『ミッドサマー』考察のようなもの
こんにちは。通りすがりの神話オタクです。
ちょう話題作『ミッドサマー』を見た時に、感じたこと・考えたことをちょっと書いてみました。
※あくまで一神話オタクによる見解ですので、あまり本気にならずにご覧ください。また、主にホルガ村の設定・教義に関する考察であり、ルーンや伏線・キャラの感情などに関する考察はないです。
※グロ・ウツ要素はないです。
率直な感想
見終わってまず思ったこと、それは「こういう伝統の村だと思いたいけど、カルト集団なんだろうなぁこれ」でした。
というのも、ホルガ村の設定がなんだか杜撰なのです。
こう書くと語弊がありそうなのですが、映画の設定が杜撰だと言いたいわけではありません。あくまで「ホルガ村の設定」が杜撰だ、と感じたのです。
以下にその根拠を挙げます。
【具体的にどの辺が90年に一度の大祝祭?】
ダニーたちを村に迎え入れる際に村の人が「90年に一度の大祝祭よ」と言うのですが、具体的にどこが普段の祝祭と違うのでしょうか。
メイクイーンを選ぶのがそうだとしたら歴代メイクイーンがカラー写真を含む写真で並んでいるのはおかしいですし、アッテストゥパンで老人が飛び降りるのは72歳の人物が出るたび行われる儀式だと住人が言っているので、やはり90年に一度ではありません。9人の生贄をささげるのも、アッテストゥパンで死んだ2人が生贄に計上されているので、90年に一度と考えるのはちょっと考えにくい。夜中の生贄劇に対する住人の反応もこなれた感じがします。
映画内で描写されるすべての儀式が、「毎度恒例」感が強いのです。
【普遍的なルーンてお前】
ジョシュがペレに対して「(石板に彫られているのは)古代ルーンか、新しい方か」と聞くのですが、ペレはちょと考えた後で「北欧一帯に広く伝わっている普遍的なルーンだ」と答えます。
いや・・・年代を聞いているのにその返しはおかしい。ごまかすの下手か。金田一少年の事件簿なら犯人にされてるぞお前。
おそらくこの問いに対する最適解は「俺にとってはこれが普通のルーンだから、ちょっとわかんないな」といったところでしょう。「普遍的なルーン」というのはずいぶんと俯瞰的といいますか、ヨソモノ的な視点の言い方に感じられます。
【近親相姦はアリなの?ナシなの?】
クリスチャンが村の人に「近親相姦問題はどうしてるのか」と聞くと、住人は「近親相姦にならないように工夫している」と答えました。これはのちにクリスチャンのタネをマヤに与えさせた(婉曲表現)ことや、ダニーを女王として迎え入れたことを指すのでしょうが、一方でジョシュには「近親相姦でルビ・ラダーを書く人(障碍者)が生まれるようにしてる」と伝えています。
言っていることが決定的に矛盾しています。
【こいつら戸籍はどうなってんの?】
後述しますが、どうやらホルガ村では結婚はしないようです。そうなるとすべての新生児は非嫡出子となります。そしてそれよりも問題なのは死ぬ時です。生きて72歳になったら崖から飛び降り自殺をさせ、即死できなかった人は杵で頭をカチ割ります。その後死体は村で焼き、灰は木にかけます。
スウェーデンというか、原始的な生活をする民族を擁する国ではなにか特別法があるのかもしれませんが、これだけで自殺幇助・あるいは殺人、死体遺棄などの犯罪になります。生まれ方も死に方もちょっと公にはしづらいところですが、ペレは飛行機に乗ってアメリカ留学及び出入国をしているので、どうやらちゃんとした戸籍とパスポートを持っているようです。これはペレが後天的にホルガ村と言うコミューンに加入したか、ホルガ村の人々が「ホルガの大いなる輪」の中で生活するのとはまた別に、世俗での戸籍や学歴を取得している、といったところでしょうか。
何度か見ればもっといろいろ見つかるかもしれませんが、ちょっと自分にはその精神的余裕がないのでやめておきます(笑)
また、全体的に見てもホルガ村の設定は「いろんな伝承寄せ集め」感が強いです。これはほんとうに私が北欧の伝統的な祭りや儀式に関する知識皆無なので、言いがかりになってたら申し訳ないです(と予防線を張っておく)
というわけで、ホルガ村の「設定」をちょっと考えてみましょう。
ホルガ村の「設定」
【ユミルを始祖と呼ぶ集団】
