パク・クネ退陣キャンドル集会について~ブログ古文書1

コンピューターをチェックしていたら、こんな文書が出てきました。たぶん、ブログ用に書いたのですが、もう一度ここでアップします。少し補足しないといけない部分がありますが、そのままアップします。

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今回のキャンドル集会とパク・グネ政権退陣運動が何であったのかを考えるとき、少なくとも80年代後半の民主化運動からひも解く必要があるでしょう。そして、同時に日本の進歩的な運動の停滞と限界がどこにあるかという問題を、同時に考えなければならないと思います。
今回の運動が進歩勢力(パク・グネ支持派や三K新聞などからみると北に操られた勢力)だけの運動でなかったのは、すでに述べました。また、特定の政治グループに指導された大衆運動でもなく、市民団体の代表などで<状況室>という事務局ができてはいましたが、ここが指導部であったというわけでもありません。とくに、既成政党とは一線を画し、野党の議員や代表がキャンドル集会に参加しても全体集会の中では発言を許可せず、政党からは自立した市民運動であることを貫きました。
この点は日本とちょっと違いがありそうで、どなたか研究者の方、分析してくれませんか? 
記憶だけに頼るので間違っているかもしれませんが、僕としてはこんな風にとらえています。
まず、80年代後半から90年代全般にかけて、韓国社会の民主化が一定のレベルまで進む中で、軍事独裁に対する闘いから他の分野の闘いへと活動領域が広がっていきます。具体的には、労働運動であったり、国会議員を持つ進歩政党の結成であったり、生協運動であったり、女性解放運動であったり、環境運動であった、とにかくいろいろな分野で新しい活動が80年代後半の民主化運動の体験を共通言語として始めるわけです。
日本のばあい、活動家や中心メンバーが大量に生まれた時期は60年代後半からの70年安保や全共闘・全学連の闘いになってしまうので、韓国とは20年近くの違いがあるわけです。僕のかかわっている環境運動も日本側のメンバーは60代から70代が多いのですが、韓国は40代~50代となっているのも、このような背景があるからです。
このような全国的な運動による活動家や中心メンバーの大量排出という時代の違いも大切ですが、ここでは政治グループ(政党)と市民団体との関係に注目したいと思います。
日本の場合、進歩的な運動は社会党と共産党、そしてそれ以外の新左翼と呼ばれた複数の政治集団によって作られたり、あるいは政治的な指導を受けたりという関係が多かったように見られます。とくに進歩的な運動の中で労働組合の持つ力が強く、いい意味でも悪い意味でも労働運動が日本の大衆運動(市民運動ではありませんよ)を代表していたと思います。そして、現在では労働運動も社会的な影響力やメッセージ力はほとんどなくなってしまったと思います。
一方で、環境運動などをみればわかりますが、韓国の環境運動は政治的な主張をはっきりと行い、政府や行政との闘いというのも躊躇しません。(もちろん、政府のいいなりの環境運動もありますが、影響力は小さいです)今回のパク・グネ退陣運動でも中心グループとして活躍しました。
日本の場合、政府の政策に反対することはありますが、例えば戦争法反対の集会に、環境団体がそっくりそのまま参加するということは、ほとんどないと思います。(60年安保の時はあったかもしれませんね)
ですので、韓国の場合は政治的な発言や立場を市民団体が独自に打ち出すという経験と能力を備えていて、さまざまな市民団体と共通行動をとってきた信頼関係と歴史があると思います。
日本の場合は、ようやく一昨年の戦争法案反対の運動から、そんな動きが出てきましたが、韓国の力量やレベルと比べるとまだまだ、という感じですね。
そうそう、ひとつ書き忘れましたが、宗教グループの社会的・政治的発言とか主張というのも、韓国では大きな力を持っています。もちろん、金儲けに忙しい宗教者もいますし、パク・グネ支持派の集会でミサをするプロテスタントの教会もありますが、進歩的な市民や運動とともに歩んできたという韓国の宗教者の影響力もとても大きなものがあります。
次に指導部の問題ですが、日本の場合、政党同士、あるいは政治グループ同士の足の引っ張り合いどころか、暴力での妨害や破壊まで、ときには発生したわけで(僕も大学の時、自治会のオジサン・オニイサンたちにやられまして、おかげで色々勉強させてもらいました^^)これは大変なマイナスですよね。さっき、70年安保のことを書きましたが、政党や政治グループが違うと、70年安保の説明自体が違ってしまうので、困ります。
このように、日本の場合は、活動家や中心メンバー同士でも、大きな溝というか壁があって、共同行動をするための信頼関係を作るのに失敗し続けてきたような気がします。(もちろん、一生懸命やっている人たちがいるのはわかりますが、韓国と比較すると、成功したとは思えません)
韓国でも、議員がいる既存政党と議員がいない政党(というより政治グループですね)の間に、いろいろな対立があったり、学生運動の中で統一が先か、反米独立が先かというような対立があり、一時期はかなり厳しい状況だったようですが、そういう対立を飲み込んでしまうエネルギーが運動の中にあったと思います。今回のキャンドル集会の中でも、最初の1、2回は、直接行動至上主義のような人たちが警察バスの上に乗って扇動していたようですが、多くの市民の参加によって、不発におわったと聞いています。
というわけで、考えがまとまっていませんが、メモも同然ですが、皆さんのお考えを教えてください。


