西田シャトナー日記 関西演劇祭 3回目上演劇感想(※最終上演なのでネタバレ少しありです)
【つぼみ大革命『DIVERSION』】ゲネから数えて4回目の観劇。
つぼみ大革命の皆がどれほどつぼみ大革命を大切にしているか、どれほどファンを大切にしているか、どれほど切実に自分たちの未来を願っているか。
それを、これまでにも増して切実に感じる最終上演回でした。
全ての思いや願いを感じてから演じられる、最後のライブパフォーマンス。
まさに万感の思いが溢れてきます。
今回上演の終盤、私の心の目に、ナメカタ氏がまだ壊れていなかった頃の、一生懸命純粋につぼみ大革命に声援を送る、幸福な光景が見えたのです。
ああなんと幸福で切ない光景。この光景がずっと続けばよかったのに、どこかで歯車が狂うことが、人にはあるのでしょう。
観劇後、今日はそんな幸せだった頃の光景が見えましたよと、ナメカタ役の行澤さんに言ったら、「ホントですか、実は今日は、その光景を思いながら演じたんです!」という答えが帰ってきて驚きました。いやー伝わってくるもんなんですね。
良い芝居を見ました。
※<おまけ/つぼみ大革命『DIVERSION』全公演について>
アイドルグループが自分たち本人を演じる内容──ですが、堂々たる原初演劇作品、しかも傑作です。是非、他の演劇祭にも出場して欲しいですし、一般劇場でも上演されて欲しい。つぼみ大革命のファンたちだけでなく、彼女たちを初めて見る人(今回の私とか)も心が震えることでしょう。
【劇団さいおうば『変人、苦心、献身。』】ゲネから数えて4回目の観劇。
見ている側も愉快ですが、演者も演出も楽しんでいるのがとても伝わってきます。
哲学的に静謐に作り込まれた作品でありながら、十分にやわらかく演じられ、それと硬質な手触りが、これほど見事に相互に高めあい同居することがあるんですね。
知性もユーモアも冴え渡っています。最初の上演からずっと冴えていて、鈍い観劇者である私がだんだん彼らに追いついてきたのです。
「フランツ・カフカの天才と孤独に迫る深刻な作品」でもあるけれど、プロート氏とローヴォルト氏とカフカの妹オティリーの、長年にわたる温かい友情の物語。歴史に翻弄される大人たちの青春譚と言っていいでしょう。
カフカのまわりで誕生した3人の友情はカフカの死後も続き、戦争という厳しい現実の中で離れ離れになっても消えることはなかった。
その温かさと愉快さを、彼らが夢見た未来である今、理解し芝居にする若者が日本にいる。
若い演者たちと演出家と作家が、ありありと、失われた人々の生活と夢を演じている。
その事自体が素晴らしい希望だと思いました。大好きです。
※<劇団さいおうば『変人、苦心、献身。』全公演について>
彼らの作品には、天才の語る冗談を聴くような楽しさがあります。実際、天才たちがひたすら自分たちにとって楽しいことを遊んでいるのかもしれません。
私は最初それをキャッチできていませんでしたが、それでもずっと楽しかった。知的な気配を味わうことも楽しかった。
楽しかったのです。
【WAO!エンターテイメント『70歳、天野裕二』】ゲネから数えて4回目の観劇。
これほど幸福な家族の光景は、なかなか観られるものではないですよね。
隅々まで幸福で、心配なことのない、仲の良い、互いに応援し合う家族の賑やかな姿。
私を含め観客の中には、自分の家族はこんなに隅々まで幸福ではなかったという人もいるでしょう。関係が良好でなかったり、孤独だったり、経済的に厳しかったり、ただごとではなく厳しい事情の家庭を経験してきた人もいるでしょう。
そんな人たちや私にも、この作品は、幸福な家族の賑やかさを体験させてくれます。観終わった頃にはなんだかしみじみと、自分の記憶のような気もしてきてしまう。
そんな優しいプレゼントのような芝居だなと思うのです。
天野家の人々のエールが、天野家のようでなかった私にも「フレー、フレー」と聞こえてくるのです。
演劇は、ただ虚構である時もありますが、こんなふうに、現実のエールであり贈り物である時もある。
それを思い出させてくれる作品でした。
※<WAO!エンターテイメント『70歳、天野裕二』全公演について>
いろんな人を応援するお父さんを描くこの作品。なんと毎回1シーン、一緒に関西演劇祭に参加している他劇団の優勝を祈って応援するという、物語の枠を超えたシーンがあるのです。真心を込めた劇団紹介とエールです。
フレーフレーさいおうば、の回もあり、
フレーフレーfukui劇、の回もあり、
フレーフレーエンニュイ、の回もありました。
そして応援された3劇団は見事各賞に輝きました。今年の演劇祭の劇団たちが例年より一層仲良くひとつになって盛り上がるひとつのきっかけが、このシーンだったと思います。なんと気持ちの良い劇団でしょう!
