大壹神楽闇夜 1章 倭 降り立つ闇3
「いや、しかし華咲の娘とは思えんな。」
香久耶をジロジロ見やりながら彦介が言った。彦介は既に顔を真っ赤に染め上げできあがっている。
「ほんと、お母さんもお姉ちゃんも図々しいのに此の娘はなんとも大人しい。」
喜多が言った。
「うん。確かに似ておらん。この娘は何と言うかお頭の良さそうな顔をしておる。」
又次が言う。
「にゃはははは…。当たり前じゃ。香久耶はお頭の良い日三子になるんじゃ。」
と、酒を煽り乍ら神楽が言った。香久耶は恥ずかしそうに“お姉ちゃん、そう言う事は言わんで“と団子を手に取りパクリと食べた。
「お頭の良い日三子とは何とものう」
花婆がジロジロと香久耶を見やる。
「日三子 ? と言うことは卑国のお姫様じゃ。」
文が言った。
「姫ではない。星三子じゃ。」
と神楽が訂正する。
「何でじゃ ? 日三子は女王様じゃろ。」
「何を言うておる。日三子は女王ではないぞ。」
「じゃあ、何じゃ ?」
「日三子じゃ。」
「何じゃ、日三子は女王ではないのか。我はずっと日三子は女王じゃと思うておったぞ。」
花婆が言った。
「日三子は役職じゃ。」
「じゃが、卑国は八重ではないであろう。」
文が問う。
「そうじゃ。じゃが女王はおらぬ。」
「何と。王がおらぬ国とはけったいな話じゃ。」
と、花婆は香久耶を見遣り‘そうなのか ?‘と、問うた。
「お姉ちゃんの言う通りじゃ。我等の国に王はおらぬぞ。」
「だが、王がおらねば国は纏まらないだろう。」
又次が言った。
「じゃから日三子がおる。其れに我等はこの地を守ると言うことを幼子の時から教えられておる。」
誇らしげに神楽が言った。
「お姉ちゃんの言う通りじゃ。我等は常に纏まっておる。我等は皆家族じゃからな。」
「家族 ?」
「そうじゃ。卑国の民は皆家族じゃ。」
「其れであんなに仲が良いのか。」
「そうじゃ。じゃから伊都瀬も母であり姉のような存在なんじゃ。」
と神楽が言うと‘そなたの母は華咲であろう。‘と喜多が言った。
「何を言うておる。華咲は猫化けじゃ。」
「お姉ちゃん…。其れは禁句じゃ。」
「猫化け ?」
「そうじゃ。華咲は猫化けじゃ。」
と、神楽はケラケラと笑った。
「ほおお。其れは儂も知っとるぞ。」
「何じゃ。彦介は知っとるか。」
花婆が言った。
「おおよ。何でも一度に六人の子供を産んだらしいぞ。」
『六人 !』
と、一同自分の腹を見やった。
「六人…。」
文は自分の腹をさすりチロリと神楽を見やる。
「そうじゃ。あれは猫の祟りじゃ。」
真剣な面持ちで神楽が言う。
「何と猫の…。」
多江が言った。
「どうりで最近姿を見んと思うておったんじゃ。」
「あ、其れは公務が忙しいからじゃ。」
香久耶が言った。
「公務 ?。」
「そうじゃ。母上は奥子の長じゃからな。」
「奥子 ?」
文が問う。
「そうじゃ。母上は日三子の次に偉いんじゃ。」
「何と…。あ、そう言えばなんか言うておったな。我は星影じゃとか何とか。」
花婆が言った。
「今は日陰じゃ。」
「ほおお…。まぁ、あれだ。何にしても儂等は卑国の偉いさん方と友達だと言うことだな。」
「そう言うことじゃ。」
と、神楽は調子に乗って酒をがぶがぶと飲む。
「お姉ちゃん。飲みすぎじゃぞ。」
香久耶が嗜めるように言うと‘いつもの事‘と喜多が言った。
