【物語の現場014】早逝の逸材・狩野融川筆「旭日双鶴図」(絵画紹介)
「融女寛好」の第十九章で、狩野融川が、少女時代の栄(後の融女寛好)と若き探信守道に、絵師の心得を説く場面を書きました。
狩野探幽のスケッチ画を教材に、粉本(絵手本)をなぞるだけでなく、実際の動植物や風景をしっかり観察しないといけない、と。
狩野派の絵画には、粉本をただ写しただけの作品も多い。この絵師、きっと嫌々家を継がされて、嫌々御用絵師をやっていたんだろうな、みたいな手抜き作品もよく見ます。それはそれで面白いんですが。
一方、物語には、素川章信、木挽町の伊川院と晴川院など、後期狩野派を代表する名手が登場します。そんな中、栄にあの様に教える役を融川に振ったのは、単に二人が師弟関係にあっただけでなく、融川の残した作品から、彼の絵画に対する真摯な姿勢を見て取れたからです。
浜町狩野家第五代当主・融川寛信筆「旭日双鶴図」
絹本着色。比較的近い時期に入手した一幅。もしかしたら双幅もしくは三幅対の一部だったかもしれません。
落款に「法眼」とあります。融川が法眼となったのが文化五年(一八〇八年)、31歳のとき。それから切腹して果てた34歳(切腹事件がなく、墓石に刻まれた年まで生きたとすれば38歳)までの間に描かれた作品。
構図はよく見るパターン。これも恐らく粉本通りでしょう。しかし、全体のバランスのよさと二羽の鶴の正確な描写に、描いた人のセンスと実力が出ていると思うのです。三十代での急逝が惜しまれます。