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ある映画を見て。


「夢見る校長先生」子どもファーストな公立学校の作り方 もっと学校に自由を!FREEDOM

教育というのは、誰もが学校に通ったことがあるということから、多くの人が何かと口を突っ込みたがる分野で、一説語りたがる人が多く、面倒な話題だ。
自分にも語れると思って語るわけだが、たいてい、的を外している。しかし、それは仕方ない。よく知らないことについて話すということは、そういうものだから。ただ、その自覚がない人が多いわりに、けっこう譲らなかったりするのが大変だ。

不登校、発達障害の増加

近年、不登校児が増加している。早期での発達障害の診断も増えている。
これまでであれば、子が不登校となった時、親はまず本人や、親である自分を責めたりして、そのままそこで思考が止まることが多かっただろう。しかし、先に診断がついていると、そうはならない親も増える。
発達障害のこの子がうまくやれない学校、そのシステムや構造への疑問が生まれるのだ。なにしろ、発達障害は20人に1人と、数が多い。これだけ多くいるのに、学校が十分な支援や調整、教育を行わないことに不満が生まれている。

昔の話

私は中高と行っていないが、中学不登校であった頃(2006年〜2008年頃)、父親に殴られたり、学校までひきずっていかれたりもした。周囲を見渡せば、制服が着たくない、などセクシャリティの問題で不登校となっている子も多かった。最近はジェンダーレス制服などの導入で、そういった部分も解決しつつあるので、羨ましい。
先述のように学校を問題視する保護者が増え、フリースクールをつくろう、という動きも多くあるようで羨ましい。でも私の家はそんなに裕福ではないので、どうせ通えないが。

映画について

前作では「夢見る小学校」として私立のフリースクールをメインとしたらしい。今作は公立の学校に焦点を当て、校長先生さえやる気になればこんなに自由な学校運営ができる、とされている。私が参加した上映会の主催は10代の女性表象の方。

紹介される学校の大半は自由でとても良いと感じたが、一部に「校長室を開放する」など、なんとなく”河村たかし的”な、権力を持っているけど、持っていないかのようにふるまう権力者だ(ちなみに監督は名古屋出身の男性)。そんなふうに振るまっても校長は権力を持っている。校長室を校長の権威的な部屋にしないなんて、本質的なことじゃないので、ことさらに取り上げることじゃない。

若い意欲のある教員に、君も校長先生になって学校を好きなようにすればいいんだよ、と言うセリフがあったが、若い教員が校長先生になるまでどれだけの年月が必要か。なにしろ、この映画に出てくる校長は、みな年配の男性だ(まずそれが男性しかトップになれんのか…と思わせる)。何十年か我慢するのか。

試写もみたという熱心な観客が「政治的な内容は…。」と話していたが、何しろこの映画は唐突に「軍拡反対」という言葉が出てきたりする。政治的な内容があるのはいいが、あまりにも唐突すぎて面食らうし、下手だ。作品としてあまりうまくない。わけがわからない。軍拡についても考えて欲しいのだろうが、逆効果に思える。

エンディング曲は忌野清志郎。ナレーションは小泉今日子。前川元事務次官も出演。

見にきた人たちの傾向

この映画の感想をつぶやいている人の投稿内容を見た。
これまでの作品をみると、オーガニックな発酵食、和食などに関する作品を作っており、忌野清志郎がでてきて、小泉今日子がナレーションをし、軍拡反対という言葉を使うあたり、左派な監督の映画なので、そういうオーガニックな左派の層が多いのだろうと予想していた。

しかし、いざ、見てみると予想とは異なっていた。
都知事選の時期ということで、関するつぶやきが多く見られたが、蓮舫支持者もいたなか、田母神、内海支持が目立った。石丸支持もいた。小池支持はいなかった(そもそも小池氏に投票するような人はSNSをやっていないか、書かない)。
劇中で「軍拡反対」というメッセージも見たはずだが、あまり届いていないようだ。
蓮舫氏が支持できない、というだけの話ではなかった。自然派志向なんだけど、右派。逆にいえばこういう層が観にきているなら、もっとうまくやったらいろいろ…とも思う。