喜多の言う通りいつもの事である。神楽と演劇仲間は演劇後の打ち上げをいつもの様に近所の居酒屋で行なっている最中なのである。勿論居酒屋と言っても其れはとても簡素なものである。豪華なテーブルがあるでも無く特別な飾り付けがあるわけでもない。そして当然の如く椅子もない。店はあるが店としての特別な作りなどは無く簡素な調理場と食材を保存する場所があるだけである。
店内は床があるわけでも無くそのまま地面である。地面の上に木の板をテーブル代わりに置きその周りに人が座るのだ。勿論座布団なんてものはなく直に座るのが主流である。そして、今日のように演劇や何かの催しが行われるときは店の外にも木の板が置かれ店が拡張されるのだ。そして神楽達は居酒屋で今日の反省と良い点を話し合うと言うわけである。
演者でもないのにと思うかもしれないが、意外とそうでもないのだ。まず演劇が終了すると各々は贔屓の演者におひねりを渡しに行くのだ。そして、その時誰におひねりを渡したかでその後に行く店が変わるのだ。何故なら演者がその店に顔を出しに行くからである。
演者は自分におひねりを渡してくれた見物客が集まる店に顔を出し今日の演劇について熱く語り合うのである。見物客にしても演者にしても寧ろこちらの方が本番と言えるほど大いに賑わうのである。
この賑わいに香久耶は翻弄されながらも心が躍った。何よりもこんなに力の抜けた姉を見るのは初めてでもあった。卑国にいる時の神楽は常に厳しい表情を浮かべている様に見えていたからだ。勿論、笑ったりもするが心の底から笑っている様には思えなかった。だから、姉にもこの様な時があるのだと少し安心した。
其れともう一つ姉の意外な一面を見ることが出来た。其れは演劇が終了した時のことである。香久耶はその圧倒的な世界観に飲まれたまま暫し呆然としていた。‘これが演劇…。何とも素晴らしい。‘と感慨にふけっている所に神楽が‘何を惚けておる。我等はこれを私に行かねばならん‘と、金袋を香久耶に手渡した。何の気なしに其れを受け取り香久耶は驚いた。金袋が非常に重かったからである。
「お、お姉ちゃん。これは何じゃ ?」
「おひねりじゃ。」
「おひねり ?」
「まぁ、演劇代みたいなものじゃ。」
「演劇代…。」
と、香久耶は金袋を揺すった。中は見ていないが相当な額の金が入っていることは確かである。
「お、お姉ちゃん。演劇代ってこんなに払うもんなんか ?」
と、神楽を見やると神楽は更に大きな金袋を演者に渡していた。
「な、何と…。あのケチなお姉ちゃんが…。」
「何をしておる。其方も早う渡すのじゃ。」
と、神楽が手招きをする。香久耶は誰に渡そうかと演者達を見遣り一番気になっていた女性演者の所に向かった。
「あ、あの此れ…。」
と、金袋を差し出した。
「あれま。娘さんがくれるのかい。珍しい事もあるもんだね。」
「我は年上が好みじゃ。」
「嬉しいね。其れじゃ…。」
「何をしておる。」
と、女性演者が手を出すやいなや、神楽が香久耶の腕を掴み‘その女は三流じゃ。‘と自分が贔屓にしている演者の所に連れて行った。神楽らしいと言えばそうなのだが何ともバツが悪い。香久耶は女性演者にペコリと会釈をするとそのまま人混みの中に消えて行った。
そして一つ知った。馬鹿みたいに金を渡しているのは神楽だけだと言う事。その時香久耶は理解していなかったが後からよくよく考えて理解できた。何故姉はあんなにも沢山の金を渡していたのか。仮に其れが女性演者なら好みであるとか色々と考えもつく。だが、姉が渡していたのは男性演者である。神楽が男を贔屓にしている事自体不思議な事だが、其れよりもケチな神楽がと考えると首を傾げてしまう。だが、答えは意外と簡単だった。
