「通過儀礼」文野麗

 僕だけが気づき、僕だけが知ったことがある。

 世界の全てが一度僕から離れてしまったこと、果てしない孤独の本当の意味、それから、青い空と赤茶けた土が延々と続くあの空間も。 

 始まりは中三の終わり頃だ。高校入試の時期だったため周りはみんな焦っていた。真面目な生徒はもちろん、以前は勉強など馬鹿にしていた連中まで、志望校に入るために躍起になっていた。教師たちはあの手この手で勉強時間を増やした。昼休みはなくなった。朝も早く登校して自習しなければ睨まれた。放課後は学年のほとんどが揃って図書館や塾へ行く。

 入試に関してさえ僕は孤独だった。僕は幸運にも一月の初めに推薦入学を決めたのであとは卒業するだけだった。真っ先に勝ち抜けしたことで同級生からは多少なりとも妬まれていた。少なくとも仲間扱いからは除外されていた。僕はただ傲慢さと余裕によって心を固め、傷つくのを防いでいたように思う。

 しかし僕が心の外側を固めて閉じこもり他人との交わりをなくした理由は何もそれだけではなかった。

 あの頃、生きることそのものが憂鬱でならなかった。人生がどうしようもなくつまらなく見えたのだ。全てに飽きていた。どこを切っても砂の味しかしない日々が変わることなく延々と続き、やがて老いて死んでいくことに意義を見いだせず、ただ宙ぶらりんの気持ちで過ごしていた。綺麗だと思った景色はみるみるうちに色あせていって疎ましい灰色になった。手にした物が全て塵になっていって、自分は餓鬼のようだと絶望する毎日。今空虚であることはまだ耐えられるが、未来は更に無味乾燥になるのかと思うと恐ろしかった。その上僕は誰とも打ち解けられなかったのだ。友人たちとは結局最後までなじめなかった。神経をすり減らして気を遣って、ただ場を取り繕うためだけに毎度毎度心にもない台詞を口にして……ひどくくだらない。僕はそもそもなれ合いを好まないのだ。それでも嫌われることは立場上の死に直結するから全力で避けた。同級生は誰も彼も信じられないくらい下品で、物を知らず、聞き苦しい訛った口調でしゃべるのだった。僕は誰一人尊敬せず全員を見下し軽蔑していた。自分以外は全員話にならない愚か者だ、と。

 しかし愚か者たちは所詮同類のくせに自分たちに序列を作りたがり、上の立場の者は平然と下の者たちを馬鹿にした。下の者たちは更に下の者を嘲笑った。僕のクラスで一番下にいたのは入川という男子だっただろう。

 入川の制服はいつも白く汚れていた。埃や食べこぼしが付着し、加えて他の男子に足蹴にされた際の上履きの痕が消えなかった。制服は一着しかなくてクリーニングには出されないらしかった。頭皮には光るように雲脂が目立ち、襟足にもずいぶん付いていた。彼の痩せぎすの身体はカビ臭かった。

 彼は休み時間も授業中も常に文庫本を読んでいた。文庫本は全部で三冊あり、全てにベージュのくたびれたカバーが掛けられていた。三冊あると言っても同じくらい読んでいるわけではなく、手にしているのはほとんど一冊で、残りはおそらく教師や同級生に取り上げられたときのための予備である。

 彼と口を利く人間はいなかった。クラス替えの前から彼が周りと相容れない特殊な存在だということは知れ渡っていたから、関わったことがない者でも平気で「入川はキモい」と評した。僕も彼が自分より劣った存在であると当たり前のように認識していた。彼に近づくことを避け、口を利くこともなかった。

 ただあの日だけは例外だったのだ。

 一月の午後、志望校ごとに生徒たちが集められ、教師から説明と激励を受ける催しが設けられた。既に進学先を決めた生徒は教室での自習を命じられた。

 あのクラスで自習する生徒は僕だけだったはずだが、入川はいつも通り窓際の席で文庫本を読んでいた。

 どうして彼に声を掛ける気になったのか、自分でもよくわからない。一つ言えることは、僕は藁にもすがる思いだったということだ。日常に倦んで摩滅し病んだ心をどうにかして癒やしたかった。壊れかけの自分と見つめ合うことから逃れられさえすれば何でもしたかったのだ。誰かと話していれば、人生について考えなくて済む。 