村についてすぐ、住人が「始祖ユミル」という言葉を口にします。いきなり『進撃の巨人』の話?と思ったことは置いといてユミルがどんな神かをザックリ言うと、北欧の原始的な神(巨人)で、巨人族の王でしたが、オーディンらに倒されました。その後オーディンらはユミルの体や血から川や大地をつくったそうです。
たしかに「始祖」と呼ぶにふさわしい神ですが、北欧神話で神と言えばやはりオーディンとその一派(トールなど)でしょう。オーディンの名は出さず、真っ先にそのオーディンに倒されたユミルの名前を出すのはちょっと不思議な気がします。
さて突然ですが、こんにちまで伝えらえれてきた神話伝承は、歴史上の出来事のメタファーであるという考えがあります。例えば日本神話ならば、「オオクニヌシが海上に降臨したアマテラスオオミカミの孫(天孫)ニニギに国を譲った」と言うとやや荒唐無稽ですが、「オオクニヌシという王が海から上陸したヨソモノ(渡来人?)のニニギに王位を譲った」と言うと、そういう歴史的事実がありそう、となります。特に神Aが神Bを倒したという内容の場合には、A部族がB部族を倒したという歴史のメタファーである可能性が高そうです。
それを念頭に置いたうえでユミルの神話を改めて考えると、
巨人崇拝する一族(巨人派)がおり、王ユミルがその一族を治めていた。しかしオーディン派の一族に王は倒された。一族はオーディン派の奴隷にされ、治水や開墾の作業へと駆り出された。
・・・こんなふうに読み取ることができないでしょうか。とりあえずいったんそういうことにしてください(笑)
そしてホルガの人々とはおそらく、その時にオーディン派から逃れて森に潜み住んだ巨人派の人々なのではないでしょうか。つまり桃花源の人々です。桃花源記に書かれた秦の遺民のように、あるいは平家の落人のように、時の権力者から身を隠した敗北者たちだったのです。
・・・みなさまのアツい「な、なんだってー!!」をお待ちしています。
【2羽のカラスと陽が沈まぬ日】
ホルガの人々がオーディン派から逃れ、身を隠した巨人派の人々だったとすると、一つ大きな意味を持ちそうなものがあります。(ほぼ)冒頭で表示される絵の左側にいる、2羽の黒い鳥です。個人的には羽の感じからツバメに見えるのですが、北欧で2羽の黒い鳥というとやはりカラスでしょう。すでに多くの方が指摘している通り、オーディンが飼っている2羽のカラス、フギンとムニンと思われます。それぞれ「思考」と「記憶」を意味する2羽のカラスは、日々オーディンのために世界で起こっている様々な情報を収集し、オーディンに報告しています。
さて、そのうえで『ミッドサマー』冒頭の絵をもう一度見ていただきたいのですが、この絵ちょっと変なのです。ムギンとフニンが飛んでいるのはどうやら夜。右側は太陽が描かれていることから、左端に描かれているいかにも不吉で3日後に落ちてきそうなドクロは月でしょう。その付近は青っぽく塗られていることからも、2羽のカラスがいる領域は夜だとわかります。
カラスは昼行性です。夜は森や山などのねぐらに帰って眠る生き物です。月が支配する夜に天高く飛び回っているのは少しおかしいのです。
しかしこのことをホルガ村の設定を前提にして歴史のメタファーとしてみると、こんな感じの想像ができます。
オーディンは隠密部隊ともいえるフギン隊・ムニン隊を擁している。オーディンは彼らを使って情報収集を行い、戦や統治に利用してきた。そして彼らは夜になると黒い衣装に身を包み、闇に紛れて森の中で敵対勢力の残党狩りを行う。
こんな歴史背景があったなら、死を思わせる月光のもと、黒い姿のカラスが不吉に飛び回る絵のイメージにピッタリと重なる気がしませんか。ホルガの人々にとって、夜の闇とは不吉なものなのです。
そして、だからこそ陽の沈まぬ夏至には陽光の加護と恵みに感謝し、生贄を捧げて祝祭を行うのです。ホルガ村の入り口には日輪を思わせるゲートがあります。明るい陽光は自分たちの姿も敵に見せてしまいますが、敵の姿をもあぶりだします。ただでさえ薄暗い森の中、われらコミューン一心同体と身を固めつつも、闇夜から突如踊り出る襲撃者におびえる日々。そんな中で陽光がどれほど彼らの心を救ったか、想像に難くありません。
