと、その男性はうめき声をあげて咳込んだのち、涙を流しながら感謝の言葉を述べた。

「本当にすいません…助けて頂いて…有難うございます…!」

「〇〇さん、もう少し頑張れますか?まだ体が埋まっているので、脱出して帰らなくてはいけません。どこか体で怪我をしている所はありませんか?」

「右の膝から足首にかけてひねったみたいで、痛くて力が入りません」

「わかりました。今から掘り出すので、少し非常食を食べておいてください」

稜は持参したあんぱんと、温かい紅茶のボトルを差し出した。


この男性は雪崩で足元の雪が全体的に滑動し始めた際に、咄嗟にバインディングを外そうとしたようなのだが、右足が外れずにそのまま流されてしまったらしい。雪崩の中で泳ぐようにもがいていたところ、運よくバンザイの体勢で顔を雪上に出すことが出来たため窒息死は免れた。それでも、次から次に顔の上に降り積もってくる雪が恐ろしかったのだという。


稜は努めて冷静に振舞いながらも、一方でどんどん悪化してくる天候に焦りを感じていた。

このままこの場に長時間留まれば、確実に2人とも遭難してしまう。かといって、いまやっと生還の希望の光が差したこの男性を、どうしてこのまま放置できるというのだろう。

最後の手段としてはこの場に雪洞を掘ってビバーク(露営)だが、斜面の下端なので付近で再び雪崩が誘発されれば埋没は避けられない。


数十分掛けてようやく稜はこの男性を掘り出した。彼の右足はどうやら折れてはいないようだ。予備のストックとゾンデ棒を添え木代わりにして、ブーツごと自着生伸縮包帯でぐるぐる巻きに固定した。

彼が避難小屋まで自力で歩いていくというのはまず無理だろう。それでダウンシュラフに包まってもらい、スプリットボードをなんとかそり代わりにして引っ張って行くことにした。


「こちら民間救助隊鳥海。ヒトロクゴーマル、要救助者と接触。被災した男性は右足捻挫の模様。これより___」


くそっ、こんな時に無線機が。

先代の隊長から引き継いだオンボロだとはいえ、このタイミングで通信不良だなんて…。


山は猛吹雪になっていた。

ホワイトアウトして周囲が全く見えない。

どっちが上で、どっちが下なのか。平衡感覚さえおかしくなっている気がする。


山岳経験が豊富な稜だからこそ、この状況が非常にまずいということは骨身に沁みて解っていた。何とか、小屋までたどり着ければ…

ここまで歩いてきた際のトレース(足跡)は、とうの昔に雪の下に消えていた。

山岳地図をインストールしたスマホも、零下15度近い寒さを前に、既に電源が落ちてしまっていた。


ザックのポケットに眠っていた紙の地図とコンパスだけを頼りに。

真っ白な空間の中を、救助した男性を載せたボードを曳いて下山する。


すべての神経を集中し、帰還しようと全力を尽くす自分と、ぼーっと余計なことを考え始める自分が脳の中に混在した。そして、そうやってもがく自分を離れた所から客観視しているかのようなメタな自分もまたそこにいた。



なんだろう。あの人影は。


真っ白な世界の先から、誰かが歩いてくる。



女…か。

他の救助隊の人?それにしても。

こんな時に、ひとりで山に入ってくるなんて。


いやもしかしてこれって。

いま一番逢いたくないあのお方なのでは。

後日家に押し掛けてきてお嫁さんにまでなってしまう、あの女なのでは。



その女子が近くまで来ると、辺りは真っ白な輝きに包まれた。



                  





ふと気が付くと、稜は山小屋で横になっていた。

檜の床にはマットが敷かれ、体にはダウンのシュラフが掛けられていた。

暖炉には杉の薪が、時折ぱちりと爆ぜながら赤々と燃えていた。

心地よい針葉樹の煙の匂いと、かすかに感じるコーヒーの香り。


我に返ったかのように、稜は飛び起きた。

周囲を見渡すと、確かに先刻救助した男性と、その同行者の男性もシュラフで寝ていた。

よかった。ちゃんと生きているようだ。

そして。



一人の娘が、コーヒーを淹れていた。



「うぃっす♪ 気が付いた?」


ずいぶん軽いノリでその娘は訊いた。

水色のスノーウェアに白のブーツカットのパンツ、それに白のニット帽。

髪は栗毛のサイドテール。

どこのスキー場にも大体ひとりはいるようなギャルじゃないか。

見た感じ22~23歳といったところだろうか。

そしてどう見てもこの軽さ、童話に出てくるあの女のようには思えない。


「んぅ、俺はなぜここに…っていうか、君は…?」

「お? あたし?」

彼女はくりっとした目を見開いて、なぞなぞの答えを教える直前のようないたずらっぽい笑みを浮かべた。

「私は雪娘の雪恵。お兄さんたちがふらふら、今にも黄泉の国にトリップしちゃいそうだったから、とりま助けたの。」

「そうか…本当にありがとう…!助かったよ… 

って、え?まず雪娘ってどゆこと?」
「雪が人格を持っ…とかいうとややっこしいね。雪の精みたいなものね」

「昔話に出てくる雪女とは違うの?」

「あっははは。違うよ?さすがにお命頂戴とかしないって。それに私のこと他の人に言っても消えちゃったりしないし。でも…」

「でも?」

「雪の神様とのお約束でね、たった一つだけ、雪の神様が私のお願いを叶えてくれるんだ。でもそれと引き換えに、私は消えちゃうんだけどね。だから私、結構無欲に生きようとしてんだけど…欲しいものとか、行きたいところとか、いっぱいあるじゃん?」

「難しいところだよね。俺も物欲には弱いんよ…。でも、せっかく手に入っても自分がいないんじゃ、意味がないもんなぁ」

「でしょ~?」

「ところでさ、雪恵ちゃんって、普通の人間の女の子みたいに見えるんだけど…」

「そう。人間の身体を纏えるから、今は人間そのものって感じだよ?」

「ルックスとかって選べるの?」

「にひひ。そりゃそうよ。だって、可愛くなりたいじゃん?」


なんだか非日常の存在と話しているとは思えないような、そんな至極普通の会話の感覚。

それでも雪恵ちゃんとお喋りしているうちに、ずいぶん元気が戻ってきた気がする。

同時に稜は自分のおなかがかなり空いていることにも気がついた。


「非常食しかないけど、食事用意するね。まずはお湯沸かすか…」

「少しならあるよ」

そう言って雪恵は暖炉の上のやかんを親指で指さした。そうだったよ、さっきこの子、コーヒー飲んでたよな。んん…?


「こんなこと訊いたら嫌かもだけど、雪娘…いや雪恵ちゃんってさ、ご飯食べるの?」

「食べるよ~!いっぱい!」

「たべるんかーい!」


救助した2人はまだぐっすりと眠っていた。

2人のためにも、何か温かいものを用意しておこう。


室温が上がり、救助活動中に寒さで落ちていたスマホの電源が入るようになった。

県警と事務所に連絡して、雪恵に関する以外の今の状況を伝えた。

今夜は悪天候だが、明日の朝になるとかなり穏やかになる予報で、そうなれば秋田県警の防災ヘリが救助に来るという。足を捻挫している男性はヘリで、同行の男性は稜と一緒に下山し、彼らが車を停めている所まで送っていくことになった。


丁度連絡をしていると、あとの2人も目を覚まし、起きてきた。

追加したお湯も必要量沸いたので、非常食として持参していたカップラーメンやアルファ米、フリーズドライのスープを持ち寄り、みんなで分け合いながら遅い夕食をとった。

こんな状況下で口にする非常食は、それはそれは魂がひどく渇望していたかのような味わいだ。まるで自分が生きているという実感と嬉しさを、一口ひとくち嚙み締めているかのようだった。


雪恵は本人の供述通りかなり食べた。もっとも、非常食が十分な量あったことと、今晩を凌げばなんとかなるからこそさほど気にしなかったが、これは遭難が長期に及ぶと心配の種になったに違いない。

そして彼女はまた重度の猫舌だった。スープや温かい飲み物はすっかりぬるくなるまで冷まさないと飲めなかった。このあたりは雪娘だからなのか…仕方がないのかもしれない。


夕食をとりながら、そしてその後も4人でのお喋りには花が咲いた。雪恵はとても明るくて気さくだったので、4人のうち3人が初対面の集まりとは思えないくらい話が弾んだ。


稜は寝る前に装備を確認し、明日朝から行動できるよう準備を整えた。

雪恵はその様子を実に興味深そうに見つめていたが、稜がスプリットボードを手にしたところで目をきらきらさせながらそれについて尋ねてきた。

「ねぇ、このぱっかーん!って割れる板、何に使うの?」

「あ、これ? これね、足に履いて雪の上を滑るんよ」

「へえぇ~!すっごい楽しそう!」

「うまく滑れるようになるとほんと楽しいよ。特にふわっふわの雪が積もった後とか」

「あたしもやってみたい!ねぇ、今度教えてよ♬」

「OK,そのためにはまず、明日ちゃんと帰らないとだな」

「それもそうね」


「じゃあ、準備もできたし、明日朝からいろいろやらないといけないんで、そろそろ休もうか」

「は~い。それじゃ~ね。おやすみ✨」

 

稜は小屋の備品のランタンを消し、ヘッドライトも消灯した。

暖炉の熾火だけが、小屋の中にやわらかなゆらぎを映し出していた。

 

 

 

 

翌朝目を覚ますと、雪恵の姿はそこにはなかった。

それでも暖炉の上にはやかんにお湯が沸いており、直前まで彼女が居た形跡はあった。

そして稜の枕元には書置きが残されていた。

 

「 おはよー! 起きた?

  今度遊びに行くね!