カミングアウトしないと、自分らしくいられない空気(をつくる校長)

劇中、マスクはしないほうがいい、と主張をする校長が登場し、トークセッションでもゲストとして登場した。
そのためか、ある質問者が「私は治療をしているので、カツラですし、マスクはさせてもらいます」と言った。わざわざそのようなことをカミングアウトしなければとてもマスクなんてつけていられないような圧があったのだ。
強要はしてませんよ、と言う。強要はしていないらしいが、マスクをつけるとこんな害があると言う。強要はしていないと言う。でも、私がこの話をするとみんな自然にマスクをつけなくなりました、と言う。強要はしていない。誰も強要はしていない。ただ、つけているからか、こちらをじっと見てくる。自意識過剰ならいいんだけど。

「本人の意思」のむずかしさ、権力のパワー

セックスワークや、性的同意に関して、よく話題となるが、「本人の意思」というのはとても危ういものだ。本人ですら自分の意思がなんなのか、判然としていない、意思を持ってもすぐに変わることもある。そして、それは尊重されるべきものだ。
権力勾配があったり、みんな同じことをしなくてはいけない、という空気のある場所で「本人の意思」が正常に機能することはほとんどない。
強要はしていない、と、どれだけ言葉の上でいったところで、上の立場の人がマスクをよく思っていないのが明確で、皆がマスクを外しているなら外さざるを得ないと感じてしまうものだ。そこでは自分らしくはいられない。無理して合わせるしかない。自分は権力者ではないと思っているようだが、このような場を作るのはあなたが権力者だからであり、それを認めないのは欺瞞である。

人を神聖視するのは、やめよう にんげんだもの

質問者の40代前後?くらいの方が、主催に「あなたの笑顔はとても素敵!ファンになりました。あなたのような人が経営しているフリースクールで働きたい」と言っていた。
主催の方は、「私はフリースクールとかをやるつもりはなくて…公教育を変えたいんです。私みたいにフリースクールに通える人ばかりではなくて、経済的に余裕のない人もいるから」と話していた。そしてそれに会場が「なんてすばらしい子なんだ」と会場がざわめいているのを見ていた。

いい歳をした、2倍以上も生きているだろう成人が、10代の若者を神聖視し、かしづこうとする姿は異様だが、自分の無力感を散々味わった大人は、エネルギッシュな若者に勝手な期待を投影する。この人なら変えてくれるかも、と。一人の人間に背負わせてはいけないものまで背負わせようとしてしまう。それをきっぱりと断る形で応答し、自分以外の人へと想像力を広げることを促す応答に一縷の望みを見た。
と書く、私もまた若者に期待する大人であり、こんなにいろんなひとに期待ばかりされていたら困るだろう。自分の荷物は自分で背負えよと。どうして皆、若者にばかり期待をしてしまうのか?放っておいたって、若者はすべきことをし、やりたいことをやる。やたらと期待をかける、それは自分が何もしないことを肯定するためではないか?
「自分みたいなのは何もできなくても仕方ない。優秀な若者が全部何とかしてくれる」

救世主は現れない

笑顔が素敵な若者も、まだ不安定な若者の一人だ。救世主にはおそらくなれない。めちゃくちゃタフなら、なれる可能性もなくはない。でもたぶん、たいていは、なれない。
誰かが自分よりも多くのことを知っていて、とても頼もしい様子で、感動する、この人なら救世主になれるかも、と。それは、ほんとうは感動してる場合じゃない。救世主、感じてる場合じゃない。自分がどうしたらいいか、を考えて、真似できることは真似して、真似できないことは無理して真似しないこと。

そんなに若者が社会に興味を持つのが嬉しいか?