 僕は意を決して椅子から立ち上がり、窓の方へ近づいていった。

 よく晴れた午後だった。冬の傾いた日差しが鋭い角度で教室に差し込んでいた。遠くの方で男性教師の声が響いていた。

 入川の横に立っても彼はぴくりとも反応しなかった。目は文庫本だけを見ていた。

 軽く息を吸って、僕はこう切り出した。

「説明会行かないのか?」

 返事はなかった。

「お前高校どこ行くんだ?」

 やはり返事はなかった。

「もしかして高校決まってるのか?」

 イライラして尋ねたが、やはり彼は無言だ。

「……何の本を読んでいるんだ」

「世界の真実について」

 突然言葉が返ってきたので驚いた。少々間があった後、僕はその言葉の意味を質問した。

「世界の真実っていうタイトルなのか?」

「お前たちが知らない、世界の真実。全てが書いてある。今の人間はほとんどこれを知らない。ただ蒙昧の中で知らず知らずのうちに飼われているんだ」

 ほとんど初めて聞いた彼の声はとても低かった。次の瞬間、入川はロボットのように首と頭だけこちらに向けた。 

 僕は呼吸を忘れた。一切が消え去って僕と彼の二人だけしか存在しなかった。彼は僕の目をじっと見て、言葉を続けた。抑揚をつけずに淡々と。

「だがお前は気づいてしまっているんだ。俺は知っている。全て知っている。このところ生きることに意味を見いだせないだろう。人生が恐ろしくてたまらないだろう」

 感情がうかがえない顔をして機械めいた口調で話す彼は預言者のようであった。顔に肉が付いていないために出張った目。瞳は澄んでいた。奥には恐ろしいほど深い瞳孔があって、僕を捉えて放さない。

 身体が動かない。空間が固まっている。彼の声だけが雷のように轟く。

「知りたいか? 人間の正体を。世界の本質を」

 彼は両手で文庫本を閉じ、こちらに差し出した。

「読め」

「いらない!」

 僕は身体に張られた見えない糸を無理矢理引きちぎって、脱兎のごとく逃げ出した。夢の中で走るときのように足がうまく動かなかった。トイレに入って、胸を押さえながら恐怖を抑える。心臓は感じたことがないくらい早く脈打っている。

 あんなことは早く忘れようと、以来僕は怯えて暮らした。だがある日の夕方、僕ははっきりと、世界にひびが入るのを目の当たりにした。火照った空に亀裂が走ったのだ。

***

 卒業式が終わってからというもの、僕は一日中パソコンの前に座って、当時好きだったアニメのMAD動画ばかり見ていた。徐々に壊れていく世界から目をそらそうと放心状態でスクリーンだけ見つめていた。動画さえ見ていれば思考せずに済んだ。女性キャラクターの大きな胸や形の良い細い脚を眺めることだけが破滅の予感を和らげた。次第にどの動画を見ても満足できなくなり、検索ワードにも事欠くようになったが、止まることはなかった。投稿されている全ての動画を見尽くしてしまうことがただならぬ不安として存在した。もらったおみやげを節約して少しずつ食べる子どものように、見ても良い数を減らしながら少しずつクリックするのだ。新作を見られないときは視聴済みの動画をリピートする。最も悪い感情たる退屈が忍び寄ってきたら、慌てて更に刺激の強い動画を探した。

 睡眠が怖かった。寝るときは動画を見られないから忌々しい現実を目の当たりにしてしまう。それを避けるために、僕はほとんど寝なくなった。夜通し動画を見て、朝意識を失い、昼過ぎに目覚めてまたパソコンの前に座る。そんな毎日だ。常に寝不足で朦朧としながら、流れてくるコメントと一緒になって興奮し、動画の作者を賞賛し、陶酔を味わっていた。燃えて燃えて、燃えかすのようになっても燃えることを止めない。

 高校に入学することなど考えたくもなかった。

 

 だが不吉な予感は時計が回るごとに増していった。そしてとうとう実現してしまった!

 いつもと同じ日のはずだった。空腹を覚えたので昼食のカップ麺を取ってくることを考えながらも動画を一時停止する気になれず先延ばしにしていた。

 そのとき背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえたのだ。

 驚いて振り返ると、本棚の前に入川が立っていた。

「お前、どうしてここに」

「来い」

 入川は壁の中へ入っていって僕を手招きした。僕は放心状態で壁を通り抜けた。

 向こう側にあったのは暑い大地であった。文明によって曇らされた形跡がない清らかな濃い青色をした空と、アメリカの西部劇を思わせる赤茶けた土、ところどころに生えている乾燥した草。僕は唖然として辺りを見渡した。何が起こっているのかさっぱり分からない。

 再び入川の方を向くと、入川はあの機械めいた口調で話し始めた。

「本当は気づいているんだろう? もう人間なんて一人も生きていない。世界は滅んだ。生きているのはお前と俺だけ」

 そして後ろを指して、残酷に言い放った。

「見ろ」

 僕が振り向いたその瞬間、轟音が響いた。地響きと、あらゆる木材だの金属だのが軋み、耐えきれず潰れていく音が鼓膜を破るような勢いで押し寄せた。もはや全ては瓦礫と化した。元いた世界は完全に壊れてしまった。粉塵が飛び散って煙たい。

