最近、長い文章が読めなくなった
久しぶりに読書をしていました。
短編がたくさん入っているような感じで、一編一編が長いわけでもないのに、15分くらい読むとなんとなく疲れて顔をあげてしまいました。
昔は長編小説だってあっという間に時間が過ぎて読めていたのに、なんでこんなに本が読めなくなってしまったんだろう(集中力が持たないんだろう)と自分の近年の行動をふと振り返りました。
私の近年の情報源の移り変わりを見ると
本から離れ、Facebookやブログを見るようになり、Twitter、Instagram、TikTok……
Facebookやブログ時代はまだ少し長い文章を読んでいたものの
Twitterは文字数制限がある短い情報源
Instagramも写真中心の情報源、そして最近流行りのストーリーでは最大でも60秒の動画
そしてTikTokはもはや動画のみで文字情報はほぼありません。
あー、これは長い文章が読めなくなるわけだ、と個人的に合点がいきました。文字から写真へ、そして動画へ。
時代の変化とテクノロジーの変化が起こす世界のめまぐるしい変化は私の「読む」という体質をいつの間にか変えてしまっていたようです。
まだ、読める自分でいたいな。
振り返り終わって、そう思いました。私、読める自分でいたい。読む、ということは昔はごく当たり前で、絵本が大好きで、小説が大好きで、小学校でも中学校でも、高校でも、大学受験でも国語や小説、現代社会を習って当たり前に使ってきたのに、いつしか何も読まなくなってしまった自分がいました。
でも、やっぱり読める自分でいたい。あの、かみしめるような、綺麗な言葉が紡ぎ出された感触があるのはやっぱり「本」だけだと今はまだ思うから。
私は読みたい。だからこそ、今後は定期的に本を読もう、そう思いました。読むことは当たり前すぎたから、当たり前にできていたけれど、離れた今、読むこともストレッチと同じでやっていないと出来なくなることかもしれないと実感しました。
それと同時に「書く」ことも同じように出来なくなるのではないかとかんじたので、今、「書く」ことにも挑戦しています。
手紙を書かなくなり、LINEなど短文の生活に慣れている自分に、自分で言葉を紡いでいく、ストーリーテリングをしていく、それも今後は一つの技能になっていくと思うから。
忘れないように、出来なくならないように、自分の大切にしたいことを、大切にできるように。
「読む」と「書く」を少しずつまたやっていこう、そう思った夜でした。
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