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(58)30年前の恋人

30年前の恋人のソウは、

それから頻繁に連絡を寄越してくるようになった。

完全に、恋愛スイッチが入ってしまったようだ。

そうしてしばらくのやりとりの後、

「今夜、ホテルで休憩しませんか」

という誘い。

あまりに直球過ぎて、

なんて答えよう…と、戸惑ってしまった。


わたしにとっては、ソウは大切な存在だけれど、もう完全に友人だ。

「カラオケくらいにしておきましょう」

と返事をした。


ソウは、カラオケで過ごすことに同意して、

「がっついてごめん」

と言った。

それからしばらく経ったある日、

午後から夕方の間にお互い時間が取れて、

カラオケルームにそれぞれ好きなものを持ち込んで、

歌は歌わずに、たくさん話をした。


彼は、奥さんとこどもとじぶんとの距離を感じていて、

孤独だった。


そして、

俺はかの子に恋をしている

と言った。


その言葉は、

あの30年前、彼と別れた後、劇的にもがき苦しんでいるときに、どうしてももう一度欲しかった言葉だった。

けれども、今、その言葉がわたしの心を動かすことは、なかった。


わたしは静かに笑って、

奥さんとこどもと仲良くね、

と答えた。


時の流れは、そんなふうに、残酷なものだ。


30年という時を経て、

わたしはもう、ソウを哀しく求め続けるわたしではなくなっていた。


ひとつだけ言えるのは、

とてもとても欲しい時にそれはその手をすり抜けて遠ざかり、

けれども、忘れた頃にふうっと、自然に手に入ることもあるのだな、ということ。



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