7-04”それ”についてのいくつかの断章

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は蒜山目賀田「鈴木におまかせ(仮)(2)」でした。

「前の走者の文章をインスピレーション源に作文をする」というルールで書いています。

7-03蒜山目賀田「鈴木におまかせ(仮)(2)」https://note.com/megata/n/nad8767e23f9e?nt=magazine_mailer-2021-10-27

7-02C・Tataka「リズム」
https://note.com/tttttt_ttt/n/n60aa4f89141f?magazine_key=me545d5dc684e

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”それ”はあった。いつもあった。至るところにあった。そこに、ここに、かしこに。隠さされることもなく。かつて”それ”は水だった。無限だった。空気だった。言葉(ロゴス)だった。数だった。イデアだった。そして”それ”もそれ以来、消息を絶ってしまった。誰でもあり、あらゆる物でもある”それ”。”それ”は変幻自在だ。指を一本立てれば、すべてが存在した。望む望まぬにかかわらず。デュシャンの描かれた指。バタイユの汚れた親指。悪徳でもあれば、最高善でもある”それ”。われわれは”それ”に抗うことも、感歎もできない。名詞はもちろん”それ”はあらゆる形容詞を、動詞を、副詞を受け入れ、拒絶する。ドゥールズ=ガタリの”それ”は呼吸し、過熱し、食べる。排便し、愛撫する。カントはまだ”それ”を知らなかった。フロイトの”それ”を。ハイデッガーの”それ”は道具の関係においた。プラトンの影として”それ”。だから何だというのだ。”それ”はそれだ。踏むことも、なじることもできない。あれでもこれでもなく”それ”だ。時折”それ”は遊戯する。舞踏する。骰子を振る。誰に憚ることもなく、臆面もなく、恥じることもなく。”それ”は事実でもあり、虚構でもある。事実に包まれた虚構。虚構に覆われた事実。事実を転倒し、裏返すこと。あるいはその逆。そして”それ”は息のように消えていく。みわたせばはなももみじもなかりけりうらのとまやのあきのゆうぐれ。

”それ”は一でもなく、二でもなく、三だ。一は専制的だ。二は賢いが少し貧しい。四以上になるとあまりにも愚かすぎる。三は秘宝だ。思考の至るところに三あり。分類と恋愛の三角関係。点(一次元)・平面(二次元)・立体(三次元)。テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ。縦・横・斜。主語・述語・繋辞。一人称・二人称・三人称。感覚的確信・知覚・悟性。意識・自己意識・理性。精神・宗教・絶対知。神・人間・獣。自然・社会・個人。感性・知性・理性。認識・実践・判断力。現実界・想像界・象徴界。イコン(類似)・インデックス(指標)・サンボリック(象徴)。現実態・可能態・潜在態。現在・過去・未来。もの(物質)・道具・作品。ロイコデルミ・キサントデルミ・メラノデルミ。直毛・波毛・縮毛。ドリコセファリク・メソセファリク・ブラキセファリク。父・娘・独身者。資本家・管理職・労働者。神・天使・悪魔。意識・前意識・無意識。リジナル・コピー・シミュラークル。対象・記号・意識。上・中・下。私は何を知り得るか・私は何をなすべきか・私は何を望みうるか。序・破・急。一・二・三(ワルツ)。父・子・精霊。優・良・可。松・竹・梅……。

”それ”は君臨する。ひれ伏しなさい。敬いなさい。さすればしばしの猶予を与えよう。ローンという名の未来の負債を。受け入れなさい。さすればお前につかのまの満足を施そう。満ちることのない欲望を。やがてお前は知るだろう。お前の未来の負債は、お前が生産した一部であることを。未来の負債として消費される、お前の欲望。が、安心なさい。いずれお前の欲望の門も閉じられるだろう。カフカの掟の門のように。審判としての決済。それでも嘆くことはない。お前は一方で見事に、類としての再生産を果たしたのだから。お前の子たちもまた、未来の負債を引き受けるだろう。未来の負債を引き継ぐ者たちの再生産。”それ”としての欲望に終わりはない。”それ”としての欲望はモグラ叩きゲームだ。叩いても叩いても顔を出す。「この欲望をしずめることは賢明であるが、これを満足させてしまうことは愚かであろう」(マンディヴィル)。われわれは伏蔵された欲望の”それ”を開かなければならない。欲望の”それ”は伏蔵されている。欲望の”それ”は欲望の一部だが、欲望を逃れる。クリナメン。逸れとしての”それ”。逸れは欲望を寸断する。四肢解体。欲望の怪物学。負債を飲み尽くす巨人。肥大した欲望を現在の取り分として要求すること。支払済の欲望として処理すること。バタイユの蕩尽。逸れの加速化。逸れ、反れ、剃れ。ソーレソレ、ソレ、祭りだ、ワッショイ。

”それ”はシュルレアリズムじゃない。やっぱりダダだ。ただただダダだ。シュルレアリズムは下品を装っているにすぎない。下品を装うブルジョワ。ダダは下品でも上品でもない。ただただ優雅だ。シュルレアリズムは一度解体したものを順番、配置を変えるだけで貼り付け直してしまう。ダダは解体したものをまったく別のものに変える。貼り合わせることなく。ブルトンよりもバルだ。デュシャンだ。シュヴィッタースだ。ダダの猿真似としてのシュルレアリズム。ちょっと気取って。ちょっと知的になって。ブルトンに籠絡されたツァラ。シュルレアリズムは鏡が大好きだ。ダダは鏡を嫌う。「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」(ボルヘス)。シュルレアリズムは想像する。ダダは想像しない。想像それ自体を破壊する。シュルレアリズムは夢を溺愛する。ダダは夢を嫌悪する。ダダは出会い損ねた”それ”との邂逅を祝福する。

”それ”はつづく。いつまでも、永遠に、無限に、無際限に。……そしてけっきょく”それ”とはカメラ-人間か。謎としての”それ”。いや、いや、”それ”は謎でさえもない。すべては反映・反射・反省する。ただ映されることによって、その姿を変えて。様態的存在論の万華鏡。


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