            雪恵より 」

 

昨日から不思議なことの連続で、自分の理解が追いつかないし、今ももちろんそうだ。

稜はそれを一旦棚上げして、今やるべきことに注意を向けた。

 

小屋の外に出ると、空はすっかり晴れ渡っており、風も凪いでいた。

冷涼な朝の空気が、陽光に輝く雪の煌きを一層際立たせていた。

振り返ると、白銀の雪を纏った鳥海山が、どこまでも青い空を背に、その威容を誇っていた。

 

気象庁の予報を確認すると、気温は低いもののこれからは穏やかな時間が続く見込みだった。稜は捻挫した男性がスムーズにヘリに収容されるよう、身の回りの段取りを整えた。

 

午前8時頃には負傷した男性はヘリで救助され、稜と同行者の男性も無事に帰還することが出来た。

 

その後装備や機材の片付け、点検、警察への報告等を済ませ、夕方になってようやく稜は自分の官舎に帰り着いた。

 

「疲れた…」

溜息のような独り言を吐きながら、稜はお風呂に入った。

必死だったので殊更意識もしなかったのだが、日をまたいでかなり負荷の強い救助活動だったのだろう。体のあちこちに乳酸が溜まってきていた。湯船に浸かると、ぞくぞくするような心地よさと共にその温かさが疲れた体に沁みわたっていった。

 

風呂から上がると、稜は居間のソファーに沈み込んだ。

疲れて晩御飯の用意をする気力も起きない。

こんな時はなにか甘いものでも食べるか。

そういえば、コンビニで買ったスイーツがあったな…。

それを取りに立ち上がろうとしていた矢先、玄関の扉を誰かがノックした。

 

「やっほー!元気?遊びに来たよ?」

「あ、うち、壺とか買わないんで結構です」

「ちょっとぉー!私のことなんだと思ってるの~?」

 

唐突に雪恵が訪ねて来た。冗談めかした応対をしたものの、彼女はなんだか嬉しそうだった。

「ごめんね雪恵ちゃん。折角来てもらって嬉しいんだけど、俺だいぶ疲れてて…」

「いいのいいの。それより、晩御飯まだでしょ?何か作るよ?」

「ホント?ありがとう!でもあったかい料理でおねがいしゃす」

「#$%&*☠!」

 

なんのかんの言いながらも、彼女はお尻を振りながらノリノリで料理を始めた。

その後ろ姿は、今にも鼻歌が聞こえてきそうなくらい、上機嫌に見えた。

 

雪恵はてきぱきと料理を拵えて、食卓の上に並べてくれた。

冷蔵庫に残っていたアンガス牛の角切り肉を使ったビーフシチューと、ちょっとくたびれたバゲットと玉ねぎを巧く生かしたオニオングラタンスープだった。

 

一口食べるなり、稜は目を瞠った。

「え、マジで?めちゃめちゃ美味いんだけど!これすごくない?」

「でしょでしょ~! いっぱい食べてねー♬」

稜が手料理を食べる様子を眺める雪恵はこの上なく幸せそうだ。

「雪恵ちゃんは食べないの?」

「私はね、もう食べちゃったんだ。晩御飯」

「そうかぁ…じゃあさ、後でスイーツ一緒に食べよ?」

「ホント!?めっちゃ嬉しい!」

 

稜にとっては久方ぶりに味わう「誰かが自分の為に作ってくれた晩御飯」だった。

役場の職員から山岳救助隊に異動し、その不定期で過酷な業務日程故に、親しくお付き合いできるようなパートナーとなかなか巡り合えないまま、27歳になろうとしていた。

もっとも、雪恵ちゃんも人間ではないのだけれど。

それでも、こうやって一人の存在が自分に関心を示してくれるのが、今の稜にはとても嬉しかった。

 

食後のコーヒーを淹れながら、稜は尋ねた。

「雪恵ちゃん、『雪(ゆき)苺娘(いちご)』食べる?」

「何それ?おいしいの?」

「イチゴのショートケーキをぎゅうひで包んだような洋菓子さ」

 

稜は冷蔵庫から2つ入りのそれを取り出すと、コーヒーと共に差し出した。

一口『雪苺娘』を味わった雪恵は、その大きな瞳をくるくるさせながら喜んだ。

「ん“ん”ん“~~~~~!!!な”に“これ最高に美味しいーー!」

「良かった。喜んでもらえて。夕ご飯のせめてものお礼だね」

「まじヤバいってこれ! どこで売ってるの?」

「え、これコンビニに普通にあるよ?」

「ガッデム!私としたことがこんな神スイーツを見逃すだなんて…」

 

雪恵はあっという間に自分の分を食べてしまった。

稜は自分のそれを半分ほど食べたところで、その残りに対する猛烈な熱視線を感じたので、きれいに半分こして雪恵に譲ると、雪恵は身悶えしながら嬉しがった。

 

スイーツを食べ終わった雪恵はふと稜に尋ねた。

「ところでさ、ん~。『稜くん』って呼べばいい?」

「えっ!? まぁ、その、なんつうか…それでいいよ」

「私さ、いま宿無しなんだけど…稜くんのところに今晩泊まって良い?」

「はぁ~~!?いきなり!?展開急すぎん?」

「やっ、ちょっ何考えてんのぉ~?そういう意味じゃないって。明日からこの辺りで住まい探すんだけどさ、今日だけはどうしても都合がつかなかったんよ」

「あ~焦った…。まぁ空いてる部屋はあるし、友達が来た時の布団くらいはあるから構わんけど…」

「助かる~!ありがと♫」

 

一晩くらいなら何とかなるけれども、明日も「見つからなかった~」なんてことになってずるずる住みつかれてしまうと…。雪恵ちゃんは全く気にしてなさそうだし、というか事情に疎そうなんだけれど、男としてはいろいろとマズイ。そう、いろいろと。

そうだ、これならどうだ。

 

「あ、そうそう。家なんだけどさ」

「ほえ?」

「この官舎だったら部屋空いてるし、公団住宅扱いで一般の人にも貸してたと思うから、明日役場で訊いてみようか?結構ボロいけど」

「マジ!やったじゃん!」

 

よし、住まいの件は何とかなりそうだ。

それにしても。

こんなに女の子(?)といろいろ喋るのも久しぶりだ、と稜は思った。

不思議と心はすごく軽やかになってゆく。

良い意味で遠慮も憚りもなく、裏表も先入観もない真っ白な心で自分と接してくれる彼女と話していると、自分の心がじんわりと癒されていくような感覚があった。

 

「ところでさ、こないだのスノーボードってどんな感じなの?教えてよ」

「よし、じゃあまずは動画見てみようか」

 

稜はノートパソコンでYoutubeの動画を開いた。

ちょっと見栄を張ってしまって、Jamie Lynn や Craig Kelly の滑りを紹介した。

それでも雪恵ちゃんは、目をきらきらさせながらその動画を見つめていた。

 

「ねぇ、みんなこんなに楽しそうに雪の上を滑るの?」

「気持ちよさそうでしょ。雪が降ると、みんなそれこそ翼を授けられたかのようにその上を舞うのよ。特にこんなトップアスリートは『スノーボードと雪に愛された人たち』だね。俺はこんなにはうまく滑れないけど…それでも自分を異次元の世界に連れて行ってくれる…そんなボードと雪が俺は大好きだな」

 

雪恵は一瞬、呆けたような表情を浮かべた。

頬は少し朱に染まり、雪恵はそのわずかに潤んだ瞳をぱちりとまばたきさせた。

 

でも次の瞬間、ぱちんと軽く自分の頬をはたいてから、雪恵は言った。

「私もやってみたい!どうすればいいの?」

「じゃあ、引っ越しが終わったら、まずは道具を揃えに行こうよ」

「やったぁ!じゃあ私、ちょっとバイト増やすね!」

 

バイトしてたんだ。なんだか親近感わくな…そんな率直な感想を稜は抱いた。

でも彼女の服装や持ち物を見る限り、それなりにちゃんとしているんだろう。

 

その夜は話が弾んで、結局2人が休んだのは夜半頃だった。

名手の滑走やハウツー動画を見たり、道具を取り出してみたり。

自分の趣味の話を、目を輝かせて聴いてくれる雪恵。

そうやっていろいろな話をするのが、稜はすごく楽しかった。

 

寝る前に雪恵はお風呂に入って薄手のルームウェアに着替えたのだけれど…透き通るような白い肌に、結構均整の取れた体つきをしていて、女の子の甘くていい匂いがして…稜はちょっとどきどきした。

 

次の日から事態は色々と動いた。

雪恵が官舎に入居する話はとんとん拍子で進み、手続きが終わると早速彼女は同じ棟の、しかも隣の部屋に引っ越してくることになった。彼女の持ち物はまるでミニマリストのように少なく、引っ越しもあっという間に終わった。

丁度次の日から週末だったので、約束通り2人は市内のスポーツ用品店に向かうことになった。

 

「わぁ~~!すっごーい!」

 

雪恵ちゃんは陳列されたスノースポーツ用品を見て、目をきらきらと輝かせた。

これは何々用で、これはこんな時に使って…

色々と用品を紹介していくのも、稜はなんだかちょっと嬉しくて、思わず得意げになった。

 

雪恵ちゃんはボード初めてだけど、どんな装備をお勧めしようかな…。

稜は色々悩んだ挙句、オーソドックスなクラシカルキャンバーで、中くらいの柔らかさの板を提案することにした。バインディングとブーツも同じく中くらいの柔軟性のものをお勧めした。雪恵ちゃんはグランドトリックよりもフリーランやきれいなカービングの動画に惹かれていたし、ある程度やり込んでくると結局クラシカルキャンバーに戻ってくるボーダーが多いのもその理由の一つだった。

 

雪恵はその中でも、ライトグレーにやわらかな群青色が溶け込んだような、シンプルで美しい色のボードをとても気に入り、購入することにした。

雪景色の白と、雪雲の鈍色。それに時折顔をのぞかせる、真っ青な空。

そんな大好きな雪の風景を小瓶に詰め込んだらこんな色になりそうだな…。

稜はそう思った。

 

結局その日は昼食を挟んで丸一日、スポーツ用品店をはしごして過ごした。

基本的な3点に加えて細かなグッズ類も一緒に探した。

特にウェアやニット帽、グローブの類になると、雪恵はお気に入りを見つけてはそれを試着して回ったので、稜はかなりの時間、雪恵のファッションショー?に付き合うことになった。

それでも、得意げに試着したウェアを見せに来る雪恵はとてもかわいらしくて、稜はその笑顔をいつまでも見ていたかった。

 

お店からの帰り道。

新しい道具やグッズを購入してホクホクの雪恵に、早速稜は提案した。

「明日、ちょっと滑りに行ってみない?」

「えっ…!?本当に?いいの?」

雪恵は嬉しくてたまらないといった様子で、その笑顔を輝かせた。

 

山形県の北部、特に鳥海山の周辺はスキー場が少ない。というよりも、ほとんどない。

かといっていきなりバックカントリーは危なすぎるので、少し南の小さなスキー場に滑りに行くことにした。それに間に合わせるように、稜は雪恵が買ったボードのダリングとホットワックスを終わらせた。ちょっとばたばただったけれど。

 

次の日。朝早くに稜と雪恵はスキー場に到着した。

まずは基本的なスキー場とスノボのルールとマナー、転び方、そして横滑り。

慣れてきたらスライドJターンからの連続ターン。

雪恵は身のこなしが軽やかで要領も良く、どんどん技術を習得していった。

「これヤバくない?めっちゃ楽しいね!」

あふれるような笑顔で語りかけてくる雪恵。

転んでも雪に突っ込んでも実に楽しそうに、からからと笑い転げている雪恵。

そんな彼女を見ていると、自然と稜の心も幸せに満たされてゆくようだった。

子供の頃からずっとスノーボードはやってきたけれど、こんなに楽しいと感じたのは…たぶん初めてだ。稜はそう思った。

この日雪恵は、最終滑走までにスライドの連続ターンを身につけ、稜に付いて滑ってくることが出来るようになっていた。そしてなぜか、それを習得する過程で直滑降がすごく巧くなり、スピードにもずいぶん慣れてきたようだった。