ダニーは「夜なのに明るすぎる」と不気味がっていましたが、ホルガの人々にとっては夏至を中心とした陽の沈まぬ日こそが、枕を高くして眠れる祝いの日なのです。
【人々は転生する】
洋の東西を問わず「生まれ変わり」と言う概念が浸透しているので気づきにくいですが、宗教的な教義として「生まれ変わり」を謳っているものは、実は珍しいです。たいていは死後の世界に行ってそれっきりか終末を待ちます。転生すると定義されている宗教を私は仏教しか知りませんし、仏教でも(輪廻)転生の道から解脱すれば、それ以上は生き返ることはありません。
しかしホルガ村では「ホルガの大いなる輪」の中で死んだ者は、再びホルガ村に産まれてくるという思想を持っています。これは完全に思想・教義として「転生」が採用されているということです。
【「9」へのこだわり】
ホルガ村で夏至の祝祭では9人の生贄が捧げられます。それ以外にも90年に一度、9日間、9人の生贄といったように「9」にこだわっているようです。とっさに思いついたのは「北欧神話に於いて、世界の数が9つであること」です。また9日間続くことに関してはオーディンが9日間自らを縛り生贄になったことを指摘している方がいらっしゃいました。
個人的にはさらに、「9」と言う数字が、中国哲学上最強の陽数であることを指摘したいと思います。詳しいことはややこしくなるので省きますが、陰陽の「陽」のなかでも最も強い数字です。九月九日(旧暦なので今の感覚だと8月ですね)は重陽の節句と呼ばれ、最も陽の気が高まる日とされ、夏至と通ずるものがあります。陽の気が高まりすぎて体調を崩す(8月の猛暑による体調不良のことでしょう)ので、菊酒を飲んだりする日です。
【愛って・・・なんだろう】
一行は村に入ってすぐぐらいに、とある絵を見ることになります。女性が陰毛を切り、飲み物に何かを入れる(絵では尿なのか経血なのかよくわかりませんでしたが、後述の理由で経血ではないような気がします)、その飲み物を飲んだ男性は目がぐるんぐるんになって女性といちゃいちゃする、というものです。
興味深いことにこの絵を見て村の女性は「ラブストーリーよ」と言いました。若い女性の陰毛(等)入りジュースを気持ち悪いと思うかご褒美と思うかは人によると思いますが、それはさておきこいつはラブストーリー、愛の物語なのです。
はたしてホルガ村の人々にとって「愛」とは何なのでしょうか。おそらく「ホルガの大いなる輪」を保ち続けることでしょう。
ホルガの人々はホルガ村とホルガの人々のことを「コミューン」と呼びます。コミューンはおそらくフランス語のcommuneで、いろいろと意味はありますが、この場合は共同体のことでしょう。以下、ウィキペディアの「コミューン」より引用。
コミューンは、小規模な共同社会を意味することもあり、1970年代のベトナム反戦運動や公民権運動の時代には、新しい価値観、生き方を模索して、こうした共同生活を営むものもアメリカでは少なくなかった。しばしば、マンソン・ファミリーや人民寺院のような宗教的な小教団のかたちを採ったり、語源の共通性から想像できるように共産主義的意味合いを持つことがあった(引用ココマデ)
くだんの絵には、男性の意志が存在しません。女性が自分のあれこれを入れたジュースを飲ませ、男性に正気を失わせてタネを得(婉曲表現)ています。この「ラブストーリー」に(一般にいうところの)恋愛や結婚はどうやら存在しません。個々の結びつきは邪道であり、「ホルガの大いなる輪」という全体の存続のために男女性と性交は存在するのです。
作中で実際にクリスチャンとメイク・ラブ()したマヤの場合はどうでしょうか。クリスチャンのベッドの下に恋のルーンをしこみ、謎の飲み物を飲ませ、積極的にクリスチャンにアプローチします。そしてとうとうシュールすぎて〇けないAVのような性交を行い、フィニッシュ後「赤ちゃんきてるゥ!」とエロ同人みたいな台詞を吐きます・・・が、その後クリスチャンに対する執着は特に見せていないようです。最後の生贄を選ぶ場でも、燃やされる場でも物申す様子がありませんでしたから。
愛、すなわち「ホルガの大いなる輪」というサークル・オブ・ライフの前に、自分が腹に宿した子の父親の行く末など些末な事なのでしょう。
