僕らは勝手に怒っている

知らなくてもいいことを簡単に知ることができすぎて、僕らは勝手に見聞きしては怒っている。

それだけでない。怒りを表明し、不満を露わにし、同調を募り、当事者以外をも煽り、とどまることはもう無いのかもしれない。

僕らは大概の出来事に無関係な部外者だったはずなのに、無断で当事者になりがちだ。フェスの会場に入るためにはチケットが必要で、議会で手を挙げて意見を述べるためには選挙に当選する必要がある。それなのに当事者には無料で自由になることができる。


これはすごいことだ。


学者や研究者や活動家や政治家が怒声を上げる。本当は知らなくてもよかったことにも最近は声を上げがちだ。何かを非難するSNSにはいいねを付けがちだ。それは、学術的でも学際的でもない。ただその人が怒っているだけだ。

3ヶ月前にあの人達はある失言にこれでもかと怒っていたけど、もう目にしなくなった。今日も何かを見つけてはまた怒っているのだろうか。

今と昔は違う。昔は本当に大きな声を上げないと世間に届かなかった主張は、今やハッシュタグを付けさえすれば一瞬で大多数に伝わる。

そうすると、当時と同じ声のトーンだと耳がキーンとするし、意識的に見たくない人の目にも強引に入り込んでくる。若干乱暴な見映え聴き映えになるかもしれない。



ああ、僕らは今日も今日とて拡散する必要のないことを拡散しがちだ。

それは知る権利なのか、報道の自由なのか?なんだか違和感があるのは僕だけではないと思ってる。


今まで知りえなかったことは、「本当は知っていた方がいいこと」と、「知らなくてもいいこと」に大別できるけれども、

いつでも拡散されるのは「知らなくてもいいこと」の方だけだ。

「知っていた方がいいこと」がドレッシングのかけてない野菜サラダなら、「知らなくてもいいこと」はジャンクフードだ。

ギトギトなジャンクフードで手も口もベタベタで、それを炭酸ジュースで流し込んではまた食べる。

僕は野菜サラダを薄味でも美味しく食べられるようになりたい。


そして、声がただでかいのはもう流行らない。聴き心地の良さを学んでいきたい。

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