何故男性に ? 其れは演劇の主役だからである。
何故大量の金を ? 其れは見栄っ張りだからである。
只それだけの事である。何ともお姉ちゃんらしいと思ったが、自分の為に金をくれた姉に香久耶は感謝した。
「あいや皆様方お待たせしました。芝刈一座座長の芝刈徳之助でござい。」
と、香久耶が神楽のことを考えている所に元気よく男が入ってきた。
「主役が来たのじゃ。ほれこっちに座るのじゃ。」
と、神楽が手招きをする。
「これは神楽殿。いつも沢山のおひねり感謝でございます。」
と、徳之助は神楽の横に腰を下ろした。
「さあさあ、主役も来たことだ。皆様方大いに盛り上がろうぞ !」
彦介が徐に立ち上がり声を張り上げ言った。そして、本格的な大宴会が始まった。
ワイワイ、ガヤガヤとあーだ、こーだと言葉を交わしながら酒を飲み飯を食う。長閑で、優雅で、そして楽しく、これがずっと続けばと香久耶は願う。否、皆が皆、そう願っているのだ。秦国が攻めて来るなど只のホラ話だと言わんばかりに皆は楽しみ酒を飲む。神楽も皆が皆…。
だが、現実は違う。
違うからこそ此処にいるのだ。
香久耶は神楽を見やる。
「どうしたんじゃ ? 何を惚けておる。香久耶も飲まんといかんぞ。」
と、神楽が酒を注ぐ。
「そうじゃな…。」
と、香久耶は初めての酒をグイッと飲んだ。そしてゲボっと酒を吐き出した。
「うげ ! あ…。は、かっ…。」
初めての酒をグイッと一気に飲んだので喉が焼けるように熱くなった。香久耶は喉を押さえながらゲッッゲッゲと変な声を出す。
「う、うげげ…。かはーー。」
「な、何事ぞ。」
その行動に慌てて神楽が背中をさする。
「な、何があったんじゃ。香久耶。香久耶。」
と、神楽は大慌てである。
「げっゲッゲッゲ…。だ、だ…。」
大丈夫と言いたいがうまく声が出ない。
「こ、これは毒じゃ。毒が入れられておったんじゃ。」
と、その姿を見遣り更に神楽は大慌てである。そして、其れを聞いていた周りの者達も‘毒 ! 毒じゃと‘と更に大慌てとなり一瞬その場は騒然とした状況となった。が、喉の熱さが和らぐと‘お姉ちゃん。我は大丈夫じゃ。‘と声を掛けたので一同ほっこり。そして初めての酒でああなったのだと言うことをしり一同笑い転げた。
「全く騒々しい娘だぞ。」
花婆が呆れたように言った。
「な、何を言うておる。香久耶に何かあったら大変ぞ。」
「確かに。卑国の姫君に何かあれば真大変な事。儂は安心しましたぞ。」
と、徳之助が言うと。‘香久耶は姫君では無いそうじゃ。‘と文が言った。
「うーん。其れは如何な事ですか ?」
「星三子は役職らしいぞ。」
彦介が言う。
「ふーん。よう分かりませんが兎に角飲みましょう。酒は二杯目、三杯目からが美味くなるのです。」
と、徳之助は香久耶にドボドボと酒を継ぎ香久耶は覚悟を決めた表情でグイッと飲み干した。
「何と見事な飲みっぷりじゃ。流石は我妹ぞ。」
と、その姿に気を良くした神楽は更に酒を飲む。そして又どんちゃん騒ぎが始まると既に演劇の話などどこ吹く風。既に皆が皆喋りたい事を思いのままに話している状況となった。
其処にヒョイと顔を出した男が二人。二人は顔立ちが似ていることから親子だと分かる。そして庶民が着ている服とは違い少し高価な召し物を纏っている事から高貴な身分の者である。
