「納得」松風陽氷

 最初はお気に入りのマグカップだった。それは突然の出来事で、誰も予期してなどいなかったし、恐らくは出来なかったと思う。食洗機に掛けて、時間になった頃合いにふたを開けてみるとそこには、数字時間前まで持ち手だった筈の粉と容器だった筈の陶器の破片が散乱していて、僕のマグカップが一つだけ粉塵と化していた。おかしいなと小首を傾げた。はて、今まではこんなことなかったのに。食洗機がどこか故障でもしたのだろうか。それとも偶然か。僕はお気に入りのマグカップが壊れてしまって悲しみのあまり呆然としていた。三分間程ぼんやりと立ち尽くしていた。それ位、僕にとってこのマグカップは大切にしていたものの一つだったのだ。胸のあたりがざわざわとして、この遣る瀬無い感情に三分間も悩まされた。何だか空中に集るコバエを真面にくらった様などうしようもない不快感だった。きっと誰を責めることも出来ないからこうなんだと思う。誰も悪くないから、不愉快なんだ。

 先日、従妹の母親が逮捕された。従妹の名は聖子といい、父親が分からない子だった。母娘二人暮らしで、幼い頃より虐待を受けていたそうだ。僕の家は従妹とそんなに交友がなかったが、祖母のほうからちょっと怪しいとだけ少し聞いたことがあった。聖子は僕より五歳下の十二歳だ。十二歳の子が週四で犬小屋生活を送らされていたら、やはりそれは虐待に当たるのだと思う。特に今のご時世はそんなものを躾とは呼ばない。彼女は僕の母親の厚意で家に引き取られることになった。そして僕と書面上兄妹になった。駅前のホームレスが凍え死んでしまう程寒い、十一月のことだった。

 何かと彼女は謝る癖があった。ごめんなさい、ごめんなさい。来客用だった布団を用意してもらって、ごめんなさい。食事を出してもらって、ごめんなさい。洋服や文房具なんかを買ってもらって、ごめんなさい。

「何だか戦時中の子みたいだね。そんなに気にしなくっていいのに。それとも、ごめんなさいが好きな言葉だったりして」

一度僕はふざけた口調でそう声を掛けてみた。すると彼女は

「ごめんなさいしか言えないみたいで、ごめんなさい」

と、涙目で怯えた様にぽつりぽつりと返事をした。僕のこの冗談は、果たして虐めと言われる行為に当たってしまうのだろうか。それ以来彼女にどう接していいか分からないままである。

 聖子が来て以降、食器洗いが彼女と僕の分担になった。月、水、金曜日が僕で、火、木、土曜日が彼女。マグカップが割れたその日は土曜日で、彼女の分担だった。陶器の破片をかき集めて古新聞にまとめていると、それに気が付いた彼女が駆け寄って来た。そして僕の隣でうらなりの瓜みたいな顔をしながらわなわなと震え始めた。

「ご……ごめんなさい。私は悪いことをした……ごめんなさい」

随分大仰な反応だ。何だか自分の所為であると言い聞かせている様な口調だった。

「いいんだよ、別に。きっと君の所為じゃない。偶然だったんだよ。もしかしたら、明日の僕に何か事故でも起きる予定だったものを、こいつが身代わりになってくれたのかもしれないよね」

最後に加えた在り来たりの台詞。それが彼女にとっては新たな物の見方だった様で、きょとんとしながら驚いていた。

「身代わり……」

「ほら、もう十時過ぎたよ。僕はこれから学校の宿題をするけど、君はもう寝なよ。寝る子は育つ、だろう」

彼女の背をぽんぽんと押して台所から出し、そろそろと歩いてゆく縮こまった背に「おやすみなさい」と声を掛けると

「ごめん……なさい。おやすみなさ……い」

と、小さな返事が返ってきた。不慣れな「おやすみなさい」に少しばかり恥じらいが見えた気がした。僕は古新聞をまとめてゴミ箱に押し込み、誰のでもない共用のマグカップにコーヒーを淹れた。淹れている時に、彼女のことを考えていた。彼女はどんな生活を送ってきたのだろう。マグカップ一つ割っただけであの反応だ、きっと僕なんかよりよっぽど辛い体験をしてきたに違いない。彼女の母親はどんな人だったのだろう。きっと鬼畜みたいで酷い人だったに違いない。彼女はどんな考え方を持っているのだろうか、どんな人なのだろう。明かりが揺らぐ珈琲の面を眺めていると、俄然彼女に興味がわいてきた。