ほっといたって、若者には若者なりの悩みや考えがあるもので、自然と社会に関心を持つ。社会に関心を持つ中で、大人のエグさに幻滅し、「みんな偽善者だ」と感じ幻滅さえしなければ。
進行役を担っていた、主催とは異なる若者が、「国会議員になって、とよく言われるんですが、そういうものになる気はありません。みんなで少しずつ社会を変えていきましょう。」と話していた。人頼みな人は多いようだ。
社会に関心を持つ若者は少数派なだけに、いろんな人の身勝手な期待を一身に背負うことになり、潰されやすそう。今はインターネットで同じような若者と繋がれるのが良い。人頼みな人の意見は受け流しつつ、同じような若者、または理解のある人たちと、無理なく歩んで欲しい。

そもそも、30代、40代、50代が社会に関心を持ってくれたら、それも、もっと喜ぶべきだ。どうも若者が社会に興味をもつときほど喜ばない。若者ほどぎゅーんと伸びなくても、多少は伸びる。少しの変化は大切な変化。

外部に何かを作るのも、何もないよりはいいのだが

少し話は戻るが、公立学校が悪いからといって、外部に理想的なフリースクールを作ったところで、ほとんどの家の子は通えない。
外部に何かを作っても、本体がダメなら、多くの人々が苦しむのは変わらない。これはすぐやりがちな思考で、外側に何かをつくるほうが容易かったりする。
しかし、本丸は公立学校での教育だ。そこを忘れたらダメだ。諦めちゃダメだ。

そして、この上映会の参加者は教育に関心がある人ということで、教員が多かったのだが、内側から教員の頑張りのみで教育を変えることは、現実には無理である。自分の生活の糧がそこにかかっている、という状況で、できることはあまりない。下手なことをやれない。
そのことを踏まえて、外部の人、保護者、地域の人、みんなで公教育を変えていかなくてはいけない。

大人の役目

大人の役目は若者に乗っかることではない。自分のやってきた能力を駆使して、若者をサポート、協力することだ。

「その時の自分にしか出来ない役目があるかもしれない。」と、虎に翼で言われていたように、実際のところ、さまざまな、そのときの自分にしかできない役目がある。世の中には頑張ってきただけに、心の折れてしまった大人というのがたくさんいるが、とはいえ無力感に浸る必要はないし、年長になれば経験を積んだ分、相応の役目を負うことができるはず。若者に協力できるはず。

河村たかし的欺瞞

トップダウンはよくない、と言いつつも、現実にはトップの校長の意のままに学校は変わる。もちろん、公立ということで、なにかと折衷する苦労はあるのだろうが。それにしても、校長には高齢の男性しかおらず、かつ、システムを変更しよう、という気はない。その学校だけを変えても、校長が変われば元に戻る。システムを変えないのは、自分がトップの校長であることで利益を得ているからでは、と勘ぐりたくなってしまう。
自分は校長室を開放してるとか、そういう表面的なアピールばかりをするのは、自転車で選挙遊説をする自分をアピールする河村たかしと通ずる。もうそんなものは見透かされている。

おわりに

いろいろと書きたいことを書いたが、正直、「フリースクールじゃなくて公教育をなんとかしたい。金銭的に厳しい家庭もあるから」と言ってくれていたのは相当嬉しかった。とても嬉しかった。「そんな言葉を誰かから聞いてみたかった大賞」を受賞した。こんなこと言ってるのはみたことない。不登校児も、学校を出て、進学し、すべては過去の記憶となり、忘れていく。
東京シューレの性加害事件など、私立のフリースクールでは様々な問題も起きているので、公立の学校で、社会としてどのように公教育をよくしていけるのか、そういうことをみんなもっと考えて欲しい。

社会を動かしやすい、エリート層ほど、我が子を私立の学校に入れて、それで満足してしまう。そのために、いつまで経っても公教育は変わらない。
教員ですら(教員だからこそ)、我が子は私立の学校に行かせる。
教員こそ、公立の学校に通わせたくなるような、そんな公教育になって欲しい。

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