親父であろう男が店内を見渡しニンマリと笑みを浮かべた。
「神楽殿 ! やはり来ておったか。」
男は徐に大きな声で声をけた。その声に神楽はビクッと体を震わせチロリと見遣りそそくさと群衆の中に紛れて行った。
「此れ、神楽殿どこに行かれる。」
「我はおらぬ。我はおらぬぞ。」
と、神楽は頭を隠し大きなお尻をプルプルと震わしている。
「お姉ちゃんなら此処におるぞ。」
と帯を引っ張る。
「此れ、やめるのじゃ。我はおらぬ。」
「相変わらず。神楽殿は照れ屋だな。」
と、男は神楽のもとに歩み寄る。
「ほれほれお姉ちゃんご指名ぞ。」
「我は今岐頭奥義透明の術をつこうておる。」
「そんな術はないぞ。」
「我だけの術じゃ。」
「全く神楽殿は愛らしい娘だ。」
と、神楽をヒョイっと抱き上げ顔を近づけた。
「神楽殿久方ぶりだ。」
「お、応…。久方ぶりじゃ、氷室山宇治(ひむろ やまうじ)殿。」
バツの悪そうな表情で神楽が言った。
「氷室 ? 津国の神ではないか。」
花婆が言う。
「如何にも。皆さんご機嫌用。」
「津国の神がこんな場末の居酒屋に来るとは。」
吉郎が言った。
「いや、お恥ずかしい話。神楽殿に会いたい一心でお邪魔させていただいた。」
「流石は卑国の万人隊長じゃな。わっちも相手して貰いたいもんじゃ。」
「おおー。其れはちょうど良い。今宵は文でどうじゃ ?」
「何を言うておる。儂は神楽殿一筋だ。其れに今日は津国名物草饅頭も持参しておる。」
「何 ! 草饅頭とな。むむむ…。其れは捨てがたいぞ。」
「そうであろう。」
と、氷室は神楽を抱き抱えたまま歩き始める。
「ちょ、ちょっと待つのじゃ。今日は妹も一緒なんじゃ。」
「我の事なら気にせんでええぞ。」
と、香久耶は手を振る。
「な、何ちゅう戯けた妹じゃ。」
「其れ其れ、草饅頭が待っておるぞ。」
「草饅頭 ! そうじゃ、草饅頭じゃ。否、違う、違うぞ。我は今日女の子の日じゃ。」
「何を言うておる。其れは先週じゃ。」
香久耶が言う。
「我は長いんじゃ。」
「ヒャハハ…。お姉ちゃんは照れ屋じゃのぅ。津国の神が相手とは羨ましいぞ。」
「何を言うておる。おおー。そうじゃ。今宵は香久耶でどうじゃ。香久耶は卑国の姫君じゃ。」
「ん…。香久耶殿もおるのか ?」
「さっきからそう言うておるではないか。」
と、神楽が言うと氷室は周りを見やり‘おおー。卑国の姫君ではないか。‘とニコリと笑みを浮かべた。
「久しぶりじゃ。氷室殿。」
「姫君がこのような場所で宴会とは何とも微笑ましい限り。どうじゃ。今宵は儂の息子と添い遂げてみては ?」
「命(みこと)殿か。我もそろそろ子供が欲しいと思うておったんじゃ。」
何とも香久耶らしからぬ発言である。
「本当ですか香久耶殿。儂は嬉しいぞ。」
「我はおぼこじゃ。優しくなされよ。」
更に更に、香久耶らしからぬ発言である。其れもこれも酒の所為である。
「これこれ、香久耶の相手はこの親父ぞ。」
「何を言うておる。」
「其方は痛いから嫌なんじゃ。」
「何を照れておる。」
と、氷室は又スタスタと歩き出す。
「そうじゃ、華咲はどうじゃ。あれは年増じゃが良い仕事をする事で有名じゃ。」
「うむ。華咲も中々良かったが今は其方にぞっこんじゃ。」
「何と…。其方は何をしれっと親子丼を決め込んでおる。」
「? まあ良い、まあ良い。草饅頭が待っておるぞ。」
「そうじゃ、草饅頭じゃ。否、違うぞ。ちょっと待つのじゃ。」
「草饅頭の良い匂いがしておるだろう。」