 正月の初売り、僕らはそれぞれに一万円づつを持たされて買い物に行くことになった。これはきっと母の粋な計らいだろう。きっと、兄妹間の親睦を深める目的なのだと思う。それにしても、少々雑ではなかろうか。十七歳と十二歳の男女が仲良く買い物出来ると、本気で思ったのだろうか。僕は今時の十二歳の子の趣味など分からないぞ。そう思いながら取り敢えず僕らは横浜に来た。

「何か買いたいもの、ある?」

「……無いです……ごめんなさい」

そうら、そう言うと思ったよ。溜息を吐きながら頭を掻いて、西口の方に歩きだした。僕は日頃西口ばかり歩く。西口にあるドン・キホーテやら、マクドナルドやら、ゲームセンターで暇ばかり潰している。横浜に着くと足が勝手に西口の方に向かってしまうのだ。それにしても、流石三が日、想像以上の人混みだな。

「手を繋ごう。はぐれないようにね」

僕は戸惑う少女の手を優しく取って庇うようにしながら西口へ導いた。いつものゲームセンターに辿り着いて一息置いた。横浜駅の中央通りの混雑はよく知っているが、やはり正月の初売りをなめたものじゃない。百貨店や地下通路の商店街ではそこかしこで福袋が飛び交って、人や商品がゴミの様だ、なんてね。僕だって少し疲れたのに、彼女が疲れない訳が無い。案の定彼女は胸の辺りを押さえて涙目になり息を切らしていた。

「ごめんね、歩き回らせて。疲れたよね」

「いえ……ごめんなさい」

苦しく喘ぐ少女がやけに色っぽく見えた。生のほうれん草を茹で上げて冷水に浸した時のような、濃ゆい緑と初々しい黄緑と生々しいピンク色。唐突で鮮やかでグロテスクな、そんな色気だった。苦しそう、は、色気なのかも知れない。少女から目を離して、クレーンゲームを物色した。彼女は一万円の使い方が分からないみたいだった。僕は自分の一万円を両替機に突っ込んで全てを百円玉に変えた。すると、彼女も真似をして全てを百円玉に変えた。何だか悪いことを教えているような気分になった。

 帰ってコートをハンガーに掛けている時、高く乱雑な音が大きく鳴り響いた。音のした方へ行くと、大皿が一枚割れていた。その日は日曜日で、僕の分担でも彼女の分担でもなかった。善意から進んで食器を洗っていた父がうっかり手を滑らせてしまったのだ。拾おうとした父の人差し指から血が流れた。それは硝子で出来た大皿だった。それはチリチリと輝く粉になった。それは触れる者を傷付ける凶器になった。納戸から取ってきたゴム手袋でもって丁寧に処理をする父親。それを手伝うべきであることは、頭では分かっていたのに、どうにも手伝い方が分からなくなってしまった。ぼんやりと白痴の様に、しゃがむ父を見下げていた。

盛大に割れた音を聞いて、彼女が駆けつけて来た。彼女はこの前と同じ、うらなりの瓜の顔をした。彼女の白い肌が、どんどん青ざめていった。別に今回だって、誰も悪くない。それなのに彼女は「ごめんなさい」とぶつぶつ呟いていた。バイオレンスの原因は全て自分にあると思っているのかもしれない。可哀想な子だ。そして彼女は新聞紙を持ってきたりゴミ袋を持ってきたりと、自分に出来る限りの努力をした。その様子を見ても、やはり僕は白痴になることしか出来なかった。彼女がしゃがむ姿を何も考えずに眺めていた。

「聖子は手伝ってくれているのになぁ、お前は何もせんのか? ただつっ立ってるだけか?」

父が言葉を投げた。ギクリとしたが、何と返そうか迷ってしまった。おかしい、普段だったらこんなことヘラヘラと返事して終わりな筈なのに。何も言葉が出てこない。彼女の背が、下を向いた時に浮き出る脊椎の凹凸が、大きな硝子の破片を恐る恐る手にするその華奢な指先が、足元に砕ける硝子が、薄汚い台所の床が、ぐしゃぐしゃにされた新聞のノイズが、艶やかに彼女を引き立てた。彼女の周りの全てがその瞬間、引き立て役にされた。手元からちらりと横に流れた視線。生唾をゴクリと飲み込んで、圧倒される僕。聖子のその姿は昔読んだ御伽噺の誰かに似ていた。とても可哀想な蕾。大きく開く芍薬の蕾。傷付いて灰被った薄桃色。