 

帰りの車の中でも、雪恵とのお喋りには花が咲いた。

うまくいかない部分への疑問や課題点、それにもっぱら、この日感じたいろいろな楽しさ。

雪恵と話しているうちに、稜は自分の心の内に、どんどん巧くなって自在に雪面を滑る雪恵の姿が見えるような気がした。

 

__________

 

雪恵が隣の部屋に越してきてから、稜の暮らしは少し変わった。

救助要請など緊急の要件が入る場合や当直の際などは今まで通りの不規則さではあったが、特にそれらがない時や事務仕事の時は定時で官舎に帰ることが出来ていた。そして稜が家に帰ると、いつも雪恵が料理を作って持って来てくれた。

 

「稜くん今日もお疲れだね~」

「事務仕事ばっかりってのも、結構ぐったりするよね。少しは体も動かしたい…」

「ふっふ~ん♬ 稜くん、今日はお肉だよ」

「まじか!超嬉しいわ~。なんだか悪いね。いっつも作ってもらってばっかりで」

「いいのいいの。私が好きでやってることだし。それに…なんかさ、一緒に食べる方が楽しくない?」

 

稜が一人暮らしを始めて数年が経つが、それでも食事の時間というものはいつも変わらず心が満たされるひと時だった。でも、雪恵と一緒に食べるようになってからは、それまでの何倍も、その美味しさと嬉しさが身に沁みる…稜はそう感じていた。

「ありがとう。ホントそうだね。一人で食べるよりずっと美味しいし、楽しいよ。

 雪苺娘と雪見だいふく買ってきたから、また食後に食べよう」

「本当~~!?やったぁ!」

 

ローストビーフとポテトのサラダ、それに野菜をぐつぐつ煮込んで作ったポタージュ。

厚切りのベーコンが入ったどっしりとしたグラタン。

雪恵が作ってくれた美味しい料理と、食卓を囲む何気ない会話。

その温かな雰囲気の中に、稜の今日一日の疲れも、ゆるやかに解けていった。

 

 

その後も週末の度に、2人はスキー場に向かった。

軸ターンをすると踵側の回りで内側に、まるでテディ・ベアみたいにお尻からずっこけてしまう雪恵だったが、バインディングアングルを30°/15°くらいの前振りにして、足元でエッジを食い込ませてから体を徐々に左斜め前に落とし込むように教えると、途端に美しく滑ることが出来るようになった。

軸ターンが巧くなって、リーンアウトしながらエッジをがっちり立てて深いターンを刻んでゆくうちに、彼女の滑りはいつしか美しいフルカービングになっていた。

 

稜は雪恵の上達の速さにも感心したが、それ以上に心を奪われたのがその滑りの軽やかさと美しさだった。

所謂名手が極上の滑走を披露する際に舞い散るパウダースプラッシュ。まるでその浮遊を見ているかのような、力みのないふわっとした華やかさ。

まだ体の使い方に粗はあるものの、その日の雪というものを把握し理解して、その中でありったけ自由に、楽しそうに疾る。

まるで雪が彼女に躍動を授けているかのように。

雪恵の滑りを見ているうちに、稜はいつの間にか、その華やかさの虜になっていた。

 

 

毎回スキー場に来ると、朝一は綺麗に圧雪の掛かった斜面を2人でカービングして、午前中は上達したい箇所や課題としている部分を動画に撮りながらじっくり練習し、昼が近づくとセンターハウスでお昼ご飯にした。稜はだいたいいつもビーフカレーかピリ辛ラーメンで、雪恵は月見うどんかレディースランチセットだった。

すっかり顔を覚えられてしまった食堂のおばちゃんからは「いつもご夫婦で仲いいのね」と声を掛けられた。稜は何と説明したらよいものか苦慮して言葉を濁し、一方の雪恵は顔を赤らめてうつむいていた。

 

お昼を食べながら、稜はなんとなく思っていたことを雪恵に訊いた。

「雪恵ちゃんなら知ってるかもしれないって思ったんだけど…雪ってさ、もし感情があるとしたら、どんなことを想ってるんだろうね?」

雪恵はお箸を止めて、ちょっと顔を赤くして、でもすごく真っ直ぐな表情でこう言った。

「私たちの存在がさ、人間のみんなにとって、好ましい存在だったらいいな。

 春まで大地をすっぽり覆って、お休みさせて。

 雪解け水で作物が豊かに実ったり、それが流れていって海に栄養を届けたり。

 それでみんなが幸せになってくれたら…。

 稜くんを見ていて感じたんだけど、雪が降るのを楽しみに待っててくれるような、そんな人たちがいてくれるのが…わたしはすごく嬉しい」

 

きれいな瞳だった。朝日にダイヤモンドダストが煌くみたいに。

 

稜は言った。

 

「今日ここに滑りに来てるみんな、きっと雪が降るのを待ちわびてたはずだよ。

今年も雪を迎えられた。それだけで、俺らは最高に幸せなんよ。

そして俺らの想いが伝われば嬉しいんだけどさ。俺らはみんな、雪が大好きだよ!」

 

___きゅん。

 

心が嬉しさでぎゅっと縮んだ気がした。

雪恵は熱を帯びて今にも涙が零れそうなその顔を隠すように、両手でどんぶりを抱えて、おうどんのお出汁を吸った。

お出汁はなぜだかいつもよりちょっとだけ、しょっぱかった。

 

 

午後からは雪面も荒れてくるので、緩斜面でプレスやツイストといった基本的なトリックの動きを練習した。体重を乗せ換えたり、なめらかに加重・抜重したり、自在にボードを操ったり…これらもまた、将来的にパウダーを自由に楽しく滑る上では欠かせない技術だった。

さらにボードの上で重心移動しながら瞬間的に強く踏んで反発を貰うコツを会得すると、雪恵は実に軽やかに雪の上をくるくると舞った。

雪娘だからなのか、雪恵の滑りの随所に、雪というものについての深い理解と、名手が持ち合わせるような雪との一体感が透けて見えた。雪に愛されるって、こういうことなのか…。

雪恵と一緒に滑ると、稜にとっての一日はあっという間に過ぎていった。

 

 

__________

 

 

2月ももう半分に差し掛かろうとしていた。

この日は県の南部で山岳遭難が発生した。

冬山登山の10人パーティーが道迷いと疲労で身動きが取れなくなったのだ。

幸い難所があるようなコースではなく、まばらな森が広範囲に広がるような箇所ではあったが、それが故に雪景色となると周囲が全て同じように見えて、自身の現在地を見失いやすかった。

稜は仲間の隊員2人とスノーモービルで救助に向かった。

天候もそれほど崩れず、比較的短時間で要救助者を発見できたのだが、人数が多く全員を救助し終えるまで相当の時間を要した。

 

稜が官舎に帰ってきたのは夜の10時ごろだった。

くたくたになって部屋の鍵を開けていると、雪恵が心配そうな顔をして部屋から出てきた。

「稜くん、お疲れ様…。大丈夫?」

自分のことを心から気遣ってくれる雪恵の優しい声色。

雪恵ちゃんが隣に引っ越して来てから、なんだか家に帰るとすごくホッとする…。稜はそう感じていた。

「あぁ、なんとか大丈夫。でも今日は…だいぶ疲れたね…」

「大変だったね…。ご飯作るからさ、ゆっくりお風呂でもどう?」

「ごめんね雪恵ちゃん。お言葉に甘えて…」

稜は箪笥から着替えを取り出すと、お風呂が沸くのを待って、まるで倒れ込むかのように、お風呂に歩いていった。

 

今日も稜くんは他の人を助けるために力を尽くしたのね…。

稜の姿を見ていると、雪恵は心の奥がぎゅっと締め付けられるような気がした。

 

稜くん…。

今からは私が、そんな稜くんの力になる番だよ。

雪恵は、腕まくりをして調理を始めた。

捲り上げたニットの袖が、雪恵の白くて柔らかな二の腕にゆるやかに食い込んだ。

雪恵はてきぱきと、冷蔵庫に残っていた豚肉を使って、味噌だれの豚キムチ丼と豚ヒレ肉のマスタードソースがけをこしらえた。味噌だれと肉汁と香辛料の合わさった豊かな香りがリビングを満たしていった。

稜は風呂で寝落ちしたのか、結構時間が経った後、ゾンビのようにふらふらと風呂から上がってきたのだけれど…その料理の香りを嗅ぐや、きらっきらにその目を輝かせた。

 

「いただきます!」

稜は一気に豚キムチ丼をかき込むと、そのうまさにうち震えた。

すっかりペコペコになっていた胃が、全力稼働を始めたのが判った。

「うまい…!!めっちゃ体に沁みる…!やばい今日だけは…このまま命を落としたとしても構わないのかもしれない…!」

「またまた縁起でもないことを…でも、稜くんが喜んでくれるのはすっごい嬉しいよ♪」

そうやって貪るように料理を喜んで食べてくれる稜を見ていると、雪恵はなぜだか、心がくすぐったくなるほど幸せだった。

稜は稜で、雪恵の料理を味わってゆくうちに、自分の魂が少しずつ戻ってくるような、そんな生の感覚を覚えていた。

 

雪恵は稜の疲労を気遣うように、それとなく訊いた。

「稜くん、今日大変だったんだね…」

「や~きつかったねぇ…

 今日は、10人の登山パーティーが遭難しててね」

「10人も!?」

「そうそう。危険箇所で滑落したとか、雪崩に巻き込まれた、とかではなかったんだけど」

「ふむふむ」

「閑散とした雪の森で、自分たちの今いるところが判らなくなっちゃったみたいで」

「えっ、そうなの?」

「そんな状況で、メンバーが『あっちじゃないか?』『こっちから来た』とか言い出すと、正しい進路を取れずに同じような所をぐるぐる彷徨っちゃうような状態が起きるんよ。リング・ワンデリングっていうんだけど」