【エンニュイ『平面的な世界、断片的な部屋』】ゲネから数えて5回目の観劇。
(エンニュイは場当たりをスピーディに済ませ、劇場での通し稽古を1回多くやったので、5回目の観劇なのです)
何度見ても、驚愕の演劇構造です。
・作家目線で分析するなら
→この作品の最大の独自構造は、「物語」ではないということでしょう。
これは「物語ではない別の何か」なのです。たった2分間の、さして何も出来事のおきない風景を何度もリピートして、その風景の解像度を上げてゆく40分(上演リミットより少し短い)。実に珍しい劇構造です。
・演出家として分析するなら
→もう一つの独自性は、俳優の手柄を際立たせる演出構造だということです。
全編、平易な日常演技と、精密な集団演技が構築的に同居しています。この同居により、5人の俳優の技術と鍛錬時間が観劇者にもわかるように演出構成されているのです。つまり手柄が明らかにされる。これは役者が苦心するかいがありますね。
・観客側から分析するなら
→さらなる独自性は、こんなに複雑なのにわかりやすい!ということです。高レベルに作り込まれた先鋭的演劇であるにもかかわらず、自慢げでもなく気取ってもいません。わかりやすく優しい芝居が続き、観客はやがて必ず温かい気持ちになります。
観客は、自分の世界の見方が変わるほどのテーマを受け取るのと同時に、
「この難しい芝居を普通に楽しめた」という喜びや自信を味わえる。
5回目の観劇でも、この作品を見れば見るほど私は
灰色の風景を好きになり、
不機嫌な人々にも愛情を感じ、
未知のスタイルをもった難しそうな演劇の優しさを知り、
それらを好きになれる自分に自信を得ました。
全方位に良い方向に世界が変わったのです。
素晴らしい作品でした。
※<エンニュイ『平面的な世界、断片的な部屋』全公演について>
ラストシーン直前、皆が一斉に、自分の気持ちのモノローグを語る時、路上ミュージシャンはセリフを言うのではなく、歌います。彼にとってはそれが「モノローグ」なのです。
鳥にんげんのトリカイさんが「ブーンブーン」と飛び回る、きっとそれも「モノローグ」なのです。
ひろきくんが光る棒を一心不乱に振るのも、
文学おんなが光る水晶を眺める(「星」のようなものだと伺いました)のも、
全て「モノローグ」なのです。
いやあ、世界がひろがりますね。
【暁月-AKATSUKI-『死闘』】ゲネから数えて4回目の観劇。
最終上演の回も、殺陣と物語と音楽の花火大会を堪能しました。
この作品で描かれる友情や愛情の絆が好きなのですが、もうひとつなかなか言葉が見つけられないけど心に染みた「絆」があって、それが源五郎親分と清海の絆です。
二人は裏切りで殺害した・されただけの関係ですし、普通に考えれば絆などないように見えます。<悪人にも人の心がある>というような甘い側面もありません。しかしこの物語の中でただ2人、「純粋な悪」という絆があるように、私には感じられたのでした。人の情も命も蹂躙する大悪人の源五郎親分と、彼をまるごと喰らってしまう清海は、心も体も混じり合ってしまうほどの濃い絆がありました。清海が吠えれば吠えるほど、他者を蹂躙すればするほど、源五郎親分の姿がそこに見えるのです。ほかの誰にも理解の及ばない2つの孤独な悪魔が融合したような、そんな絆でした。
聞けば、この作品の元バージョンでは清海は存在せず、終始源五郎親分一人が悪を引き受けていたのだとか。今作では清海に悪が引き継がれることにより、誠治郎たちの愛の絆とぶつかる悪の絆が出現し、より物語に深みがでましたね。
いやあ、良いなあ。
※<暁月-AKATSUKI-『死闘』全公演について>
四の五の考えずとも、ドカンドカンと感じられる、圧倒的な登場人物たちの魅力。あえて言葉で語られない彼らの事情。皆が大地に立つ佇まい。剣と剣による生き様と生き様の凄まじい対話。そして切られて死にゆく滅びの姿を照らす命の輝き。
ほとばしるような魅力を味わい続ける最高の舞台でした。
【fukui劇 「 美々須ヶ丘 ~給湯室にて~」】ゲネから数えて4回目の観劇。
「集まれ!ダメ人間!」というキャッチコピーが、演劇祭の劇団紹介ページにあります。
「マイノリティへの応援歌を作りたい」と、脚本演出の福井しゅんやさんはティーチインで言いました。
ゲネから数えて4回目、改めてそのふたつの言葉を胸に抱いて観劇した私は、相変わらずたくさん笑いながら、本当に優しいメッセージが深く深く染み込んでいる作品なんだとしみじみと感じ、涙が出ました。