(余談)ちょっと色が濃いジュースに女性が股から入れているものについてですが、個人的には経血ではなく尿なのではないかと思っています。というのも、このジュースで男を惑わせ性交するのは子を孕むのが目的(たぶん)なのですから、経血生搾りできる=生理中では意味がないのです。
【絶やさず燃やし続ける聖なる火】
ホルガ村には一日として絶やさず燃やし続けている聖なる火があります。崖から飛び降りた老人2人がこの焚火で燃やされるシーンもありました。
北欧の夏至祭では確かに焚火をたくようです。フィンランド出身かどうかで物議をかもしたムーミンも夏至祭の焚火をたいていました。しかしそれは一年中たき続けるというものではありません。聖なる火を絶やさないという思想はむしろ拝火教ことゾロアスター教に近いです。
ここで言及したいのは北欧神話のロキのことです。ロキはオーディンやトールと共に語られることが多いですが、出自は巨人族のうえ、ラグナロク(神々の黄昏)の際に子供たちと謀反をおこし、オーディンら主要な神々を死に追いやります。巨人を信仰する一族にとってこれほど尊い神はいないでしょう。
そしてこのロキ、炎の化身という説があります。オペラ『ニーベルングの指環』ではこの炎の化身説がとられているらしく、その炎は乙女の純潔(無事)を守り、あるいは勇者とその妻の死骸を焼き、あるいは――オーディンの居城ヴァルハラと神々を焼きます。
重要なポジションにあるにもかかわらずあまり由来が語られなかったこの炎ですが、いつかオーディン派を焼き払うためのロキの炎なのではないでしょうか。
【クマー】
序盤に檻の中のクマが出てきます。映画を見た方ならご存知の通り、このクマはラストに中身をくりぬかれ、オクスリでぼんやりしたクリスチャンを詰められ、最終的に燃やされます。それまではちゃんと檻の中で、やせ細らせることもなく飼育されていました。これはアイヌのイオマンテ(クマ送り・クマ祭り)に似ています。公開当時はツイッターでよく「最終的に金カムだった」という感想を見ました(笑)
が、イオマンテと違う部分は、住人が「ただのクマよ」と冷めた言い方をすることと、くりぬく際に「クマは暴虐の象徴」というようなことを言いながら、サクサクと無感動と言いますか、作業感ある空気で解体することです。
イオマンテはカムイ(神)を神々の世界に送り返すという儀式であり、「その時」までは敬意と畏れをもって食料をしっかりと与え、大切に育てます。それと比べると、カムイとして敬意を払う様子も、暴虐な生き物としておそれる様子もないのです。そもそもこのクマは9人の生贄の中にカウントされていません。ということは、クマの毛皮を着た生贄がいることが重要なのかもしれません。
クマの毛皮を着た何か、を探してみると、ありましたありました。ベルセルクです。
ベルセルク、或いは狂戦士は神話に於いてはオーディンの神通力を与えられた戦士のことです。語源は一説によれば「クマの毛で作った上着を着たもの」で、その名の通りクマの毛皮を着ていました(オオカミ・イノシシの毛皮を着ていることもあったそうです)
これを前述の「歴史のメタファー」と考えるならば、オーディン派の戦士にはクマの毛皮を着た、とびきり暴虐な兵がいた、ということでしょう。実際ヴァイキングなどにはマホウのキノコを食べて正気を捨てて戦う戦士がいたそうです。
そして古代に於いて、敵の捕虜を生贄や魔除けにしたということはよくあることでした。9人の生贄のうち1人をクマの毛皮で包むというのは、そういうことなのではないでしょうか。
【メイクイーンは何者?】
物語終盤でダニーはダンスコンテストのようなものに参加します。ミッドサマーポールの周りを少女たちがぐるぐる回りながら激しめのダンスを続け、最後まで立っていた1人が「メイクイーン」、女王となります。そして最後の生贄を選ぶのです。
映画を見る前にこの情報を聞いたとき、私は「『春の祭典』の真逆だな」と思いました。『春の祭典』とはストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けの狂人×狂人で 100%狂気みたいな・・・もとい、前衛的なバレエです。