「おお、そう言われれば確かにーー。」
と、結局神楽は草饅頭を餌に氷室に連れ去られて行った。
「香久耶殿…。我々も行きませぬか。」
「そうじゃな…。」
と、香久耶も又氷室貞重則(ひむろ さだしげのり)と共に店から出て行った。
「最後まで騒がしい娘じゃ。」
「いや、其れよりこれだけ飲んで食ってまだあの娘は草饅頭を食うきか ?」
「ハハハハー。神楽殿らしい。其れより姫君と言っていませんでしたか。」
「言うてたな。」
「わっちも聞いた。」
と、それから暫し店内は神楽の話で大いに盛り上がった。
* * * * * * * * * * * * * * *
さて、夜も深けると火の灯りだけでは何とも心許ない感じに変わる。町中には多くの火が灯されるが其れでも十分に暗い。町の民は家に戻り早々に寝静まる。だからこの時間帯でも起きているのは衛兵ぐらいである。
時間帯にして八時頃、世界は闇に包まれる。日が沈み日が昇るまで人は眠りにつく。そして日が昇り人は動き出す。時間という概念は存在しないが目安というのは存在し人は其れを元に行動するのだ。だから、本来なら神楽もこの時間帯は就寝の時間帯である。だが、今日は一戦交えたのが夜だったので神楽はまだ起きている。
氷室の寝床に敷かれた少し心地の良い敷物の上に横たわり、氷室を大きな胸で包み込み髪を撫でる。本来なら逆なのかもしれないが卑国の女は男を甘やかす。優しく包み込み男を骨抜きにするのである。
「神楽殿は男を甘やかすのが上手い。」
ボソリと氷室が言った。
「我は下手くそじゃ。吼玖利や日梨香の方が上手いぞ。」
何とも面倒臭い表情を浮かべ神楽が言う。
「儂には十分だ。其れより神楽殿は迂駕耶に行かれるのか ?」
「我は行かぬぞ。」
「そうか…。其方が居れば心強いものなんだが。」
「仕方なかろう。我は伊都瀬の護衛じゃ。」
「護衛 ? 其れでは伊都瀬殿も行かれぬと。」
「行くのは榊と吼玖利、其れと日梨香じゃ。」
「水豆菜殿も行かれぬのか。」
「行かぬ。水豆菜は国での公務がある。」
「そうか…。」
そう言って暫し氷室は神楽の胸に顔を埋めギュっと抱きしめた。
不安そして恐怖。言葉に出さずとも伝わってくる苦しさ。大らかに見せてはいるが氷室も怖いのだ。初めての戦。其れも大国を制した秦国が相手なのだ恐怖して当たり前と言えば当たり前の事。各言う神楽も胸中は不安である。神楽も又力一杯氷室を抱きしめる。
「其方は行くのか ?」
神楽が問うた。だが返事がない。
「寝てしもうたか…。」
と、言うや否や氷室はジタバタと暴れ出し力一杯抱きしめる神楽を突き放した。
「は、はあああああああああーーー。はっ、はっ、はあああああああああーー。」
そして何度も激しく息を吸った。
「ち、乳に殺される所だったぞ。」
そう、氷室は神楽の大きな乳に圧迫され息が出来なくなっていたのだ。
「何じゃ其れは ?」
「其方の乳が儂の息を奪って息が…。」
と、必死に説明をするが神楽には意味分からず首を傾げるだけだった。
「ま、まあ良い。」
と、氷室が体を起こす。神楽も又体を起こし今度は乳で窒息しない様に氷室をギュッと抱きしめた。其れから暫く二人は黙ったまま時間だけが過ぎた。やがて氷室がブルッと体を震わし‘ーー来ると思うか‘と問うた。
「何が来るんじゃ ?」
「秦国だ。大神は多くの兵を迂駕耶に集めようとしておられる。何かあったことは確か…。」
「こっちも別子の三子が戻ってきよらん。様子を見に行った三子も帰って来よらん。秦国で何かあった事は確かじゃ。」