高麗大学の大学院に入学した1990年頃は、実はプチ韓国ブームで留学した日本人もかなりの数で、高麗大学大学院だけで20人近く日本出身者(日本人と在日)がいました。当時は、韓国の学生運動も学生自治会の連合体中心に行われ、新学期や自治会連合の結成大会等のときは必ずといっていいほど、警官との衝突があり、学生運動の幹部は国家保安法などで指名手配されていました。
だからと言って、一般の学生から自治会の活動家たちが浮いているという感じでもありませんでした。学生の先進的な役割が社会的に認められ、また民族の独立や民主主義や自由を求めて闘った歴史的伝統を受け継ぐという自覚があったと思います。
入学当時は学科事務室と自治会の学生達の溜まり場が同じ部屋だったのでとても驚いたことがあります。
また、大学の近くには学生運動関連の本屋があり、非合法の社会科学関連の本がたくさんありました。大月から新日本出版、三一書房や亜紀書房など色々な傾向の本がキチンと韓国語に翻訳されて堂々と売っていました。
当時は、共産主義や社会主義、そして北朝鮮に関連する書籍は制限されていましたが、大学の中は別世界でした。実際、大学院で韓国文学史の授業では、担当教授が海外の学会で手に入れた北朝鮮のテキストを丸々コピーして使ったことがありました。
当時は迷惑がかかるといけないので、バリバリの活動家の近くには行きませんでしたが、学部のときは活動していたとか、友人に活動家がいるとかで、雰囲気はよく分かりました。
一方で、労働運動もかなり過激な闘いをしていましたが、ソウルにいると別世界の出来事で、ゼネストだというと韓国全土がマヒしてしまうような印象を受けますが、そんなことはありませんでした。もちろんインチョンやチャンウオン、ウルサンなど組合の力が強い地域は、必ずしも、そうではないでしょうが。
今から思うと学生運動も労働運動も同じですが、専従活動家や中心メンバーと普通の学生や労働者との間には、ほんの少しですがすき間があり、なかなかそのすき間を埋めるこができなかったと思います。
そのすき間を警察とのぶつかり合いの中で、具体的には警察バスを乗り越えることで、埋めようしたのではないかと感じます。
90年代、いや2~3年ほど前まで越えられなかった警察バスを、今回はバスをどかせ青瓦台まで行ったのですから、大きな変化だと思います。

キャンドル集会を主催した"退陣運動"が、1億ウオンの赤字を抱え、特別カンパを要請したところ、なんと約21000名から8億8千万ウオンが集まったそうです。
やはり、キャンドル集会の動員力や集金力には、ものすごいものがありますね。前回の文章で、いわゆる"運動圏"と無所属市民が、有機的に一つになったことを述べましたが、もうひとつ忘れてはならないことがあります。
それは、今回の運動が進歩と保守、あるいは左と右の対立ではなかったという点で、これは憲法裁判所の判決文にも出てきましたね。
ですので、ラジカルな労働組合が運動の中心という訳でもありませんし、ましてや北の指導によって起きた運動でもありません。ただ一点、パクグネを退陣させようという要求で集まった訳ですが、この要求の背景、根拠の一つが憲法第一条であり、直接民主主義の実践なのだと思います。パクグネとチェスンシルによって国民に主権がある民主共和国という憲法第一条の約束が破られているので、国会議員だけに任せるのではない直接民主主義の行動、すなわちキャンドル集会に参加したり、国会議員の携帯電話に万単位でメッセージを送り、文化体育観光部の職員は特別検察に情報を提供し、国税庁の退職幹部は野党の国会議員と一緒にチェスンシルの秘密財産を探しにドイツまで行っているわけです。
3ヵ月の間、常に80%前後が大統領の退陣を要求するという国民全体の闘いになったからこそ、実現したと思います。
もちろん、長年の民主化闘争も大きな影響を与えているとおもいますが、それについては次回に考えてみます(3/17)

最後に、今回の韓国でのパクグネ退陣運動で気がついたことをメモします。
まず、運動の主体側のことですが、昨年11月9日に"パクグネ政権退陣国民緊急行動"が1500余りの市民団体や労働組合、政治グループなどによって結成されます。
新聞で報道されているだけでも、参与連帯、環境運動連合、民主化のための弁護士会、民主労組、宗教団体などが参加していますが、いわゆる"運動圏"の団体だけでなく幅広い団体が参加して、最終的には2500団体まで拡大したそうです。
また、毎週土曜日のキャンドル集会には、個人や家族、友人同士といった参加も目立ち、どの時期からか確認しなければなりませんが、こういった"無所属市民"の参加が中心になっていったそうです。(主催側として活動していた環境運動連合の専従スタッフの話から)
そして、このような非運動圏の"無所属市民"から、運動の進め方や改善点などについて、様々な提案やアイデアの提供があったそうです。
僕がすごいなと思ったところは、これらの提案やアイデアをキチンと受け入れ、共有したり具体的なアクションに繋げていった調整能力や柔軟性の高さです。これは特定の個人の能力でなく、また昨日今日生まれたものでもないと思います。民主主義と社会正義のための長く幅広い闘いの中で培われたものじゃないかなと推測しています。
退陣運動のホームページを見ると、執行部(状況室)から毎日のようにアピールや訴えがアップされ、また会員からも提案やアイデア提供があったのが分かります。
このアピールも参加団体の中で合意をとるためのプロセスや調整がとても大変なのは、市民運動などに参加したことのある人なら、よく分かると思いますが、2000以上の団体が参加したなかで、どのようにやっていたのか気になります。今度、機会があったら聞いてみましょう。
では、次回をお楽しみに(笑)  (3/15)

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