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パワハラこわい

毎日試されてる

本当に強い人は

誰かをいじめたりしないので

いじめる人は本当の意味で強いわけではない

それをわかっていてもすくむ足
なぜか?
15のときの初めてのバイトまざまざ蘇るトラウマがあるから

初めての世間は自分を受け入れてはくれなかったが搾取されたと思うのも悔しかった。だから、「それであなた方が生きやすくなるなら私のことはどうぞご自由にお見下しください。ここでグレるのは簡単なので私はグレないです。グレないことが一番の反抗なんです。そうやって曲がらずに生きていけばきっといつかどんなことも笑い話になる。」そう信じることで正気を保っていた。

あの日々も毎日泣いた。
でも一度も休まなかったしサボらなかった。

辛かったら逃げていいと巷ではよく言われていたけれど、逃げないことで、理想の自分と未来で待ちあわせできるんだと信じていた。

だけど今ここにいる自分は、当時思い描いたような、嫌な経験も笑い話にできるくらいに余裕があり、優しくて知的な理想の自分とはまるで程遠い。

表には出さずとも、腹のうちでは逃げたか逃げなかったかなどという、視野の狭い根性論にいつまでもこだわる浅はかな自分である。

パワハラこわい。
それに付随するたくさんの不安。
こわい。

お金の不安
将来の不安
それはみんな不安。
不安を煽ってくる世間。
それはバラバラにするとどれも自分の心だった
自分の心が抽象化して目に見えない世間を作り出す
それをわかってるつもりでもどうしても世間というものが「在る」気がする
だから不安がやまないのです。

実際に起きたことをもとに脳は思考する
敵意や悪意を明確に向けられる体験
嘲笑われる体験
歩んできた人生を否定される体験
人格を尊重されない体験
それらによって見えない世間を信じそうになる
だけどそれに反応してはいけないし
決してやり返してもいけない

そうじゃない人もいる。
肯定された経験だってある。
それでも人は恐怖を感じたことをより強く記憶する。いい夢はすぐ忘れるのに悪夢ばかりが目覚めてなお脳にべったりこびりついてとれないのは、そもそも生物にとって恐怖が生命維持のために必要な機能だからである。

それを乗り越えるにはもっと深く集中しないといけない、スピリチュアルとかじゃなく純粋に目の前の課題に集中する。単純なことだ。外で起きている出来事も、いつだって自分の問題なのが事実

それを受け入れなければ一生やられたらやり返せの不毛なループを繰り返す
それが苦しみを生んでいるから
いい加減に自分の番でおわりにしたい

自分の番でおわりにするということ
それはたとえたまらない心細さがあってもこの考えを誰かに押し付け徒党を組んではならないということ
相手に変わってほしいと期待してはいけないということ
事実にはひたすら1人で向き合い
黙って耐えるしかないということ

自分がやることのすべては誰に褒められることも認められることもない地味な実践の連続であるということ

それが自分にとっていかに重要で意味があっても、人からは時に遊んでると思われる可能性をあらかじめはらんでいるということ

それすらしょうがないということ

そんな実践を積み上げていった先に待ち受けるのは勝利でも富でも名声でもなく、万人に平等の死のみであるということ

どんな誠実さをもって生きたところで、美しい死が待ってるわけでも美しい死後の世界が迎えてくれるわけでもないということ

なにを成し遂げたところで成し遂げなかったところで、明日あっさり死ぬかもしれないということ

それが万人に平等ということ

いつでもやめられる
仕事も人間関係も人生も
だからやめない

死にたい
だから死なない

生き残ってやる

そう思うたび

今まで出会ったすべての人によって
時代や環境や運によって
たまたま生かされている自分に気がつく

隣人を愛する

そんな崇高なものではない

憎んでも特にメリットがない

ただ淡々と理解に努める

怒りや悲しみに酔うこともできない

それでいいと言えるのかと

毎日試されている

答えもないのに試されている

答えたところで次の問題がまたやってくるだけで

誰も答え合わせはしてくれないが

試されてるから
答え続けたい

理解できないものが恐怖を生む
恐怖が怒りを生む
怒りが憎しみを生む
憎しみがすべての合理性を排除する

だから理解しようとする

パワハラこわい

だから理解しようとする

彼女(彼)をああさせているのは誰なのか?
なんなのか?

生まれか?
育ちか?
環境か?
時代か?
社会か?
運なのか?
周囲の人間か?
生まれつきのものなのか?

様々な要素を複合的にみるほど、こうして考えている自分も、彼女(彼)という存在も、その周りも、奇妙にぼんやりしてくる

そしてどれも現象でしかないことに気がつく


こわさがやわらいでくる
寝よう いい夢みよう
今日こそ大丈夫な気がする

よくない夢もそれなりに
よくない明日もそれなりに
思い出したくないこともそれなりにして
寝ちゃいます


そういえば最後にもうひとつ
この前たまたま読んだ本の著者がお医者さんだったのですが、病院名に見覚えがある気がしました。

気になって母親が亡くなった後日、私宛で送られてきた領収書を引っ張り出して見返すと、やはり病院名が一緒でした。

高度救命救急センターという存在、どんな場所なのか、どんな方がここに運ばれてくるのかをその本によって始めて知りました。

母親が亡くなったことを知ったのは亡くなった日の翌日の夜でした。母の母から連絡を受けた父から聞かされました。自分含め祖母以外の誰も病院には行ってません。そもそもどの病院に運ばれていたのかすら、領収書が届くまで知りませんでした。お葬式もありません。だから母親の顔を最後に見たのは、病院でも葬儀場でもなく火葬場に運ばれる前の面会室のような場所でした。いまだにあの部屋が、どこのなんなのかよくわかっていません。

母親の顔は5階から落ちたと思えないほどとても綺麗でした。新たに化粧をしてくれたというより、もともと化粧していたままの母の顔を、なおしてくれた人がいたんじゃないかと思います。母親がいつもどんなときも必ずつけていた、バサバサのつけまつげがそのままでしたから。

もしかしたら生きている母親を最後に診たのはこの本を書いたお医者さんやこの病院に勤める他の方々かもしれない。そう思うと変な感じがしました。本当にたまたま手に取った本だったので、不思議なご縁もあるんだなと思いました。

今はもう忘れていることでしょうが、それでも自分たち家族以外の誰かの中に母親が生きていたことが確かにある。それを思うとなんだか心が安らぎました。人は一人で生まれることができず、生きていくこともできず、そして本当の意味では一人で死ぬこともできないのだと明確に感じました。

だからなんなんだという話、こういうことの繰り返しが実践なんだと今はそう思っています。


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