「怖っ…。 で、どうなったの?」

「麓から登山道に沿って、スノーモービル2台で探しに行ったらさ、丁度森林限界の辺りで、メンバーの最上くんが偶々ラッセル痕を見つけてね」

「やるじゃんあの子」

「それに沿って接近しようとしたんだけど、雪も深くてモービルが埋まりそうになって…そこから下りて雪漕ぎをしながら行ったのよ。それがきついのなんのって」

「あうぅ…でも、見つかったのね」

「やっぱり遭難したお客さん達も、そこからあんまり進めなかったみたいでね。近くに窪みを掘って、そこにみんな固まってたんよ。みんなクタクタで、ぐったりしてた」

「結構ヤバい状況じゃん…」

「そうなんよ。だからまずは暖を取りながら甘いものを食べてもらって、それから2名ずつ救出していくんだけど…

 10人だから5往復。それがとにかく疲れたよ…」

「そうだったんだ…」

「でも、みんな助かってホント良かった…」

稜の表情には、疲れてはいながらも、大切なことをやり遂げた充足感が浮かんでいた。

雪恵にとってはその表情はあまりにも眩しくて、心の奥がとくんと撥ねた。

顔がどんどん熱を帯びてくるような気がしたが、それでも真っすぐな瞳で雪恵は訊いた。

「稜くんは、この仕事、きついって思ったことはないの?」

「もちろん救助活動はきついなんてもんじゃなくて命懸けだよ。でも…

 今救い出した人に、またあしたが来るんだって思うとね。

 自分がそれを迎えられるのと同じくらい、その人にもその喜びを感じて欲しいなって。

 最近特にその想いが強くなった気がするんだ」

「どうして?」

「雪恵ちゃんと過ごす毎日が、俺にとっては嬉しくて…ね。

 もしかしたら助け出した人にも、そんな大切な存在がいるのかもしれない。

 だったら、その想いを絶対に潰えさせたくないな…って」

稜は少し気恥ずかしそうに、頭を掻きながら言った。

 

気がつくと雪恵は、そのくりっとした大きな瞳から、大粒の涙をぽろぽろと零していた。

稜くんが私を想ってくれる嬉しさと、稜くんの仕事と他の人への想いを知った時の感動。

 

「雪恵ちゃん、どうしたの?」

稜は雪恵の涙を見て、少しうろたえた。

「いや、その、ごめんね稜くん。稜くんの想いが嬉しくて、みんなを想う稜くんの心がまぶしくて…なんか、涙が勝手に」

「そうか…。ありがとう。でも、自分がこんな思いを抱くようになったのも、雪恵ちゃんのおかげなんだよ。いつかちゃんとお礼を言いたかった。本当にありがとう。」

「もう、稜くんったら…。あたし、嬉しくて涙が止まらないじゃん…」

その頬を伝う涙を雪恵は手のひらで拭う。

なんて美しい涙なんだろう。

稜はそう思った。

人懐っこくて、ちょっとおちゃめで、いろんなことに興味津々で。

それでいていつも自分のことを気遣ってくれて、大切に思ってくれて。

まっしろで素直な、美しい心を持っている雪恵ちゃん。

そんな雪恵ちゃんとのひとときが、ずっとずっと続いて欲しい…。

稜にとっても、彼女はいつしか、かけがえのない大切な存在になっていた。

 

 

 

「ごちそうさま。今日もヤバいくらい美味しかったよ~」

夕飯を食べ終えた稜はその満足感を幸せな溜息と共に吐き出した。

「どういたしまして♬ それと、今日は特別なスイーツがあるよ~」

そう言って、雪恵は冷蔵庫の扉を開いた。

「お、なんだろ?」

「じゃーん!手作りチョコケーキ!ほら、今日ってあれじゃん」

「そうか、バレンタインデーだったね」

雪恵は得意げにチョコケーキを差し出した。

「これは…!めっちゃおいしそうだね!なんか夢を見てるみたい。コーヒー淹れるからさ、雪恵ちゃんも一緒に食べようよ」

稜は手早く豆を挽いて、コーヒーを淹れてカップに注いだ。

雪恵はチョコケーキを切り分けて、小皿に取り分けた。

2人はそれをソファーの前のちゃぶ台に持って行って、そこで頂くことにした。

ソファーに深く体を沈めた稜に寄り添うように、雪恵はそっとその隣に座った。

 

稜くんの隣。

その場所にいると、雪恵の心はきらきらとときめいた。

心の中から、ピンク色のほわほわが、次々に湧き出してくるような気がした。

 

稜くんは「マジでおいしい!」と言ってケーキを喜んで食べてくれたけれど。

私は照れと嬉しさで、あんまり味がわからなかったよ。

それでも、隣で一緒にケーキを食べて、喜んでもらえたあのひとときは…。

私にとって、忘れられない大切な大切な宝物だよ。

 

 

ソファーに座って、2人でいろいろなことを話している中で、稜は思い出したように雪恵に尋ねた。

「雪恵ちゃん、初めて避難小屋で逢った時にさ、確か欲しいものの話をしたよね」

「そうそう、雪の神様がお願いを叶えてくれる話ね」

「今、雪恵ちゃんって、神様にお願いをしたいくらい欲しいものって、なにかあるの?」

「う~ん。今は…内緒。でも…」

「でも?」

雪恵は膝の前で組んだ自分の手元を見ながら、つぶやくように言った。

「前と違ってね。今の私にとって、それってたぶん、物じゃないと思うんだ。

 私がほんとうに大切にしたいもの、守りたいもの。私はやっとそれを見つけたのかもしれないの。」

「そうなんだね。

 雪恵ちゃん。なんか今、すごくきれいな横顔をしてた」

「なっ…、ちょっ、稜くんはまたそうやって乙女の純情に火をつけるんだからー!」

 

雪恵とお喋りしているうちに、稜はいつの間にか、この日の疲れを忘れてしまっていた。

自分のことを大切に思い、気遣ってくれるような存在と共に過ごす、何気ない時の流れ。

こんな時間がいつまでも続いて欲しい…。

稜はそんな時の流れを、心の底から愛おしく感じていた。

 

 

「だいぶ遅くなっちゃったね。ごめんね稜くん、疲れてるのに長居しちゃって…」

雪恵は時計に目をやり、慌てて食器や調理器具を片付けた。

「そんなことないよ。ていうかご飯もケーキも本当に有難う!おいしくて、幸せだったよ」

「にひひひ。私も楽しかったよ!それじゃあね。おやすみ♬」

努めて明るい声色を放ちながら、雪恵は持ってきたフライパンと食器を抱えて、稜の部屋のドアを閉じた。

 

 

なぜだかドアノブに触れた片手を、しばらく離せなかった。

あと数時間もしたら、また朝が来ておはようって言い合えるのに。

それでも。そんな短時間でさえも。

雪恵は、稜と一緒に居られなくなるのが、無性に寂しかった。

 

静まり返った真夜中の道沿いには、積もった雪が月光をやわらかに映し出していた。

 

 

_____________

 

 

2月も後半に差し掛かったある週末の、いつものスキー場からの帰り道。

助手席に座る雪恵はスマホをちょいちょいといじりながら、得意げな声でこう言った。

「稜くん稜くん。来週ね、すっごい寒波が来るらしいよ?」

「へぇ~。そしたらいっぱい雪降るんかな~?」

「まっかせなさ…あ、いや、なんでもない!きっと最高の雪がたっくさん降るよ♬」

「まじかぁ~。雪恵ちゃんそしたらさ、ちょっと遠くの大きなスキー場に、泊りで行ってみない?」

「やったぁ!超楽しそうじゃん~!」

「よし、じゃあ泊まるところとか、いろいろ予約とかしておこうかね」

「ありがと♫」

 

今までの稜にとって、遠征する際にスキー場の近くの宿を押さえることなんて、ただのルーティーンの一つであって、殊更意に介すこともなかった。

それに昨シーズンまでのスノボに取り組む自分は、一人でただひたすらに技量の研鑽に励む職人のようだった。

勿論稜にとって山岳救助という仕事の上でも欠かせない技術でもあるから、ただ真面目に、一途に、頑なに。そんな感じでずっとこれまでやってきた。

 

でも今は。

雪恵ちゃんと一緒に滑る。共に同じ時を過ごす。

そのことが無性に嬉しくて、幸せで、愛おしかった。

そして彼女にも同じくらい、その幸せと嬉しさを感じて欲しかった。

稜は雪恵と共に過ごす将来の予定を思い描く時、その心の昂揚を確かに感じていた。

 

 

「時間も遅いからさ、ご飯はなにか食べて帰ろうか?」

「いぇ~い!私ピザが良いー!」

「えっ…。またメガ盛りLサイズ食べるの?」

「だってスノボの後ってめっちゃお腹すくじゃん?」

「大丈夫かな~。あんなに食べたらそのうち雪恵ちゃんもメガ盛りLサイズになっちゃうんじゃないの?」

「ちょっとぉ!?しつれーな~!」

 

冗談を言うと雪恵は頬を膨らませてむくれてみせた。

それでも目元は変わらず嬉しそうだ。

ころころと変わるその表情が可愛らしくて。

いつまでも、一緒にお喋りをしていたい…

稜はそう思った。

 

近所のピザ屋に立ち寄って、2人はそこで少し遅めの夕ご飯を頂くことにした。

確かに雪恵はすごくよく食べるのだが、均整の取れた体つきは全く変わらない。

雪の精の不思議なのだろうか。

 

ピザを頬張りながら、稜は何気なく訊いた。

「そういえば」

「総入れ歯?」

「なんでだよ。そうそう雪恵ちゃん、熱いの食べられなくてめっちゃ冷ましてたよね」

「むぅ!? ん~。ていうか、みんななんであんなに熱いの食べるの?」
「ははは。寒~~い時って、あっつあつのものが食べたくなるんよ。

 体も芯から温まる感じがするし。それもまた心地よくてさ」

「そうなんだ~。私は充分冷ましてからじゃないとやけどしちゃうよ。

 お風呂も普通の人からしたら超ぬるめで入るし」

「そうかぁ~。いつも料理作ってくれる時とか、俺に合わせてくれてるんだね。

 ホントありがとうね。

 

ところでさ。ずっと訊いてみたかったんだけど。

雪恵ちゃんたち”雪娘“って、雪を降らせたりすることはできるの?」

 

「少しはね。もっちょいいっぱい欲しいな~とか、この辺は少なくしとこ、とかはできるんだけど、それくらいかなぁ~。

海の神様とか、風の神様の力の方がもっとずっと強くてね。

私らは、自分が動ける条件の時じゃないと降らせられないの」

 

「それが、いわゆる【冬型の気圧配置】みたいな時?」

 

「そうそう、そんな感じ」

 

「海と寒気と北西の季節風…そんな様々な大きな力が合わさって、俺らは雪に出逢うことが出来るんだね…。

自然の力は本当に偉大だな…俺らも、そんな大自然の片隅で、つつましく暮らしてゆけることに感謝したいね」

 

稜の言葉に、雪恵は少し驚いたようだった。

「…稜くんみたいに考える人もいるんだ…。

私ね、人間ってもっと、自然を支配して、制御して、抑え込まなければいけないって考えてるんだと思ってた」

 

「いろんな考えの人はいるよ。自分の場合は、考えの原点になっているのが、山に生身の自分が向かい合うときの”感覚“でね。自然のスケールの大きさを前に、自分はこんなに無力なんだ、とか、大自然の中の自分の存在って、こんなに小さいんだ、とか感じることがあってね。その自然に対する畏敬の気持ちは、今でも心の中に大切に持ってる」