「ちょっと、トイレ」

そう言ってその場を凌いだ。

「あ、逃げたなお前!」

と、自分の背で太い大きな声が追いかけて来たが聞こえないふりをした。それどころじゃない、と父に聞こえないように小さく呟いた。

 自分の部屋に逃げ込んで扉を背に一息ついた時、初めて自分がずっと呼吸をしていなかった事に気が付いた。

 僕は、聖子に見蕩れていた。認めたくないが、確実にそうだ。彼女に対するこの感情は、何だろう。愛? 恋? 兄妹愛? 異性愛? 自分でも馬鹿げていると思った。血の繋がりが薄くても、僕らは書面上兄妹なのに。兄妹になったのに。しかも、五歳下の、未だ十二歳だ。幼過ぎる。僕は少女性愛者なのだろうか。自分が恐ろしくなった。十二歳の子に、しかも兄妹に、欲情している自分が信じられなかった。信じたくなかった。確信が憎かった。

 次の日、銀製のスプーンが一本、ひしゃげた。偶然母が休みで、昼間に食器を片付けていたらディスポーザーの中に落っこちてしまったのだ。僕はそのまま気が付かずに食器を洗って、ディスポーザーを起動させて、中から出てきた轟音に大変驚いた。下品で猥雑な轟音だった。出てきた頃には、スプーンは最早その原型を留めていなかった。ぐにゃいぐぬりと曲がりくねって、どうしようも無い金属となった。ずちなし。ずっと幼い頃から使っていたのに。結構気に入った物だった為、大いに悲しかった。今回は誰も来てはくれなかった。僕一人で壊れた苦しみを堪能するしか無かった。ずちなしの銀鉱は、僕の部屋へ持って帰った。どうしてか、それがとても大切なものな気がしてならなかった。だんだん眺めている内に綺麗だった頃よりも魅力的に見えてきたのだ。無益な湾曲が、暴力的で憐れで蠱惑的に思えた。美術なんてものは僕には理解出来ないが、これは僕にとって極めて美しく思えた。

 可哀想だから、可愛らしい。のでは無いだろうか。憐れだから、愛おしいのでは無いだろうか。歪んだ金属を握りしめる度に、聖子が愛おしくて狂おしくて堪らなかった。こんなこと、思ってはいけないのに。この日、僕は彼女を思って自慰をした。彼女のあの困った時にできる伏せた長い睫毛の影や、疲労に喘ぐ姿、上気した頬、俯いた時の脊椎と首筋。そして何より「ごめんなさい」と謝る時の潤んだ瞳と濡れた声色。この片恋の行方は、何処だろう。

 また次の日、僕の箸がどこかへ消えた。この事は僕以外誰も知らなかった。誰も気が付かなかったし、僕も態々言い広げる必要は無いだろうと思った。学校帰りに自分の箸とマグカップを買いながら、誰も悪くないんだと思った。でも、きっと、誰も悪くないんだ。だからこんなにも心臓の不快感が拭えないんだ。

 いや、待てよ、若しかしたら自分が悪いのかもしれない。分からないが、若しかしたら全て自分の「何か」が原因で、その「何か」のせいで壊れたのかもしれない。分からない。なんの根拠も無いが、ふとそう云う考えが頭を過った。こういう考えって、誰にでも平等に唐突に襲い来る。そしてそのうち、僕に関係する全てが壊れて行く気がした。物、ストーリー、人間関係、人生、そういったものがバラバラと音を立てて崩れ落ちていく感覚に苛まれた。縁起でもない、碌でもない、やめだやめだ、こんな考え。そう心の中で呟いたって、拭い切れない灰掛かった紫色の何か。その何かは五臓六腑に染み渡り、増幅し、口や鼻から溢れ出て、グロテスクに滴っていく。そうして僕は、聖子の母親の気持ちが少し分かった気がした。聖子はきっと、生粋の被害者体質だったんだ。「ごめんなさい」がお似合いの少女。だから、きっと、誰も悪くないんだ。聖子の母親も、食洗機も、父も、ディスポーザーも、そして僕も。誰も何も、悪くなかった。すると灰掛かった紫色は僕の心臓の奥底、ジョハリの未知の窓に落ち着いた。その場所で、この瞬間からずっとずっと長いこと落ち着いてしまったのだった。そして、顔面に集る空中のコバエの様な、誰も悪くないんだと云う不快感が僕の身体を燻していく気がした。

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