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世の中は自分次第

というのは結局、イメージ的に言うと、世の中には数多の事象がふわふわとただよっており、その中からどういったものが、自分の中に入ってくるか、という部分で、自分という人間のあれやこれやが形成されるようなところがあるからと思うわけで。

だから、素晴らしい言葉を聞いても、馬の耳に念仏、となる人もいるし、
その言葉に感銘を受けて、人生自体が変わる人もいる、というわけだ。


まずは、思考のレンジを広げたい。思考のレンジが狭いということは、自分の中に入ってくるものがあらかじめ限定されてしまうということ。それはすなわち、世の中のふわふわと漂っている数多の事象の中の素晴らしいシングスもどんどんスルーしまくってしまう、ということであり。思考のレンジを広げれば、しっかりと自分で取捨選択が出来る。

では思考のレンジを広げるというのは、どういうことか。これは感覚さん的には、まずはいろんな可能性を見るということだと思う。

例えば、「おばけなんて無いさ、おばけなんて嘘さ、寝ぼけた人が見間違えたのさ、おばけなんて信じて怖がっているなんておばかだねフフッ」と言い切った瞬間に、古今東西の世界のあらゆるゴースツ的オカルトシングスをばっさり切り捨ててしまうことになる。その中にアナザー知識へと繋がる素晴らしいシングスが漂っているかもしれないのに。

なのでやはりここは、「いるかもしれない、いないかもしれない」という姿勢でいるのが正しいと思う。そこで白黒つけずに、グレーのグラデーションの中を泳げば、その中にある色々なシングスを取捨選択して取り入れて行くことができる。


しかし実際問題グレーのグラデーションの中を泳ぐ人は多くない。というかあまりにも少ない。世の中は往々にして、「いる」VS「いない」の対決になったりする。とにかくそういうのがいらない、と感覚さんは言いたい。
いるとかいないとか決めつけて、白を選んで黒とまたあらゆるグレーを切り捨てる、黒を選んで白とまたあらゆるグレーを切り捨てる、そういう姿勢だと上記の通りスルーするものが多くなり、己を狭く小さくしてしまいますよ、と。

しかしなぜ、人は決めつけてしまいがちになるのだろう。これは、たぶん、現代の教育の賜物なのではないかと感覚さんは見る。この問題、答えはこうですマル、この答え以外は間違いですバツ、という二元論。それは確かにテストというゲームのルールとしては必要だろうが、考え方のルールとしては不必要ともいえる。

「たかしくんは基本的はそう思った、しかし同時にこうも思った、否、その時の感情が全て言語化される様な何事かで表現可能なものではなかった、かもしれなかった」
本当の正解を求めるにはその様な考え方が必要になるだろうが、義務教育となるとこのあたりが大変弱い。まあ教育が弱ければ自分でなんとかする様にすればよいと思うが、やはり大多数おおかたとしては、義務教育方針がそのまま功を奏してしまう。

(歴史の勉強なんかでも、「・・と言われているが、諸説ある。〇〇かもしれないし、××かもしれない。真実はわからないので君たちも色々な可能性を持って考えてみてほしい。」とでもしておけば、大分決めつけ思考が減ると思うのだが、どうでしょう。)


だから、思春期に少年時代からあれこれ教育された現代人は、決めつけを捨てるだけでも思考のレンジはかなり広がると思う。そもそも、何かを〇〇だと思うということは、それ以外の××が入ってこないということでもあると言える。だったら最初から〇〇という知識など無い方がいい、まである。

だから知識とは諸刃の剣であり、邪魔な固着物ともなっているのです。固着物を捨て、自由に空間を動き回る。すなわち自由に考える、ということが大事になるわけですね。そんな自由な自分を作ることは、自分次第であり、また逆に、あらゆる決めつけをして思考のレンジを狭くして、入ってくるものを限定して、狭く固着した自分を作るのもまた、自分次第なのです。

そして、その自分次第によって、住む世界が変わってくる。大げさではなく、同じ時代を生きてもまったく別のタイムラインを生きるくらいの違いは出てくる、とまで言いたい。つまり世界を変えるのは、まずは何より自分自身で自分次第であり、そしてそんな自分次第の集まり、皆皆さん方のあり方で、その多寡によって、実際に世界が変わっていく。つまり、「世界」という概念は抗えない固定されたものではない。感覚さんが今回で一番言いたいのはそのことなのです。

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