 僕は震えて膝から崩れ落ちた。呆然としてしばらく呼吸だけしていたが、入川のことを思い出して、猛然と食ってかかった。

 両肩を掴んで揺すりながら叫ぶ。

「お前、何てことするんだ! 全部壊れてしまったじゃないか! 皆死んでしまった! 人殺しめ! お前のせいで僕は全部失った!」

「俺のせいじゃない」

「お前がやったんだろ!」

「違う。お前が自分でやったんだ」

 僕は一瞬ひるんだ。しかし泣きわめくことしか出来ない。

「返せ! 元に戻せ! 入川! おいっ!」

 泣きながら奴の身体を揺すっていたら、突然力が抜けて、前に倒れた。荒く息をしながら起き上がると、入川は忽然と姿を消していた。僕は無我夢中で彼の名前を呼んだ。しかし入川は二度と現れなかった。

 地面にへたり込み、涙と鼻水を拭って、苦しみながらも懸命に息を吸う。これからどうしようか。こんな誰もいない荒野で生きていくのは嫌だ。だからといって死ぬのも嫌だ。天の国などへは行きたくない。地獄へも行きたくない。仏の弟子になるなんてまっぴらごめんだ。今すぐこの自我を消し去りたい。生まれてきたのが間違いだった。消えてなくなりたい。消えてなくなりたい。

 仕方なく立ち上がり、しばらくの間ふらふらと彷徨っていた。だが意外にも、事態は更に悪くなったのだ。

 どこまでも続いていたはずの大地がだんだん狭くなってきたのだ。向こうから強い風が吹いてきて、奥ゆきが時間ごとに短くなってゆく。

「嫌だ。嫌だ。それだけは」

 僕は懇願するようにつぶやいた。

「お願いだからそれだけはやめてくれ。何でもするから。死人の世界で生かすのだけはやめてくれ!」

 そう叫んだと同時に僕は瓦礫の中に押し戻された。夜のように暗くなった、元は自室だった空間に僕はいた。完全なる絶望だった。

 

 人々は全員死んでいた。建物も道具も道路も、今までの世界はまるごと死の世界になった。死人は自分たちが死んだことすらも気づかずに灰色になった身体で寝起きした。死人の言うことは何一つ理解できないから近くにいると泣きたくなった。僕は死んだ母が用意するすっかり味がしなくなった妙な食べ物を食べて一人生きていた。言葉が通じないから誰とも会話をする気になれず、かといって以前のように動画を見る気にもなれない。パソコンの画面に映るものも全く理解できなくなったからだ。ずっとベッドの上にいて、眠っていようと思った。断続的に眠りながら、自我を消すにはどうしたらよいかそれだけ考えていた。

 五日の後、一つの微かな希望が台所に座っていた。米びつの上に置かれた林檎だった。その林檎は完璧に美しかった。実の形は対称な曲線で、軸は傾きすぎず立ちすぎない見事な角度で生えていて、色はくすみも傷もない艶やかな深い赤だった。何より、僕と同じように生きて光を宿していた。死んだもののように灰色でなかった。僕は大変感動した。いずれ食べられてバラバラになる前に、この美しさを残しておこう。いつまで続くか分からないこの生の慰みにしよう。僕はいとこにデジタルカメラを借りようと考えた。携帯電話に付いたカメラなんかでこの美しさは写せない。何としてもあの高価なカメラでなければ。

 電話をしてごくひさしぶりに僕は自分から他人に話しかけた。

「デジタルカメラを貸してほしい」

「デジカメ? 何に使うんだ?」

「林檎の写真を撮るんだよ! 撮らないわけにはいかない。さっき完璧に美しい林檎を見つけたんだ。あれをどうしても写真に撮りたいのさ。あんなに美しい林檎は二度と現れないだろう」

 そう伝えたはずなのに、やはり死人は僕の言うことを理解しないらしい。しばらくして、いとこから添付ファイル付きのメールが送られてきた。見てみると、いとこが家にある適当な林檎を携帯のカメラで撮っただけの写真だった。このときほど落胆したことはない。何も信用するまい。死人とは口を利くまい。

 ところが事態は思わぬ動きを見せた。携帯電話の右側にかかった指を見ると、灰色に変わっている。確認したら、両手両足の指先から光が失われていた。僕も死人になりかけていたのだ。

 以後、徐々に僕の身体から光は消えていき、灰色に変わっていった。同時に死人の言うことも理解できるようになっていった。正体の分からない憂鬱からも解放された。残念に思うよりも安心する方が強かった。どうにもならない諦めの中で、脱力して照れ笑いしていた。一年くらい経つと、僕も完全に灰色に染まった。今となってはあの頃の感じ方を理解できない。

 

*** 

 

 あれはまだ僕の身体に半分くらい光が残っていた頃のことだ。中学の同級生と会ったとき、彼はこう言った。

「そういえば入川っていたじゃん? あいつ、ネトゲにはまって昼夜逆転して高校辞めたらしいぜ」

 僕は失望した。なんだ入川、お前も死人の側だったんじゃないか。

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