このバレエの終盤では、やはり少女たちが輪になって激しめのダンスを踊ります。そして初めに3回つまづいた少女は生贄にされ、死ぬまで踊り続けさせられます。そういったわけで最後まで残っていた人が生贄の決定権を得る『ミッドサマー』は逆だ、と思ったのです。
さて、『ミッドサマー』の夏至祭に於いて重要なポジションを占める(たぶん)「メイクイーン」ですが、いったいどのような存在なのでしょうか。調べたところローマ神話の豊穣の女神マイアを祀るための祭りのようなのですが、日本ではローマ神話もメーデーも一般的ではないためか今一つ情報がありませんでした。一番詳細なのはジャガイモ(メークイン)の品種説明のページでした(笑)
というわけで、少しそのページから抜粋します。
春に芽を出した植物たちが夏へと向けて急速に成長していくことになるこの季節に、大地の実りを願って行われるお祭りであった(中略)
メイ・クイーン(May Queen)といった呼び名で呼ばれる少女たちが、前述したような白いドレスと花冠をつけるといった疑似的な花嫁の姿に扮して町の中を練り歩いき(原文ママ)
こうしたメイクイーンと呼ばれる少女たちが手に持つカゴの中に、町の人々が野菜や果物といった贈り物を投げ入れて、少女たちはそのお礼に訪れた家々を祝福していくことによって、春の訪れと夏の豊穣を祝していたと考えられる(中略)
ローマ神話において大地の実りを司る豊穣の女神として位置づけられていたマイア (Maia) に対して町の人々から供物が捧げられることによって、こうした春の訪れと夏の豊穣を祝う五月の祭典が営まれていた(中略)
(ソース) https://information-station.xyz/15582.html
こうしてみると『ミッドサマー」におけるメイクイーンと元来のメイクイーンにかなりの相違があることがわかります。
・夏至ではなく、夏に向かう途中であるところの春(名前の通り5月)に行われた。
・メイクイーンは一人に絞るわけではない。
・供物は野菜や果物であって、殺した人間ではない。
・マイアという豊穣の女神を祀る祭りである(祀る対象が明確)
おそらくこの祭りのもっと原始的な姿を残しているのが『春の祭典」なのでしょう。マイア(メイ)は豊穣の女神なのですから、野菜や果物なんて自分でいくらでも生み出すことができます。時代が下るにつれ供物が穏当なものになっていったのでしょう。
もっともそれを差し引いても違いが大きいため、「メイクイーン」の名を残している点がホルガ村の設定の杜撰さの一要素と言えるのですが・・・そこはちょっと置いておいて、ホルガ村における「メイクイーン」とは何の女王なのか、ちょっと考えてみましょう。
これは私見なのですが、ユーラシア大陸に広がる神話は、そのほとんどが最古の文明メソポタミア文明の神話の派生だと思っています。例えばウトナピシュテムの洪水の話に類似するものが、西はノアの箱舟、東は女媧の人間を作る話と天の修復をした話に見えるように、洋の東西に似た神と神話があるのです(集合的無意識の話を出すと収拾がつかなくなるのでこの場では置いといてください)
メソポタミアから人の移動とともに神話も移動し、各地に少しずつ姿を変えながら定着していったのではないかと考えています。
その中でも最も影響力が大きかった神はイシュタル(イナンナ)だと思っています。FGO でちょっと脚光を浴びた感のあるこの女神は、戦(勝利)・豊穣・性愛と、為政者にもパンピーにとっても重要なものをつかさどる女神でした。それが時にはデメテルとアフロディテのように分裂し、時にはアスタロトのような異教の悪魔にされつつ各地で重要視されました。
そう考えると、オーディン派に敗北する前の巨人信仰を残すホルガ村が信仰するモノを、各地に残る原始的な神々から推察することができるかもしれません。
というわけで、結論から先に申し上げましょう。
ホルガ村で信仰されているのは女王ヘルであり、メイクイーンはそのヘルを模した巫女的な存在である。
・・・北欧神話に詳しい方はたぶん今、「そんな馬鹿な」と思われているかと思います。
これから以下にその根拠となる神々を列挙し、そのうえでホルガ村にて信奉されているモノを推測する、という形にいたします。だって系統立てて説明するのはめんど・・・いや、なんでもないです。というか、それをやろうとしたら普通にジョシュの論文レベルになってしまいそうですから。