救われるべきマイノリティは、主人公たち佐野さんやハゼ田さんだけではないのです。彼女らを軽蔑し、社会的ヒエラルキーの上にいるかのような振る舞いをする丸ゴオリさんたち3人組も立派なダメ人間であり、どうしようもない弱者なのです。
この給湯室はきっと「弱い者たちがさらに弱い者をたたく夕暮れ」なのでしょう。
丸ゴオリさんたちはこの物語のあと、果たして弱者の楽園である美々須ヶ丘につれていってもらえるのでしょうか。そこでハゼ田さんたちに救ってもらえるのでしょうか。
救われて欲しい、と私は願いました。
思えば私達のやっている演劇の世界も、現代社会の給湯室から脱出した美々須ヶ丘なのかもしれない。そこで私達は、何でも好きなものを追求し、土や段ボールやピアスみたいな誰も食べたがらないものを食べて「美味しい」と叫び、好きな格好をして、自分で決めた自分の名前を名乗っていいのかもしれない。
こんなに奇妙でヘンテコな芝居を観ながら皆が高揚し感動しているのは、それを感じたからなのかも、と思いました。
※<fukui劇 「 美々須ヶ丘 ~給湯室にて~」全公演について>
セオリー通りの通常のプロットであれば、ソイル婦人や段ナイトは、まず春日根部長やトドメ主任として登場し、それからあの奇妙な姿をさらすべきなのです。
そういう作劇の通常技法すら多分わざと破壊する異常な脚本。
2時間の芝居をいいバランスで再構成して45分にするのではなく、ただ前半でばっさり切って成立させるという異常な胆力。
にもかかわらず、しっかり面白くわかりやすさが徹底している。マイノリティの道をひた走り、面白さは王道クラスというfukui劇。すごいことだと思いました。
【EVKK/エレベーター企画『たゆたう、さすらう、』】ゲネから数えて4回目の観劇。
最後の上演でも私は、観劇者として勝手な解釈をしながら楽しみました。
もしも私が悠久の時の中、無の海を永遠に泳ぐ人魚なら、
きっと海の泡から人間のような「他者」が誕生するのを心待ちにするに違いありません。
いつか奇跡的な偶然が雷となり、4つの塩基から生命を誕生させ、やがて生命が人間となり、船を作って海を行き交い始めるなら、とてもとても嬉しい。
でも人間も船も永久に繁栄しつづけることはなく、やがて時の水平線に船がたどりついて、必ずまた波間の泡となって消えてしまう。
そして取り残された人魚はまた孤独に無の海を泳ぎ続けるのでしょう。
だからこそ人魚はずっと人間に対し承認を求める駄々っ子のように表情豊かに喋り、人間という他者が泡と消えた時、恐ろしいような無表情のような地声で話す。切ない。
地球を見守る月の孤独を思いました。あの美しい月は誰にも愛でられることなく、他者のいない空を10億年も回り続け、やっと誕生した生命や人間も、最後にはこの宇宙からいなくなってしまうのでしょう。もちろん悠久の時の果てに月もなくなるのでしょうけれど。
そんな、私達が体験し得ない神々の究極の孤独を、『たゆたう、さすらう、』に私は感じたのでした。
※<EVKK/エレベーター企画『たゆたう、さすらう、』全公演について>
「この作品を見て、皆さんが何を思ったのか、それをとても知りたい」と、ティーチインで演出の外輪能隆さんが言いました。
まさにその言葉が、人魚の言葉であったような気がします。それは、私達芝居の作り手の、心からの叫びでもあるでしょう。観客という他者のいない無の海の中でも、私達は泳ぎ芝居を作って生きる覚悟をするべきかもしれない。だけど、観客の声を求める気持ちもまた切実にあるのです。
そんなことを思いました。
【劇団☆kocho『文化でドゥヴィドゥバ』】ゲネから数えて4回目の観劇。
ファンタジックな物語です。しかし実はただファンタジックなだけではないのだと、3回目の上演を観ながらようやく私は思い至りました。
この作品の中で描かれる文化住宅での生活は、別々の部屋に住む他人同士の日々です。
他人同士が、それでも同じ屋根の下にたまたま住んだという縁を大切にし、まったく関わりのない互いの人生を思いやり、時には助け合って生きてゆきます。
それは、今となってはあまり現実的ではない、古き良き時代のファンタジーです。
しかし、劇団☆kochoには、それを現実として演じる資格がある。
なぜなら劇団☆kochoそのものが、小劇場演劇の劇団を親娘にわたって40年続けているという、まさに生きるファンタジーなのです。
この劇団こそが、ファンタジーは実在するのだと言い続けるにふさわしい劇団であり、現実とファンタジーが出会う場所に住む妖精なのです。