 

「なんか…私、そんな風に考えている稜くんみたいな人と逢えたのが…すごく嬉しい」

雪恵は真っすぐな表情で、稜を見つめた。

 

 

滑り終えて官舎に帰ってからの2人の動きも、ずいぶんこなれたものになってきた。

スノボの道具類を車から部屋に運び、稜は2人のボードやブーツのメンテナンスに移り、雪恵はウェア類を洗濯して室内に干していった。その後それぞれの部屋でお風呂に入り、なぜかその後も雪恵は稜の部屋に行き、スイーツと共にコーヒーを一緒に飲みながらスノボ談義に花を咲かせた。Youtubeの動画を観たり、道具やグッズの話をしたり…そんな時間が楽しくて、あっという間に過ぎていった。

 

__________

 

 

次の週。

予報通り、ひと冬のうち最強クラスの寒波が襲来した。

山形県北部では始めのうちはドカ雪が降っていたが、気温が低下するにつれホワイトアウトするほどのパウダースノーに変わった。

 

この週末はきっとこの冬最高の滑りを楽しめるだろうな。

雪恵ちゃんが喜んでくれるといいな。

そのことばかり考えながら、稜は週の間も少しずつ準備を進めた。

 

週末に向かう予定の大きなスキー場には、静かで落ち着いた雰囲気のキャンプ場が隣接していた。

そこのキャンプ場でバンガローを借りて、ゆっくり静かな夜を過ごしたい。

管理棟に温泉があるのも魅力的だった。

 

もちろん、稜は雪恵にはどういう予定で行動するか、といったことは充分共有していて、その度に彼女は小躍りしそうなくらいそれを楽しみにしていた。そして彼女は彼女で自分にできる精一杯の準備を尽くしていた。彼女なりに自分の滑りの癖や課題を解決すべく、いろいろ調べた上でスタンスを変えたり、カントを入れたり、アングルを変えたり。

雪恵ちゃん自身がほんとにスノボが好きで、いろいろ努力しているんだな…

稜にとっては、そのことが心から嬉しかった。

 

金曜日。仕事が終わって官舎に帰ると、早速2人は準備を始めた。

稜はスノボ道具一式とキャンプ道具を車に積み込んでいった。冬の初めに愛車のアウトバックにはスタッドレスを履かせていたが、今回はいざというときの為にチェーンも載せておいた。

雪恵は用意した食料品と調理器具を収納ボックスに納めて車に運び、衣類や日用品の類も併せて積み込んだ。

色々載せると、フラットにした後部座席は結構いっぱいになった。

 

深夜の高速道路に車を走らせ、途中のSAで仮眠を取って。

午前7時頃には、目的のスキー場に到着した。

真っ白な銀世界。

ふわふわでさらさらな最高の雪が、2人を迎えてくれた。

稜としては、勿論自分自身がこのパウダースノーの滑走を楽しみたいという思いはあったが、それ以上に、雪恵ちゃんはこの最高の舞台にどう挑むんだろう…その様子を目に焼き付けたい…そんな想いが稜の心を昂らせた。

 

リフト一本目の最初の滑り。

雪恵は頂上の急斜面から、アグレッシブにターンを切り始めた。

時折雪面を這うように体勢を低くしながら、まるで天使が羽ばたくかのように軽やかに。そして優雅に、華やかに。その弧を大きく、小さく、自在に操りながら。

彼女はその滑りで、嬉しさに溢れんばかりのその思いのたけを輝かせた。

バーンを横切る林道の起伏で、息をするように繰り出されるフロントフリップとコーク。

コース脇の土手を、まるでバターナイフで撫でるようにボードを通すと、降り積もっていた粉雪は軽やかに再び風に舞った。

美しいという言葉はたぶん、あっという間に見る者の心を虜にするこの想いを表すためにあるのだろう。

憧れという言葉はきっと、吸い込まれるようなこの気持ちを表すためにあるのだろう。

これまで雪恵にスノーボードを教えてきた稜だったが、この日はむしろ、雪恵のその滑りに魂を射抜かれる程に、魅了されていた。

その傍で一緒に弧を刻むことが出来るのが、この上なく幸せだった。

 

 

午後からは一層降雪量も増した。

圧雪の上に次から次に降り積もるパウダースノー。

一シーズンに何度あるのかな、というふわっふわのその雪を、2人は時が経つのも忘れて滑り込んだ。

雪恵のクラシカルキャンバーの板はパウダーでの浮力が弱く、何度か雪恵は粉雪の中に腿位まで埋まった。その度に稜は彼女を掘り起こしに行くのだが、雪恵は嬉しそうにきゃるきゃるはしゃいで稜に抱えられていた。稜はキャンバーの板でも埋まらないように、重心を少し後ろに下げて先端を浮かせるコツやパンピング、板を横にしてブレーキを掛けないことなども伝授したのだが、雪恵はその後も何度も粉雪にはまっては、稜に抱きあげられた。わざとやっていたのかもしれない。

 

とはいえ、2人が真っ白な斜面を雪煙を舞い散らせながら滑り降りてくる様は、まるでペア競技のように美しくシンクロし、2人にしか出せない優美な軌跡をその雪面に描き出していった。

 

 

極上の一日を滑り終えた二人は、隣のキャンプ場の温泉で疲れをいやし、宿泊するバンガローに向かった。

 

夜のキャンプ場を照らすオレンジ色の柔らかな街燈と、こんもりと積もった大きな雪のかたまり。その明かりをきらきらと映しながら、さらさらな粉雪が舞っていた。

 

一日の心地よい疲れを覚えながらも、同時に2人はなんともいえないその心の安らぎを、夜の雪景色の中に感じていた。

 

小さな8畳ほどの丸太小屋の暖炉で、静かに燃える杉の薪。

稜はその暖炉の上でお湯を沸かした。

雪恵は、稜が持参した簡易バーナーで、黒胡椒がぴりっと効いたほうれん草とベーコンのスープパスタをこしらえた。それに暖炉の上であっためた缶詰食材と、直火で炙ったお肉とバゲットを幾許か。

 

雪がやわらかに降り続く穏やかな夜。

耳をすませば、かすかにその降り積もる音が聴こえてくる。

ここには煌びやかな贅沢品も、誇れるような財産もなにもない。

それでもそこに流れるのは。

その他では決して見出すことのできないような、ささやかな幸せの時間だった。

 

相変わらず雪恵ちゃんはよく食べるね。

稜は、おいしそうに食べる雪恵の横顔がただひたすらにかわいくて、愛おしかった。

稜くん、どう?スープパスタ。

おれ、美味しすぎてなんて言ったらいいか分からないよ。生きる喜びを感じるよね。

雪恵ちゃんの料理、大好きなんだ。

 

雪恵は、心臓の音が聴こえちゃうくらい、心がときめいた。

 

今日の雪、ほんと極上のパウダーだったね。雪恵ちゃんが手伝ったの?

えへへ…だいぶ本気出しちゃった。

やっぱりかぁ~。

俺さ、子供の頃から、雪が降るのが嬉しくてね。

ふわふわ舞い降りてくる雪を、窓ガラスに張り付いてずっと眺めてた。

どんどん積もってくると、それはもうはしゃぎまわりたいくらいでね。

一日中、雪と戯れていたのを思い出すよ。

今日は、なんかその頃の無垢な想いが胸に戻ってきた気がしたよ。

あと、これは子供の時から感じてたことなんだけどさ。

最高の雪って、触るとなんだか、嬉しそうなんだよね。

柔らかくて、やさしくて、嬉しそうなんよ。

 

雪恵は思わず目を瞠った。

稜くんには、雪の精の気持ちがわかるんだね…。

私たちの想いって、ちゃんと伝わってたんだ。

それも、稜くんみたいな素敵な人に。

雪恵は心が溶けそうなほど嬉しかった。

そして、小さなころから今に至るまで変わることなく雪を愛し続けている稜のことが、言葉にならないくらい愛おしかった。

 

雪恵はふと、稜に初めて会った日のことを想い出した。

なんとなく今の雰囲気が、その時の状況によく似ていた気がしたからだった。

 

 

ねえ、最初に逢った時のこと、覚えてる?

雪恵は尋ねる。

 

もちろん。あの時猛吹雪の山腹を彷徨っていた俺は雪恵ちゃんに助けられて…。

そうだ。いま俺が生きているのは。

 

雪恵ちゃんのおかげなんだね。

 

ありがとう。ほんとうに、ありがとう。

 

あのときはじめて会った稜くんと、今こうして隣にいる稜くん。

ここまでの時の流れと、それ以上に深まった想い、そして宝物のような想い出たち。

その温かさを胸の内に抱きしめるにつれ、雪恵の目には熱い熱い雫がこみ上げて、静かにその頬を伝った。

止まらないその滴り。

 

違うの。恩を着せようとかそんなんじゃないの。

ただ、いま思い返したらわたし、こうして稜くんが生きててくれるのが、ただただうれしくて仕方がないの。

ただそれだけで、他には何もいらないくらい、幸せなの。

 

稜くんはそっと、肩を抱き寄せてくれた。

 

そういえばさ、あの時も。

稜くんはそっと続けた。

 

暖炉に杉の薪が燃えてて、雪恵ちゃんがコーヒー淹れてたよね。

そのあとみんなで非常食を分け合って…

なんかさ、すごく楽しかったんよ。

おかしいよね。生きるか死ぬかの瀬戸際だってのに。

でも、雪恵ちゃんと話してると、なんでかわかんないけど。

大丈夫だと思えたんよね。

不安も、心配も、どうでもよくなって。

ただ生きてるってだけで、幸せな気がしたよ。

 

その後さ、雪恵ちゃんが隣に引っ越してきて、一緒にスノボやるようになったじゃん?