読むほうも結構退屈というか、生粋の神話オタクじゃないと混乱しそうですので、面倒な方は<結論:ホルガ村の守護神>だけご覧ください。
なお、諸説あったり類似の神がいたりするのですが、いろいろ果てしなくなってしまうのでホルガ村の守護神=女王ヘルの論拠として重要な神だけピックアップします。
<メソポタミア>
「イシュタルとエレシュキガル」
イシュタルは前述のとおり豊穣や性愛の女神。
エレシュキガルはイシュタルの姉で冥界の女王。体半分は腐敗して緑色の姿。人間を病死させることができる。
あるときイシュタルはエレシュキガルに会いに行こうと思い立つ(理由は諸説あり)が、エレシュキガルはイシュタルを冥界に閉じ込め病死させてしまう。豊穣の女神が地下に閉じ込められてしまったために地上では作物や生き物が生まれなくなる。なんやかやでイシュタルは解放される。半年ごとに冥界にもどらなければならないので冬は不毛の季節になるという説もあり(イシュタルの黄泉下り)
<ギリシア(ローマ) >
「デメテルとペルセポネ」
デメテルは豊穣の女神。ペルセポネはデメテルの娘で種の化身。
あるとき冥界の王ハデスがペルセポネを嫁にしようと連れ去ってしまい、デメテルが悲しんだために植物が育たなくなった。なんやかやでペルセポネを地上に戻すことになったが、その際ペルセポネは冥界のザクロを4分の1食べてしまったため、年の4分の1は冥界で過ごさなければならなくなった。そのため年の4分の1である冬は不毛の季節となる。
そして冬が終わるとペルセポネ(種)が地上に出て(芽吹いて)緑豊かな春になる。
<エジプト>
「オシリス」
もとは地上の王として君臨したが、弟セトに殺害され、それ以降は冥界の王となる。緑の姿をしている。腐敗したためとも、もともと植物を神格化した神だったからという説もある。
「ホルス」
オシリスと豊穣の女神(?) イシスの息子。太陽神ラーの息子説もある。オシリス死後王位に君臨していたセトを倒し、新たな王となる。
ハルと呼ばれることもあるがヒエログリフは母音を省くため実は正確な発音は定かではない。ホルとかヘルに近い発音かもしれない。
<ジパング>
「イザナギとイザナミ」
日本神話でいちばんはじめの神。夫イザナギと妻イザナミは国と神々を次々に産む。しかしあるときイザナミは死んでしまう。イザナギは妻の死を受け入れられずに冥界へと向かい取り戻そうとするが、約束を破ってイザナミの姿を見てしまう。腐敗し(色が緑かは不明)蛆が沸いたイザナミを見たイザナギは心変わりしてイザナミを冥界に置いていく。イザナミはそれを恨んで「1日に千人を殺す」と言う。その後冥界の女主となる。
(余談)このイザナギの黄泉下りと、ギリシア神話オルフェウスの黄泉下りはよくイシュタルの黄泉下りとの相似性を指摘されるが、兄弟がふとおねえちゃんに会いたくなったのでアポなしで訪問しすったもんだという内容は、むしろスサノオがアマテラスを訪ねた時のエピソードに近いような気がする。
以上を踏まえたうえで北欧神話を見てみましょう。
<北欧神話>
「アース神族」
オーディンを中心とする北欧神話で最もポピュラーな神々。
「ヴァン神族」
アース神族との戦いに敗れ、フレイ・フレイヤ兄妹を人質としてアース神族に差し出す。
巨人族という説があるがはっきりしない。フレイは豊穣の神で妖精たちの王。フレイヤは生と死、愛情と戦い、豊穣をつかさどる女神。
「巨人族」
オーディンらに倒されたユミルや、ヨトゥンヘルムの一族。
ロキは巨人族の出身だがオーディンと義兄弟の契りを結んでおり、アース神族に近い。
またロキにはオオカミのフェンリル(ラグナロクでオーディンを殺す)、世界と同じ大きさの大蛇ヨルムンガルド(別名ミドガルズオルム)、冥界の女王ヘルがいる。
そう、私が「ホルガを守護するモノ」と結論付けた女王ヘルとは、ロキの娘にして「冥界の女王」ヘルのことなのです。
なんでそんなもんを主神がごとく信仰するんだと思われるでしょうが、上記の北欧神話を歴史のメタファーめがねを通すとこんな事情を邪推・・・もとい推察することができます。
