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それは「わたし」がつくったのではなく、「何者」かがつくったもの=マックス・エルンストの場合。

マックス・エルンストのコラージュが、他のシュルレアリストのコラージュと比べて突出しているのは、コラージュの制作過程がまったく違うから。
普通は画家の主観に基づいて幻想的なコラージュがつくられる。つまり「私」がつくっている。
ところがエルンストの場合は、コラージュの素材が「自ら結ばれあって」、それをエルンストが客観的に見ている。つまり、それは「わたし」がつくったのではなく、「何者」かがつくったもの。
そこでエルンストはそんな思いを発展させて、おもしろい考えに取り憑かれた。これまで近代人は、絵画や美術作品は人間主体が創造するもので、つまり人間には想像する力があるという一種の神話を信じていたけれども、それはウソであるのだと。創造するのではなくて、創造される。その創造される「なにか」に立ち会うのが画家なのであると。

さて、このエルンストの方法論。そんなふうに本当に主体という人間の意識にどこまでもつきまとってくるものを消し去ってつくっているのか。そんなことが本当に可能なのか? エルンストの本人にしかわからないことであるけれども、だからといってそんなことを問うのは野暮天というもの。
ただ、エルンストの「百頭女」なんかはそうやってつくられたとしか思えないような、他の誰もできない「完成度」がある。全147枚のコラージュと、それに命を吹き込む自動記述された言語のコラージュ。
その球体 - 幽霊の上で、ただひとり生き生きと、美しく、自分の夢にいろどられた ―― 惑乱、私の妹、百頭女。

百頭女。エルンストだけが達成したシュルレアリスムの聖域。そう呼ぶより他ないですね。

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