なんだかさ、毎日がきらきらして、まぶしくて。

誰かと共に生きるって、こんなに嬉しいんだな、って思えてね。

一緒にお店に行ったり、滑りに行ったり、ご飯食べたり。

そんな生活の一コマ一コマがね、こんなにもかけがえのないものだなんて。

過ぎて行く一日一日が、こんなに愛おしいものだったなんて。

たぶん雪恵ちゃんに出逢ってなかったら。

きっと気付いてなかったんじゃないかな。

 

だからね、心からの感謝を贈るよ。

 

ありがとう。雪恵ちゃん。

あの時助けてくれて。

そして今も隣にいてくれて。

雪恵ちゃん。

大好きだよ。

 

優しく自分の名を呼ぶ声が、想いを伝えてくれたその響きが、幾重にも反射して、それから心の奥の一番大切な場所に収まってゆく。

 

稜はそっと、雪恵の肩を抱き寄せ、慈しむようにぽんぽんと撫でた。

 

雪恵は稜の体に腕を回して、その温かさを抱きしめながら。

雪の結晶のようにきらりと輝く光の粒を、その頬に滴らせた。

 

二人が出逢った時と同じように。

暖炉には薪の熾火が赤々と燃え、小屋の外には柔らかな雪がしんしんと降り続いていた。

 

 

_________________

 


冬の厳しさもやや緩み、春の気配を感じるある日。

稜は隊の仲間と一緒に、救助隊の事務所で機材や道具類のメンテナンスを行っていた。

役場が新しいスノーモービルと、ロープや金具などの消耗品を支給してくれたので、それらの試運転や作動確認、検品もあわせて進めていた。


お昼前のことだった。

かすかに、遠くを重機が走る時のような音が響いた。

「地震…?」


こつこつと地の裏から小突かれるような僅かな振動は、数秒もしないうちに激しく突き上げる縦揺れに変わった。稜も仲間の隊員も、地面の上を跳ねるように近くの空き地を目指した。集まり終わるか終わらないかといううちに、既にそれは横方向への大揺れとなっていた。

地鳴りが轟き、建屋はがしゃがしゃとその基部から揺れ動き、電柱はくねくねと踊った。

ほんの20数秒程度の強烈な搖動に、人はみななすすべもなく地面にしゃがみこんだ。


ほどなくして音が消えた町からは、時折物が落下するような音がやけに甲高く響いた。


「みんな大丈夫か!?」

「はい、何事もなく」

「よし、手分けして被害を確認しよう」


事務所の建屋の被害は比較的軽微だった。事務所室内は固定していなかった備品が倒れて散乱していたが、深刻な被害は免れた。また、敷地内にある車両やモービルの類も無事だった。

街を眺めると、周辺の家屋もそれほど大きな被害を受けているわけではなさそうだ。


「雪恵ちゃん…今日はショッピングモールでバイトだし多分大丈夫だと思うけど…」

稜の心には一抹の不安が過ったが、大丈夫なはずだと自分に言い聞かせた。


それから数分もしないうちに、事務所の無線が鳴った。

 

「こちら山形県警。ヒトヒトヨンマル。升田地区付近で土砂崩れが複数発生。救助要請複数あり。北東電力黒沢発電所が埋没したとの情報を確認中。この地区の救助活動を依頼可能か伺いたい。どうぞ」

「こちら民間救助隊鳥海。4名まで出動可能。状況を詳細に説明願います。どうぞ」
「升田地区、日向川沿いの南東斜面と北西斜面で複数箇所が崩落した模様。付近の民家も数棟埋没したと通報あり。同時に雪崩も随所で発生しており状況が明確に目視できない。川沿いに南西方面からのみ進入可能と思われる。どうぞ」

「了解。出動します」

 

隊員の皆は既に装備を整え、トラックに積み込みつつあった。

今回は相当大掛かりな救助になるだろう。

稜と隊員たちは追加で、エンジンカッター、削岩機、ウィンチ、小型のユンボ、チェーンソーなども荷台に積んだ。そして直ちに現場へ急行した。

 

新雪がまとまって降り積もった後の、こんな春っぽい穏やかな日は、雪崩のリスクが非常に高まる。まして地震の直後であれば、崩れ残った雪塊が著しく不安定な状態になっているに違いない。そしてかなりの頻度で余震が襲ってくる。

それでも。

まだ生きている人々を、一人でも救わなければ。

みなその思いを胸に、覚悟を決めていた。

 

道中は大きな通行不可箇所などは発生していなかったが、所々倒壊した家屋や瓦礫などが道路に散乱しており、はやる気持ちを抑えて慎重に進むしかなかった。

それでも稜たち救助隊は県道366号を北上し、簡易郵便局付近までたどり着くことができた。

そこから数百メートルもない場所で、大規模な地滑りと大量の雪崩のデブリが溜まっているのが見えた。

そして更に恐ろしいことに、崩れた土砂によって日向川が塞き止められていた。

 

稜は直ちに隊員の一人に、近くの公民館に行って川沿いの住民の避難誘導を自治体に依頼するよう指示した。

そしてスノーモービルをクレーンで吊り降ろし、今現場に向かうことのできる自分含め3名で先行することにした。

 

稜と酒田、最上の3名はまず、南東側からのアプローチを試みた。

川から少しでも遠い位置、それも斜面を高巻きするようにスノーモービルを走らせた。途中民家が一軒土砂流入で半壊しているのを発見し、そこの住人の爺さんを救出した。最上にその爺さんの搬送をお願いし、稜と酒田はその奥の黒沢発電所を目指した。

 

通常この黒沢水力発電所は自動化されており無人のはずなのだが、この日は制御室の点検に入った職員が2名おり、そのうち1名から救助要請が入っていた。

 

発電所付近は土砂とデブリが混在し、雪面状況も大きく乱れたためスノーモービルでの接近は出来なかった。まず状況確認のため、稜と酒田はスノーシューを履き、徒歩で現場への接近を試みた。

 

発電所は建屋の上部をわずかに覗かせるのみで、その大半が埋没していた。

そしてそこから上の斜面には、今にも崩れそうな大量の土砂と雪崩のデブリがしな垂れかかっていた。

「まずは最上階の窓まで掘るよ」

稜は仲間と共に、スノースコップで素早くデブリを掘り進めた。

しばらく掘ると、最上階の窓のサッシが見えてきた。

稜も仲間の隊員も、夢中でその窓枠の部分まで掘り起こした。

窓を叩きながら稜は呼び掛けた。

「誰かいますか!?動ける方はここまで集まって下さい!」

しばらくの後、窓から見える階段の奥から、懐中電灯の光のようなものが動くのが見えた。

まもなく、一人の男性がその奥から姿を現した。

「大丈夫ですか!」

「私は大丈夫です。でも…」

「他に誰かいらっしゃるのですね?」

「あと一人、同僚が階下で設備に挟まれました…。意識がありません…」

「わかりました。私が行きます。まずは貴方を救出します。」

その男性は内から窓を開け、稜たちに救助された。

「ところで、送電は止まっていますか?」

「はい。地震と共にシステムが緊急停止しているので、送電は止まっています」

「わかりました。酒田くん、この方をまずは安全な場所までお送りして。自分は建屋内部を調べる」

稜は仲間の隊員にこの男性の搬送を依頼した。

いよいよ残るのは自分一人。

それでも、まだ救助を必要とする人が一人でもいるのなら。

迷うことすらなく、稜は建屋内に降りていった。

2階はそれほどでもなかったが、1階は土砂が窓を突き破り、内部の設備を圧壊していた。

慎重にそれらを取り除けていくと、分電盤と制御装置の間に、人のようなものが挟まれているのが見えた。

「大丈夫ですか!」

声を掛けるも、その存在が返事をすることはなかった。

瓦礫をかき分け、稜はその方の身体にそっと触れた。

彼は既に、息を失ってしまっていた。

 

何とか、ご遺体だけでも帰して差し上げたい…。

稜は工具を用いて倒壊した設備や土砂をよけた後、丁重にその方を収容し、最上階に向かった。

窓の外にその方を運び出し、安全な場所まで搬送しようとしていた矢先。

 

やや強めの余震と共に、土砂で塞き止められていた日向川が決壊した。

押し流された土砂は爆ぜるように四散しながら、轟音と共に建屋にいる稜たちのもとへなだれ込んでいった。

 

____________

 

 

その日、雪恵はバイトだった。

早朝から12時までのシフトで、それから買い物に行こうと思っていた。

稜くんの好きなハンバーグカレーを今日は作ろうかな。

合ひき肉とルーと玉ねぎを買って帰ろう。

稜くん、喜んでくれると嬉しいな。

 

もう少しでシフトも終わる。

その矢先、強い揺れが職場を襲った。

もちろん人間の身体で感じる地震は恐ろしかったけれど。

それ以上に、雪恵は稜のことが心配になった。

だって、稜くんは、他の人を救うために自分の命を懸けてしまう人だから。

胸のうちが、やけに騒がしかった。

雪恵は、職場の安全を確認した後、稜が勤務している民間救助隊の事務所に歩みを進めた。

 

そこには誰もいなかった。

でも機材の出払い方や隊服に着替えた痕跡からするに、緊急出動した後なのだろうと察せられた。

壁に掛かっていた予備の無線機が、かすかにじりじりとノイズを立てた。

雪恵は夢中でそれを手に取り、壁の掲示通りにチャンネルを合わせると、隊員同士のやり取りが聴こえた。

 

「日向川が土砂で塞き止められており、極めて不安定な状況…いつ崩れてもおかしくない」

「周辺の住民の避難状況は?」

「住民避難完了しています」

「よし、川沿いのルートは極めて危険と思われるので、南側斜面から高巻きして現場への接近を試みる。自分と最上、酒田の3名でこれより行動を開始する。後方支援を頼む」

「了解」

 

居てもたってもいられなかった。

以前の災害訓練の折に稜から聞いていた通りに、隊服のクローゼットを開くと、その中にややくたびれた、Sサイズのものが掛かっていた。また、その下には小さめの安全靴も格納されていた。

雪恵は納められていた装備品を取り出すと、急いでそれらを身につけ、動ける格好になった。

腰のベルトにはホルダーを通し、予備の無線機をそれに挿した。

食料や飲料、その他の身の回りの必要品を備品のザックに詰め込み、雪恵はそれを背負って事務所を後にした。

 

雪恵は地図アプリと断片的な情報をもとに、現場と思われる地点を徒歩で目指した。

南岸低気圧の通過に伴い、暖かかった午前中とは打って変わって北風が吹き込み始め、空はどんどん曇ってきて、ほどなくして雪が舞い始めた。

稜くん、きっと無事よね…。

自分に言い聞かせるように反芻するその言葉はいつしか、祈るような想いに変わっていた。

雲間にうっすらと見えていた太陽も、ずいぶんと地平に近づき、夕日に変わろうとしていた。

 

突如、大きな余震が辺りを揺らし、雪恵はその場にしゃがみこんだ。

時を置かず、雪恵の持っていた無線機から緊迫した隊員たちの声が響いた。

 

「余震と地滑りがあったが全員無事か?」

「簡易郵便局付近住民全員被害なし。どうぞ」

「発電所より1名救助。安全を確保し現在搬送中。まもなく郵便局付近に到達する」

「隊長は?」

「……」

「発電所で捜索中の模様…」

「日向川決壊した!土砂が流れてくる!」

「全員、至急高台へ!安全の確保を!」

 

胸の奥のざわざわは、締め付けられるような痛みに変わっていた。

「お願いだから、お願いだから無事でいて…!」

そんなすがるような思いが、心からあふれそうだった。

 

空がうっすらと暗くなりだす頃、雪恵は簡易郵便局の辺りにたどり着いた。

そこには稜以外の隊員が集まっていた。

その表情はいずれも、悲痛に沈んでいた。

「あの、稜くんは…」

「あっ、雪恵さん…」

「今どこにいるんでしょうか」

「隊長が発電所で捜索活動中に日向川が決壊して…連絡が取れないんです…」

「土砂崩れがまた起きる危険性が非常に高くて、自分たちも近づけずにいるんです」

 