もともと北欧付近には始祖ユミルを信奉する巨人派が住んでいたが、アース神族を信奉するオーディン派に侵略された。ヴァン派はもともと巨人派であったがオーディン派の支配・影響をモロにうけ、重要な神であるフレイ・フレイヤはヴァン神族出身アース神族のような扱いを受けることになった。ほかの巨人神についてはもっと悲惨である。かつて地上の王であったオシリスや、国と神々の母であるイザナミのように、重要な役割と地位を持っていた女王ヘルの威光は冥界に封じ込まれた。
つまりホルガ村で信仰されている女王ヘルは、オーディン派の侵略を受ける前の、原始的で重要な、女王と呼ぶにふさわしい神だったのではないでしょうか。さあ、いよいよまとめに入ります。各地の神々からも「設定」をもらいながら、ホルガ村の守護神とメイクイーンについてそれっぽく捏造してみましょう。
<結論:ホルガ村の守護神>
ホルガ村の守護神は冥界の女王ヘル。体に緑をまとい、あらゆる生き物の死生を支配する。「ホルガ」という村の名はヘルの古い発音(ホルやハル)にちなむ。
死んだ人を焼いて聖なる木にふりかけると、その魂は幹から根へと通って根の国へゆく。魂は種となってしばしヘルが支配する冥界の住人となるが、ふたたび地上に生まれ落ちる。これぞ「ホルガの大いなる輪」である。
ヘルは豊穣の女神でもある。さまざまな植物はヘルの力によって地上に芽吹き、実りをもたらす。
陽光が忌々しい闇夜を退け、緑の生命力がきわまる夏至の日は、ヘルの力が最も強まる日である。ヘルのみめぐみに奉仕と感謝を捧げよ。うら若き乙女を神々の花嫁とし、花冠で飾れ。そしてその中から女王「メイクイーン」をたてよ。
女王が望む生贄を捧げよ。人数は9人。村の内外どちらの人間でもよいが「ホルガの大いなる輪」を乱すものがあれば積極的に屠れ。うち1人はクマの毛皮を着たオーディンの尖兵を捧げよ。ヘルの大いなる力により、彼らは善良なホルガの民として生まれ変わるだろう。
笛を吹け。鼓を打て。ポールを囲み、ルーンを掲げ、大いなる輪を作って踊れ。ヘルのみめぐみを存分に享受せよ。
年にいちどの、祝祭の日に。
・・・どうでしょう。だいぶ創作色強くしましたが、けっこうしっくりくるのではないでしょうか。
ただし前述のとおり、これはあくまでホルガ村という「カルト集団の設定」という設定です(ややこしい)
なるほどぉ、ホルガ村と生贄の儀式の背景にはそんな思想が!とあんまり深く納得してしまうと、「ホルガの大いなる輪」入り一歩手前になりますのでご注意ください。この考察はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません。
【共鳴する人々】
カウンセリングなどのテクニックとして「まず共感する」というものがあります。君はつらかったんだね、わかるよと共感・理解の姿勢を見せることによって相手の信頼を得るのです。この人はわかってくれてる!と相手が心を開いてから、アドバイスや説教――あるいは勧誘に入るのです。実際カルトにはまったことがあるらしい方が『ミッドサマー』を見て「すごくリアルなカルト勧誘だった」とこぼしていらっしゃいました。
しかし、ホルガの人々の共感の仕方はちょっと変わっています。
ペレがダニーに「俺も両親を失ったからわかる」となだめたのは例外ですが、基本的にホルガの人々の共感は「共鳴」なのです。
アッテストゥパンで即死できなかったじいちゃんが呻いたとき、クリスチャンとマーヤのアレ、ソレを見てしまったダニーの号泣、燃やされる生贄の絶叫・・・ホルガの人々はその人と同じようにアーアー、オゥオゥと声を限りに「共鳴」します。
これはおそらくなのですが、オオカミやイヌのハウリングを模しているのではないでしょうか。
北欧神話でオオカミと言えば、何と言ってもフェンリルです。巨人族ロキの息子にして、オーディンを喰らう巨大なオオカミです。さらに冥界の王にはイヌ科の守り神がつきものでして、ヘルにはガルムという番犬(オオカミ犬らしい?)が、ギリシア神話にはケルベロスがいます。またエジプト神話のアヌビスはイヌかジャッカルの頭をしています。野犬などが墓場をうろついていることが多いため、犬は死者の世界の守り神と考えられたことに由来するそうです。