「そうか…。」
「其れに秦国の間者がこの国に来ておった。」
「其れは儂も聞いた。我等は殺すべきだと進言したが、叶わなんだ。」
「殺せば即戦じゃ。そうなれば話し合いもクソものうなってしまうであろう。」
「もとより大神は話し合いなど求めておらぬ。微々たる朝責もせぬと強気の構えだ。」
「其れで良い…。我等は奴婢にあらず。争い続けるのみじゃ。」
「其方は強い。儂は恐怖で破裂しそうだ。」
「何を言うておる。我も怖いぞ。怖い…。じゃが怖いからと逃げれば思い残らず願い伝わらずじゃ。」
「思い残らず、願い伝わらず…。何だ其れ。」
「我等の国の言葉じゃ。我思い消えず。我願い途切れず。我朽ち果てようと我魂死せず。いつの日か夜は明けん。命をかけて卑国を守った比美胡の言葉じゃ。我等は今もこの言葉を大切に生きておる。」
「おお、その話なら儂も演劇で見たことがあるぞ。最後に首を跳ねられるやつだな。」
「何を言うておる。あれは嘘じゃ。比美胡は死んでおらん。勇敢に戦い伊波礼毘古を屈服させたんじゃ。」
と、少し怒り口調で神楽が言った。
「そうなのか…。」
「そうじゃ。じゃから卑国は八重国ではないんぞ。」
と、神楽が本気で怒り始めたので氷室はその話は辞めた。
「ま、まぁ、その話は良しとして儂は迂駕耶に行くぞ。」
「何が良しじゃ。我はプンプンぞ。」
「すまん。儂が軽率であった。」
「ふん…。まぁ、分かれば良い。」
何とも扱いにくいと思ったが、その昔、卑国で禁止演目があると言う話を聞いたことがあるのを氷室は思い出した。
確かに、そうあれだ…。
東方遠征の次の話…。
吉備の白兎の話だ。
吉備の白兎とは今氷室が言ったハナ国の比美胡が最後に伊波礼毘古に首を跳ねられる話である。この話は事実と異なるとして卑国の民が大規模な抗議を行ったらしい。其れ以降この演目は卑国では上演出来ないようになったとか…。
と、氷室は神楽をギュッと抱きしめる。
「すまぬ…。其方の国を汚すつもりは無かった。許されよ。」
「もう良いぞ。其れより氷室殿は迂駕耶に行くのか。」
「儂ら国神(くにつかみ)は位が低いからな。行かねば話にならぬ。」
「位など何の役にも立たぬ。侵略され国無くなれば皆奴婢じゃ。」
「そうだな。だが、事実儂らの地位は低いぞ。」
「ふん。戦は位でするものではないぞ。此度の戦で其れを見せつけてやれば良い。」
「そうだな…。」
と、氷室は神楽を押し倒し‘秦国を制する前に今一度其方を制したい‘と言った。
「なぜそうなる ?」
と、言ったところで隣の部屋から悲鳴が響き渡って来る。二人は驚き隣の部屋を見やるが当然壁で塞がれているので中を見ることはできない。
「何があった ?」
氷室が言う。
「香久耶じゃ。」
「香久耶殿 ?」
と、氷室が言った所で又悲鳴が響き渡った。
「ウッッッッッッッッギャアアアアアーーーーー。痛い、痛い、痛いのじゃ。無理じゃ、無理じゃ無理じゃぁぁぁ。」
「な、何事だ ?」
「ふ…。娘が通る道じゃ。」
と、神楽はニンマリと笑みを浮かべる。
「娘が ? おおおーー。香久耶殿はおぼこか。」
「そうじゃ…。まぁ良い。隣はほっといて我等も始めようぞ。」
「お、素直ではないか。」
「暫く会えんからの。」
と、神楽達も又戦を始めた。そして闇が全てを包み込んで行った。
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