雪恵は、今にも泣きだしたいほどの不安を、煮えたぎるような冷静さで抑え込んだ。

「どの辺りに居ると想定されますか?」

「黒沢発電所の建屋内か、その周辺だと思われます」

「ここにアプローチする上で問題になっていることは何でしょうか」

「崩壊した土砂で塞き止められていた日向川が決壊したことです。初回救出時に使っていた、南東側から川を高巻きするルートが崩壊して進めません。発電所にはもう一つ、上の山から下りていくルートがあるんですが…」

そう言って隊員は言葉を濁した。

そのルートはそもそも水力発電に使われるような急斜面で、地震により所々崩壊していた。また、その方向から接近するには、まず今展開している装備を積み直して、高原牧場の方から再び近づかなければならなかった。

そしてもう一つ。

 

雪恵は、一番の懸念材料について率直に尋ねた。

「発電所の高圧水管の破損はありましたか?」

「水管は破損していないようです。最初の救助活動の時、ここからの漏水や土砂の崩落は見られませんでした。現状目視で新たに水が噴き出すなどの異変はみられていません。でも、今後の余震次第で破損する可能性はあります」

 

この高圧水管が破れると非常にまずい。

噴き出した2MPa以上の高圧水が周囲の土砂や雪氷を抉り、流下した土砂が下流側での救助活動時に大きな被害をもたらすに違いない。

 

雪恵は食い入るように地形図を見つめていたが、それから静かに顔を上げた。

「上部取水場の脇の林道を通って、下の発電所建屋まで到達できるのではないですか?」

「確かに近くまでは行けるかもしれないけど、たどり着いたとしても決壊箇所から先の救出はどうする?」

「私は雪娘です。雪を味方につけて、人間にはできないような行動をとることが出来ます。少し変なやり方ですが、私がカーンマントルの12.5㎜スタティック2本を持って現場まで降下して支点確保します。要救助者を見つけたら、折畳担架に載せてその場から上まで引っ張り上げてもらうことにします。プーリーでZリグを組めば、この人数でも十分に吊上げが出来るのではないでしょうか」

 

据わった腹から繰り出される冷静で的確な提案。

自ら先陣を切っていこうとする姿。

まるで隊長を見ているみたいだ。

隊員の皆は、雪恵の話を聴きながら、なんとかやってやろうという気持ちが心に湧き上がってくるのを感じた。

 

「よし、下ろしてたカーンマントルロープをユニックに積んで!あと折畳担架と索具も!」

「了解!そりとハーネスと照明器具、それに玉掛器具は積込完了してます」

「最後にモービルもだな」

「雪恵ちゃん、装備はなにか要るものはない?」

 

雪恵は恐らく稜が用意したと思われる装備一式をすばやく確認した。

「靴下…もし予備の厚手の靴下があったら、私に下さい!」

隊員の皆はその意図を汲み切れずキツネに抓まれたような表情を浮かべたが、雪恵の為に直ちに予備のそれを用意した。

 

雪恵は稜が今回も持って来ていたスプリットボードと、稜のスノーブーツをユニックの荷台に積み込んだ。隊員から借りた靴下は、大きめの稜のスノーブーツに自分の足を合わせるフィーラーの役割を果たした。

 

程なくして積込作業は終了した。

救助に必要な資機材を満載したユニックと、補助装備と付帯資材及び食料などを積み込んだ支援用トラックは、うなりを上げて鳥海高原を目指して走っていった。

 

 

 

 

隊員たちと雪恵は、鳥海高原の牧場の付近でトラックを停めた。

時間にすると30分も要しないルートだが、この時はやたらと長く感じられた。

 

そこから発電所の上部取水場に至るには細い農道を通ってゆく必要があるのだが、この道は除雪されていないので、スノーモービルを使って上部取水場まで行かなければならなかった。隊員たちと雪恵は2台のスノーモービルと共に救助用の大型のそりを荷台から降ろし、それに資機材や装備などを積み込んだ。そしてそのそりをスノーモービルで引っ張って行くことにした。

 

上部取水場から高圧水管の周辺は雑木や藪が生い茂っており、水管沿いに降りてゆくことは極めて危険かつ困難だった。また、その脇には小さなコンクリートの階段があるものの、道幅が狭く、すっかり雪に覆われてしまっており、柵もなく滑落の危険が高かった。

地図を見ると、先刻確認した通り上部取水場の横から南東方向に林道がくねくねと蛇行しながら下まで続いており、これに沿って降りていけば発電所まで近づけそうだった。そしてこの林道の周辺は、地震による土砂崩れの被災を免れていた。

隊員たちと雪恵はこの林道を通って、下の発電所建屋付近までスノーモービルに分乗して降りて行った。



 

十数分ののち、隊員たちと雪恵は遂に、発電設備のある建屋の二百数十メートル手前の地点に到着した。

そこより先は林道が崩落し、その下には決壊した川が押し流した土砂や倒木が折り重なっており、崩落に伴って発生した雪崩のデブリがそれらを覆っていた。

 

到着した彼らは直ちに装備を整え、救助の段取りを組んだ。

雪恵は高所作業用のハーネスを身に付け、カーンマントルロープを腰の後ろの辺りに索具で接続した。

そして借りた靴下を幾重にも重ね履きして、稜のスノーブーツを足に履いた。

最後に稜のスプリットボードに踵から足を滑り込ませ、ストラップのラチェットを締めこんだ。

 

カチッ。

爆ぜるような音と共に、スプリットボードは足と一体化した。

 

「行きます」

 

雪恵は雪の積もった急斜面を、2本のロープを曳きながらスプリットボードでみるみる降下していった。

 

__________________

 

 

雪崩のデブリの上には、夕刻より降り始めた雪が積もっていた。

勿論デブリの上だから、雪面はガタガタだし、所々岩や雑木も露出していた。

それでも雪恵は意に介することもなく、それらの上を巧みに、舞うように滑り降りていった。

 

程なくして雪恵は、発電所建屋にたどり着いた。

そして素早く、建屋の近くの送電設備を支えているH鋼にロープを括り、支点を作成した。

建屋の窓からは土砂が貫入し、内部をすっかり埋めてしまっていた。

 

不安で張り裂けそうな胸を、雪恵は必死で抑えた。

 

稜くん…

 

雪恵は辺りを見回した。

そして周囲の静寂の中にかすかに、彼の気配を感じ取った。

 

「稜くん…!」

 

建屋を十数メートルほど離れた土砂の中に、雪恵は稜の姿を見出した。

稜はあおむけに倒れ、胸より下の部分が土砂に覆われてしまっていた。

そして彼は流れてきた岩や土砂で全身を強打しており、その命の輝きは失われつつあった。

「稜くん!稜くん…!大丈夫なの!?」

稜は薄れゆく意識の中で、閉じていた目を開くと、雪恵に語り掛けた。

「あぁ…雪恵ちゃん、来てくれたんだね…」

「今助け出すからね!しっかり!」

「雪恵ちゃん…ありがとうね。

 でも俺、もうだめかもしれないんだ。

 あの日、折角雪恵ちゃんに、助けてもらったのに…」

「稜くん、何言ってるの?みんな来てくれたよ?私がいま助けるから、一緒に帰ろうよ」

 

「雪恵ちゃん、お願いがあるんだ…。聴いて欲しい」

 

雪恵の頬を大粒の涙が、とめどなく伝っていった。

稜はそんな雪恵の手を取って、かすれゆく声で優しく語りかけた。

「最後に雪恵ちゃんと逢えて、本当に嬉しいよ。

 雪恵ちゃんは僕にとっての天使なんだよ。

 一緒に過ごすことが出来て、これ以上ないくらい、幸せだった。

 感謝してもしきれないくらい。

 ありがとうね。

 雪恵ちゃん…、大好きだよ。」

 

手のひらに包み込んだ稜の手から、徐々に力が抜けていった。

「……稜くん!? 稜くん…!! …稜くんん“ん”っ………!」

言葉にもならないような呻きと共に、その瞬間の心の痛みが雪恵を貫いた。

雪恵は、稜の頭部を優しく抱きしめて、肩を震わせて咽び泣いた。

 

真っ暗な雪の夜。

厚く垂れこめた雪雲に覆われ、月はその光を失い、星はその輝きをひそめた。

 

雪恵はやがて天を見上げると、雪を司る神様に祈った。

私にできることが、まだ一つ残っている…。

とうの昔に、覚悟は決まっていた。

 

雪の神は、雪恵の祈りに応えて、雪恵を天界に召喚した。

 

「来るだろうと思っていた」

雪の神は、寂しそうに背中を丸めてうつむき、そう言った。

「お願い致します。稜くんを、助けてください。」

「迷いはないのだね?

私がこの願いを聴き入れてしまうと、雪の精としての貴女の存在はなくなってしまう。

それでも、彼を救うというのだね?」

「はい。私が全てを懸けても守りたいと思う存在。それが稜くんなんです。」

 

雪の神は、嫁いでゆく自分の娘を見る父親のような表情を浮かべた。

「そなたを…その存在の初めからずっと、私は見てきた。

他の雪の精たちと同様、そなたもまた私の大切な家族のように想ってきた。

だから…そなたが…雪の精がその存在を失ってしまうというのは、私にとっても非常につらいことなのだ。」

 

雪恵にとってももちろん、雪の神様は物心ついた時から共にいた、父のような存在だった。雪の神様の想いを聴き、雪恵もまた涙を零した。

「ごめんなさい…わがままを言って。これまですごくお世話になったというのに。

 それに、私のことをずっと愛をもってみまもってくださったのに。

 でも私、稜くんがいない世界で生きていける自信がないんです。

 稜くんがいない未来が、辛すぎてまったく思い描けないんです。

 稜くんは、私の全てなんです。」

 

雪の神様は、静かに目を伏せた。

「致し方あるまい。そなたがあの青年を慕う様子を天から見ていた。

 それほどまでに想える相手がいること。

 またそなたを想い慕ってくれる相手がいること。

 自らがそのすべてを捧げてもいいと思える相手がいること。

 それは、何よりも貴重な、かけがえのないことなのかもしれん。」

 

そして雪の神様は、雪恵の前に歩み寄った。

「雪の精よ。いや、雪恵よ。最後にお別れをさせて欲しい」

そう言って雪の神様は、雪恵の手を取った。

「これまで、本当にお世話になりました。

 神様から頂いた大切な思い出は、きっと私がいなくなっても、永遠にその輝きを放ち続けることでしょう。

 心からの感謝と愛をこめて…

 有難うございました。」

雪恵は、ぼろぼろと涙を零しながら、恭しくその手を握り、まっすぐな瞳で雪の神様を見つめた。

 