冥界の女王ヘルを信奉する人たちが、彼女を守るオオカミ・イヌの生態を模して行動しているとしても、不思議ではないのではないでしょうか。群れを成し、森に潜み、それぞれ役割を持ち、助け合う。リーダーがグラスをとればみなグラスを取り、悲しむものがいれば共鳴する――
これが、ホルガ村のスタイルなのでしょう。
さいごに 大いなる輪に強制参加させられた人たち
9人の生贄のうち、半分は外部の人間を生贄にするというしきたりについて。これは「ホルガの大いなる輪」を拡大するための設定のように思います。
前述の通り、ホルガ村で死んだ人はホルガ村に転生してくるわけですが、逆に言えば死んだ数以上生まれるとこの設定が破綻してしまうのです。例えばRPGとかでHP上限が100で、攻撃をくらって10減った場合、30回復するポーションを使っても回復できるのは10だけです。同様に、最大値を超えて産まれてこさせることはできないのです。
そこで外部の人間4人、ないしは5人を「ホルガの大いなる輪」への生贄にすることによって、ホルガ村の人口の最大値を増やすことができるようにしたのでしょう。
今回の祝祭で外部の生け贄にされた人々には共通点があります。それは「このコミューンに自ら納得ずくで入ってはくれないであろう人たち」だったということです。彼らが死ぬまでの経緯を簡単に見てみましょう。
サイモン・コニーのカップルが飛び降りの儀式を見て「帰る!」と騒ぐ
→サイモン行方不明(のち鶏小屋で死体?発見)
→絶叫が響く(おそらくコニーが殺られた)
マークが飛び降り儀式を軽視(寝てると言って見に行かない)したうえ、生命の木にタチション
→行方不明
ジョシュが再三言われていたのにルビ・ラダーの写真をこっそり撮影
→殴られて退場
上記4人に関して見てみると「これはどう言いくるめようとしてもコミューンの仲間にはできない」と判断された時点で殺されているようです。マークはいろいろ論外としても、サイモン・コニーは普通のカップルでした。ただ「外の人間として」普通過ぎるがゆえに、「ホルガ村」の家族にはなりえないと早めに判断されたのでしょう。婚約していたというのもホルガ村の設定的に看過できなかったのかもしれません。
逆にギリギリまで品定めされていたのはジョシュとクリスチャン。彼らは人類学的、つまり学術的興味からホルガ村を深く知ろうとしていました。入口は学術的興味であっても、そのうちホルガ村のすばらしい精神()に感化されるかもしれません。だからこそ長老方は2人の論文執筆を許したのかもしれません。
でもジョシュはどうやら駄目だ。クリスチャンも薬で惑わせている間はともかく、真の家族になれるかは微妙なところ・・・と結論付けたのではないでしょうか。
個人的にはジョシュとクリスチャンという名前もちょっと意味深だと思います。クリスチャンはもちろんキリスト教徒、あるいはキリストを象徴する名前ですし、ジョシュはおそらくイエス(キリスト)を原語であるヘブライ語読みしたヨシュアを起源とする、ジョシュアが本名でしょう。つまり二人とも、あくまでキリスト教世界の人間であり、ホルガ村部外者の枠から出ない人物なのです。クリスチャンに関してはダニーにとっての救世主(になりえた)という意味も兼ねていたのかもしれません。
そして5人目のクリスチャン。部外者として5人目、全体で9人目の生贄です。9人目に関しては村から1人、部外者から1人候補を出し、女王が選ぶという方法がとられました。ダニーが選んだのはクリスチャンでした。この儀式に関してはイエス・キリストが処刑される際の状況に似ている気がします。ユダヤの総督ピラトは、イエスをとっ捕まえたはいいものの、民衆のイエス人気が高かったため、イエスとバラバどちらを処刑すべきかと民衆に問いかけます。結局イエスを処刑せよという声が多かったため、イエスの処刑を決意するのです。
これが元からのホルガ村の設定なのか、ダニーに共犯意識を持たせるための特別な措置だったのかはわかりません。いずれにせよ、ダニーは自らの手で、現世と己をつなぐ最後の糸を断ち切ってしまいました。彼女の妹がそうしたように。
そうして外部からの生贄の数だけ、ホルガ村の大いなる輪は大きくなってゆくのです。毎年毎年、少しずつ少しずつ。
陽が沈まぬ季節のたびに。
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