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おおきなつぶやき 絶壁ちゃん



こんにちは🌞

絶壁ちゃんをご購入いただいた方ありがとうございました!4/30をもってBASEはいったん閉じました。

今は次の冊子を画集っぽくしたくて絵をねりねりかいています、モリモリごはんも食べています。


最近の夜ごはんシリーズ



(*の中はインスタと同内容)
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↓最近の話 

絵をかいてやったー!て気持ちとだからなんなのって気持ちが常にどっちもある、それが年々強くなる、毎日仕事行ってもだからなんなのと思うし、巷の頑張ってるって声に対しても頑張るってなんなんだと思っちゃって、何に対しても「頑張ってないです」と言う癖がずっと抜けない。たまにそのせいで妙に場を白けさせた気がして恥ずかしいし申し訳なくなる。じゃあ言うなよという感じですがこれが中々直せない。考えるより先に口から出て、本当に染み付いている。

家出てから今年で2年目、すごい台風の後みたいな気分が続いています。文章が5行以上あるともうアウトな感じがしちゃうのに、散々溜めてから言うから毎度長くなる。この前先生に「最近はどんなこと考えてるの?」と聞かれて話したら、妬みだね、とか、情緒が育ってない、などと言われました。会話の一部分だけを切り取ると情けなくて泣けてくるけど、帰りの電車や次の通院までの日々で先生との会話を噛み砕いて考えていくと、なるほどなと思うことが多いです。

毎回ひどく憤るし悔しい、不甲斐ないとか惨めな気持ちになる、それでも2週間に1回の通院を半年続けてきて、早かったなと自分では思うけど、先生には「よく食らいついてると思うよ」と言ってもらえました。全然大したことないけどごはんをそれなりにつくって食べて、仕事も続いていて、だから絵も続いているんだ、

そう思いたい自分の気持ちとは裏腹に、実は自分の力で手に入れたものはほぼなく、この生活が成り立っているのはそもそも周りの人に恵まれているからです。

母親と最後に行った水族館にこの前一人で数年ぶりに行きました。一緒に乗れなかった観覧車に一人で乗ったら、なんだか自然とありがとうって思えた。母親だけじゃなくいろんなことに対してです。あんなに自然に感謝できたことは今までの人生で一度もなかった。逆に言えば感謝と義務感が自分の中ですごく結びついてしまっているということでもあり、人間性の貧しさに落ち込みました。

なんの得にもならない、むしろ知りたくなかったことだけど、そういう部分も気づいちゃったら受け入れなきゃいけないと思いつつ、また仕事に行ってごはん食べて絵をかくんだと思います。

「〇〇な世界を描いてます」とか、「いろんなことがあって毎日大変だと思うけど絵があれば少しは。。。」とか言われても「なんなの」という風に思ってしまう。そんな絶対的なものなのかと思ってしまう

ただ楽しいだけのことはないし、自分にしかできないこともない、台風が終わって、怒りや悲しみに酔うことを許されなくなってからも人生は続くし、でもそれもずっとじゃなくて遅かれ早かれ終わる

人間が絵を選んでいるだけで絵の方が人を選ぶことはないし、どんなに絵を好きでも絵が人を好きになることもなく、おまえなんかが一丁前になんか悟った気になるなって感じでも、そもそも衣食住という生活以上に大切なものはない。それは貧しさや貧しさに付随する諸問題やそういう人々の中で育って体験してきた分なおさら思うので、やはり「絵をかいて、だからなんなの」って気持ちを常にどこか抱えたまま付き合っていくのが、この人生で出会ってきた人に対する誠実さだと思います。


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今の自分にできることは、そういうことを理解した上で、とにかく自分で自分を整えることだと思います。具体的には衣食住。生活や健康はすべての土台という基本にあらためてたちかえる

絵をかいて、だからなんなのって気持ちを常に抱えたまま付き合っていく。それは問いを持ち続けること自体が誠実さであると感じるからです。今の自分を絶対だと思わず常に疑っておくということ。疑っておけば、直すべきところや足りないところがどこかを探し続けられるから。

その一方で、こういった発信をすることになんの意味があるとか、絵をかいてなにになるとか、役に立つのかどうなのかといった根源的な問いを一人で考えるのは苦しいです。苦しいと思っちゃいけないと思ってたけど、そこをみとめないと話が進まないので、正直に「苦しいな」と思うことにしました。そうすると、そもそも人間も動物で、しかも群れの動物だから、一人で完結するようにデザインされてない生き物であると言え、答えのないことを一人で考えるのは誰だって苦しいんじゃないかな?と気がつきました。

そして、こういう問いを誰かと一緒に考えたい、こういう問いがあると共有したい、そのための手段として絵をかいているんだなと、あらためて感じました。それは深夜のコンビニの明かりに安心するように、「自分以外の誰かが生きてる」と実感できたときにほっとするみたいな、そういう感覚と似ている気がします。

別に絵じゃなくてもいいことで、自分にとってはたまたま絵だったというだけで、それがバドミントンの人もいれば料理の人もいるだろうし、山登りの人もいればメイクの人もいて、ヨガとかピアノとかアルバイトの人もいる、だからなんでもよかったんだと思います。芸術に限らずなにかにすごく没頭したりなにかを極めようとしたときに、かつ、それ自体を目的化するのではなく、あくまでも手段として考えたときに、誰かとの関わりを通じて自分の美学の探究をしていくこと。それが豊かな人生に繋がるんじゃないかと思います。

何者になるとか、どんな地位や名誉を得るとかよりも、たとえ自分の人生がなにもないものであったとしても、その人生に納得できるかの方が大事なのかもしれない。自分の人生を不満足に生きていたら、誰かを愛することも慈しむこともとても困難になってしまうけど、もし自分の人生に納得して満足できていたら、周りの人の人生も自然と大事に思えるから。

自己啓発くさくて宗教っぽくて、なんだかうさんくさく感じられることをつらつら残してしまいましたが、今後もこのおおきなつぶやきを通して、自分の人生に納得するためにも考えを深めていきたいです。

色々といつもありがとうございます。



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