「よし、それではこれから、そなたの願いをかなえよう。

 今からそなたを地上に戻す。そしてあの青年を生き返らせよう。

 今でこそ岩と土に埋もれておるが、地上に彼は甦ることになる。

 北風の神と海の神、それに大地の神にも助力願おう。

 そして雪恵よ。

 彼が甦ると程なくして、雪娘であるそなたの存在はなくなることになる。」

「はい」

雪恵は冬の青空のように澄んだ表情で、はっきりと返事をした。

 

「では覚悟は良いか雪恵よ」

「はい!お願いします。」

 

雪の神様は雪恵の頭の上に手をかざし、その力を解き放った。

まばゆい光の輝きと共に、たちまち雪恵は地上の救助地点に戻された。

そしてそこには稜が、雪の上でまるで昼寝をしているかのように、穏やかに寝息をたてて横になっていた。

 

 

_____________________

 

 

「稜くん…」

雪恵は稜の傍に膝をつくと、そっと稜の手を握り、その顔に優しく触れた。

穏やかで慈しみにあふれた、優しい顔だった。

 

「雪恵ちゃん…?」

稜は長い眠りから覚めたかのように、少しずつ目を開いた。

そしてゆっくりと、その上体を起こした。

雪恵はそっと稜の肩を抱き、やがてその胸にすがりつくように、まるで彼の全てを愛おしむかのように、とめどなくその涙をあふれさせた。

 

意識が明瞭になってゆくにつれ、稜はやがて、自分の身に何が起こったかを悟った。

そして、雪恵の背中に腕を廻して言った。

「俺の命は確かにあの時…。

 雪恵ちゃん、もしかして【お願い】を使ったの?」

雪恵は稜の胸に顔をうずめたまま、うなずいた。

「雪恵ちゃん、そんな大事なお願いを、俺なんかのために…

 いやだよ、俺。雪恵ちゃんがいなくなっちゃうの…!

 ずっとずっと、俺と一緒にいてよ…!」

稜は雪恵を抱きしめて、大声で泣いた。

 

 

稜くんが泣くの、初めて見たよ…。

稜くんの涙、こんなに熱いんだね。

私のことをここまで想ってくれるなんて。

その想いが何よりもうれしいよ。

私は、こんなにも誰かを想える、優しい稜くんを守ることが出来たのね。

ただの自己満足かもしれないけど…

私は、稜くんを守ることが出来て、最高に幸せだよ。

一緒に過ごした時間のひとつひとつが、他と比べようのないほど大切なものだったよ。

毎日が、嬉しくて、楽しくて…

稜くんに出逢えた私は、世界一の幸せ者だよ。

ありがとう。

私も、大好き。

 

 

雪恵は、自分のまとっている人間の体の実感が、徐々に無くなっていくのを感じていた。

稜くんの体の温かさ、筋肉の逞しさ。手のひらから伝わる、彼のやさしさ。

名残を惜しむように、雪恵はその体を抱きしめた。

無存在になることへの怖れと不安はあったけれども、それでも最愛の人を守ることができたことの満足は、それらをはるかに上回っていた。

 

「さようなら、稜くん」

 

雪恵は、消えゆく体の最期の輝きを稜に魅せた。

きらりと輝く、ダイヤモンドのような雫が、雪の上に輝いていた。

 

 

___________

 

 

真っ暗な雪の夜に、稜はひとり残された。

稜にもやはり、すべきことが残っていた。

雪恵が遺したザックからヘッドライトを取り出し、彼女が装備していたハーネスを着用した。そして自分が収容しようとしていたご遺体を載せた担架を引き寄せた。

準備が整ったのち、稜は無線機を手に取った。

「こちら白峰。これより、要救助者を搬送するが可能だろうか」

無線機の向こうの隊員は歓声を上げ、涙声で応答した。

 

雪恵ちゃんが、自分を此方の世界に帰してくれた。

自分は御魂まではお返しできないけれど、せめてご遺体だけでも、ご家族のもとへお返ししたい。

そして、これからも、助けを必要とする人々の命を救いたい。

 

 

稜は折畳式担架をプーリーを介してメインロープに架け、収容した発電所職員のご遺体を隊員のもとへ送り届けた。

 

隊員のみんなは、稜が帰ってきたことに歓喜すると同時に、雪恵のことを心配して稜に尋ねた。

雪恵はもう、戻ってこないんだ。

そう説明するのがあまりにも辛くて、稜はその涙をこらえることが出来なかった。

 

 

真っ暗な空は、その愛深き雪娘を惜しむように、静かに牡丹雪を降り積もらせていった。

 

 

___________

 

 

 

助太刀をした北風の神様と海の神様、それに大地の神様は、その想いを慮るように雪の神様に尋ねた。

「ほんとうに良かったのか。あの子のこと、あんなに大事に、可愛がっていただろう」

「私とて…断腸の思いだ。大切に想ってきたからこそ、その別れが身を切る程につらい。

それでもこれはあの子が選んだ道。

それはたとえ強大な力を有する神たるものであったとしても、その意思の自由を阻むことは出来ぬ。

……

 すまない。少し一人にさせて欲しい」

 

雪の神様はそう言って、普段自分が居る天の社に戻り、その戸を閉ざした。

そして抑えていた悲しみが吹き出すかのように、その場にかがみこみ、その別れを悼んで涙を流した。

 

あまり時を置かずに、北風の神様はその社の戸を叩いた。

「雪の神よ!お会いしたいので直ちに出て来られよ!」

雪の神様はよろりと立ち上がると、戸の所まで歩み寄った。

「申し訳ないが、今は…そっとしておいてくれまいか」

「それどころではないのだ。大切な話があるので聴いていただきたい」

 

雪の神様がそっと戸を開くと、北風の神様はその肩に手を置いて、力強くこう言った。

「私の神通力を5割、いや6割、貴殿に預ける」

「しかしそれでは今年はもう冬は終わってしまうではないか。それに6割でも到底…」

「私だけではない。社の前を見てみないか」

雪の神様はわずかに開けていた社の戸を大きく押し開けた。

 

そこには、海の神、山の神、大地の神、大気の神、その他大勢の神羅万象の神々が集まっていた。それに、雪の精や風の精といった仲間たちまで。

「皆さま…いったい…」

雪の神様はあっけに取られて尋ねた。

 

「自然界を司る多くの神々が、こうして力を貸すと言って下さったのだ。

 あんなに真っ直ぐな心と深い愛を持った雪の精が、その愛ゆえに自らの魂をなげうち、愛する者を救うというのだ。そんな熱い心を持つ娘がこの世を去るのを黙って見ておるなど、我々神たるものの沽券に係わる問題よ。

 無論あの娘を再び生かすには強大な力が要るのもよくよく承知しておる。

 元の雪の精として黄泉より帰すには流石に我らとて力が及ばぬかもしれぬが…」

 

「そうか、人の子としてなら…!」

雪の神様はその目を見開いた。戸の桟を掴むその手は震えていた。

「さあ雪の神よ。我らはその総意として、それぞれの力を貴殿に預ける。

 あの子を再び生かすことが出来るのは、雪の神よ。貴殿のみなのだから」

 

雪の神様は思わず天衣で目元を拭った。

でも次の瞬間には、決然とした表情でその目を見開いた。

「皆様、あの娘のために…心中より御礼申し上げる!」

 

____________

 

闇の中。

もうなくなってしまっていたはずの意識の隅で、雪恵は自分に呼びかける声を聞いた。

懐かしくて穏やかな低い声。

天界にいたころ、いつもそばで聴いていた、雪の神様の声だった。

「雪恵よ。雪恵よ。

 そなたに伝えるべきことがある。

 心して聴くが良い。

 

 森羅万象の神々が、そなたの愛と想いの輝きをみて深く心を動かされた。それにあの青年は、自然の理に深く敬意を払い、それを慈しんでおった。そして多くの命の煌きを救い出してきた。

それ故、実に多くの神々が、その偉大なる力を貸してくださったのだ。

 勿論仲間の雪や風の精もだ。

 

 たくさんの、じつにたくさんの力が集められた。そしてそれは、遂に尋常では起こり得ぬことをも成し遂げるに至った。

 

 雪恵よ。

 そなたは、もはや雪の精としてはいられぬが。

 人の子として、この地で生きることを許された。

今より20日ののち、そなたは人の子として、地上に転生する。

そなたの人としての命が尽きるまで。

 

そなたのために力を貸してくださった多くの神々への御礼として

 鳥海山大物忌神社にて、毎年その感謝の想いを捧げられよ。」

 

 

その夜。

山形の空には、ダイヤモンドダストのような光の粒がきらきらと輝いた。

それは雪恵が天から流した、うれし涙だった。

 

 

__________

 

 

稜はその後、すっかり空虚になった官舎に戻った。

隣の部屋に戻ってくる雪恵はもういなかった。

物音ひとつしない静かな部屋。

その静寂を実感するたびに、心に空いた深い大きな穴と胸を刺すような痛みが残り続けた。

心の底で、すがりつくような期待がいつも顔をのぞかせた。

毎日、夕刻になると玄関の戸を叩く優しい音が聞こえるんじゃないかって。

両手でお鍋を抱えて、はじけるような笑顔を浮かべた雪恵が訪ねてくるんじゃないかって。

 

でも、いくら待っても、稜がその音を耳にすることはなかった。

 

雪恵と過ごした毎日がまるでまぼろしだったかのように、稜の周りにはそれまでと変わらぬ普通の日々が流れていった。

 

雪恵ちゃんがつないでくれた大切な命。

だからこそ、その命を何より大事に守り、そして一人でも多くの貴重な命を救いたい。

その想いから、稜は今までにもまして毎日のように、山岳救助活動に勤しんだ。

それに、救助活動に夢中になっているほうが、その心の喪失感を忘れられるような気がしたからだった。

 

 

 

 

 

あの救出活動以来、いつの間にか冬はその終わりを告げ、あたたかな春の風が街に流れ込んできた。

植物が冬の眠りから目を覚まし、桜のつぼみもほころび始める春の初め。

仕事を終えて帰宅した稜の家の戸を、やさしく、そして嬉しそうに叩く音がした。

 

その音を聞くなり、稜ははっとして顔を上げ、弾かれたように玄関に飛んで行った。

 

聴き慣れたあの音。

白くてやわらかな手が生み出すあの音。

あの日からずっとずっと、想い焦がれていたあの音。

 

稜は夢中で玄関の戸を開いた。

眩しい陽光が街を優しく包み、甘い香りの春の風が、玄関から流れ込んできた。

 

そこには、栗毛のサイドテールでギャルのような見た目の、あの娘が立っていた。

その娘は、目からきらきら輝く雫を舞い散らせながら、稜の胸に飛び込んだ。

 

 

 

「稜くん…ただいま!」

 

 

 

 

おしまい。

 

 

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