私は、劇場という森で劇団という妖精に出会い、魔法の国のおかしくて賑やかな出来事を実際に聞かされる。そんな奇跡的な幸福な体験をしたのでした。
※<劇団☆kocho『文化でドゥヴィドゥバ』全公演について>
人間にはここまでやれる、芸術はここまで進むことができる──そのようなつきつめた演劇の素晴らさもある一方、
演劇をやることは幸福なんだ、人生があることはこんなに幸せなんだ──という優しい感動を味わうのもまた演劇の素晴らしさなんですよね。
劇団まるごと、そんな幸せを味あわせてくれたのが劇団☆kochoでした。
【teamキーチェーン『是々非々【歪】』】ゲネから数えて4回目の観劇。
4回目の観劇で、私は改めてぞっとしたのです。
演技と演出の圧倒的リアリティの力の中で、登場人物それぞれの証言の矛盾を見るうちに、80億人もいる私達の地球全体はどれほど深い闇の中にあるのかと思い至り、その恐ろしさが私の肌を刺してくるような気がしたのでした。
丁寧に証言を追いさえすれば真実にたどり着くと思っている私達。しかし意識のスポットライトによって世界を照らす限り、私達は客観的真実をつかむことなど永遠にできないのでしょう。
もし登場人物4人が人ではなく4つの国だったなら。4つの国の真実が食い違い世界が混乱した時、私達は破滅の戦いを始めることになるのかもしれない。
真実を探ることではない、新たな方法が必要なのかもしれない。
──そのようなことを暗澹と思い始めた頃、『是々非々【歪】』の幕は降り舞台は明るくなり、先程まで登場人物だった4人が笑顔で舞台に現れて、なごやかなティーチインが始まりました。
さっきまで私が見ていた闇の中の4人と、この爽やかな光の中の4人の顔は全然違う。
そこでまた私は不安にかられました。私が「今」見ていることからしか世界を知ることができないという、証左の光景に思えたのです。
物語だけでなく、劇団の存在まるごとが私を揺さぶるのでした。
※<teamキーチェーン『是々非々【歪】』全公演について>
演劇を通じて世界を豊かに変えてゆきたい、とAzukiさんは言います。高い志を抱き明確に発言して作品を作っている。その志を体現するような、純度高い公演でした。
上演中もティーチインの時も、暗闇に吹く風に向かって立つ誇り高い作り手の姿がありました。
こういう劇団がいるんですね。
【The Stone Ageヘンドリックス『おしゃべりはやめて』】ゲネから数えて4回目の観劇。
演劇の名人が作っていて、しかも名人ぽさを他人に見せない。そこまで含めて本当に名人たちの芝居なんだなあ、と見るたび感嘆しながら、さあ、最終上演の日が来ました。
この日はせっかく最後だし、私も作り手の一人としてその名人の技術を解析しながら観てみよう…と思ったのですが。結局私はただひたすら観客としてリラックスして楽しんでしまいました。
ほんとに最後の瞬間の直前までずっと、作りのゆるい楽しいエピソードが続くのです。
50人兄弟って何歳から何歳までなんやろ…(まさか長男は50才なんか)とか。
50人兄弟を絵にしたパネルも、もしかしてこれ50人描いてないんかも…とか。
解像度の低い美少女、解像度の低い芸能界、解像度の低い秀才、解像度の低い旅先旅情、解像度の低いニューヨーク。
なのに、私達観客の心はいちいちしっかりと掴まれ、ラストシーンでは夢へと劇場全体が飛翔してゆく。これこそがショーだ、私はそう思いました。
その幸福の中で暗転という終幕が降ります。
すばらしい。
最後の上演も、私は夢の世界を楽しんでしまいました。
悔いのない観劇でした。
※<The Stone Ageヘンドリックス『おしゃべりはやめて』全上演について>
ティーチインで、脚本演出のアサダタイキさんは、肩ひじはらない空気感で、俳優たちに役作りを任せて、遊ぶように作った…みたいなことを話しました。
ホントなのかなあ。ホントなんでしょうね。ホントに名人なんですね。
「先生」役の坂本顕さんが、ティーチインの時間中、ずっと「先生」の笑顔のまま微動だにせずに立ち続けている姿が大好きでした。ああ良き。
<最後に>
西田シャトナーの、関西演劇祭2024年の感想は以上です。
スーパーバイザーとして、脚本家演出家として、観客として、
すばらしい芝居をたくさん見せていただきました。
それぞれの賞の受賞の瞬間が嬉しく、私は何回も受賞の喜びを味わいました。
同時に、欲しい賞に輝かない悔しさもたくさん味わいました。
それでもお互いにいい芝居だったと讃えあえる時間も経験しました。
幸福です。
みなさん、本当にありがとうございました。