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コ・ノ・ウ・ラ・ミ・ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・ダ

感覚さんが目指す世界はやっぱりポジティブでピースなヴァイブスの世界であり、しかしそれは「みんな仲良くいがみあわずにやっていこうぜ」、というものではなく、そもそも人間同士というものはどうしたって結局いざこざを起こすわけであって、であれば極論なるべく他人と関わらない社会を構築すべきなのではなかろうか、と思ってる。

「皆心の余裕を持って仲良く協力しあおう」とかの理想論を言うのはたやすいさ。しかし、そもそも、人と人のいざこざは起こる。絶対起こる。起こるように出来ている。そこを不自然に回避しようと、ストレスとかでおかしくなったりもする。だから、別に一部の人からは嫌われてもいいんだね。そういうたぐいの本もいっぱい出ているでしょう。

そして感覚さんも、人から嫌われる事なんてなんとも思っていない。むしろ人から好かれる方が何かと怖いので嫌だと思ってるくらいだ(感覚さんは若い頃は基本的にモテ属性だったので、いまだに変な人から好かれる事の怖さの方が先に来る)。だから、あらためて、一部の人間から嫌われる事にデメリットがあるかどうかを今一度、ここは理論的に考えてみていただきたい。
どうですか。ありますか?デメリット。

デメリットがあるとしたら、自分のこころの問題の様な気がしますよ。おおざっぱに適当に言うと、自分に自信が持てない、だから否定されたくない、みたいなたぐいの。その気持ちはわからんでもないですが、理論的には別問題となってくるかと。

感覚さんが言いたいのは、人それぞれがそれぞれに自分らしく生きる以上、
どうしたって人と人が衝突しないなんてのはありえない、という事。
それは仕方のない必然である、必要悪である、という事。

話し合えばわかりあえる、とかそういう発想もいらないだろうね。たまにわかりあえた気がしないでもないが、それは悪ポジティブな勘違いで、「一部において擦り合わせが可能な点を見つけた」、という事にすぎないかと。
そういう勘違いによる前向きな気分を、感覚さんとしては「悪ポジティブ」といいたい。

ほんとうのポジティブというのは、そういう事じゃなく、「わかりあえやしない、って事だけを、わかりあうのさ」という名フレーズに象徴される、
(フリッパーズ・ギター 「すべての言葉はさよなら」より)
人と人は、そもそも分かり合う事などは出来ない、唯一分かり合えるのは、僕たちはわかりあえないという事だけ、という諦念をあらかじめ持ち、その諦念に伴うネガティブな哀しみは、乳歯と共に屋根の向こう側に投げ捨ててしまう事、これが感覚さんの考える、人間関係というものにおけるポジティブな考えというものであります。

そして人生というもの、わかりあえない哀しみを捨てきれない過渡期に、子育てというそこの気持ちを埋める作業に没頭し、子育てが終わっていよいよ子供とも分かり合えなくなってきたら、そこからポジティブで孤独な楽しい老後生活が始まるわけであり。だから、ここで言う「孤独」という言葉に、最大限のポジティブなニュアンスを感じとって欲しい。なんせ、人生において一番素晴らしい事は、他人と関わらずに生活出来るという事なのだから(個人差あり)。

とにかく会社とか仕事の何が一番嫌かというと、他人と関わらなければならないという事ではないですか?ちがいますか?

他人との関わりをなるべく絶って、なるべく人と最低限以上の会話をしない様にやっていたとしても、トイレもまともに使えない低能な猿の如き人間が汚したトイレを使用しなければならなかったり、隣人の加齢臭や老人臭に耐えなければならなかったり、職場によっては(店員等)下らないポップミュージックを一日中無理矢理聴かされ続けたり、つまりあらゆる五感の感覚をこちらの意志でシャットアウトできずにジャックされる所がとにかく一番嫌な所で、しかもそういう五感ジャックのみならず、コイツ相変わらず気持ち悪いメールの文章のセンスだなあ・・とか、服装や髪型やふるまいや喋る言葉選びのセンスだとか、そういうありとあらゆる他人シングスにあらゆるストレスを感じてしまうので、感覚さんとしては、そういう事のまったくない孤独さで生活できるのであれば、それだけで本当に至福としかいい様がないわけで。

そしてまた、ここでオカルトでスピリチュアル系統の話をさせて頂くと、他人同士の接触による軋轢は、恨みの念も同時に生みます。

それを一番生み出しているのは上記の様に、私感覚さん自身の様な気がしないでもないですがw、ありますよ、みなさん。多かれ少なかれ。そして結局の所、一番恨みに繋がるのは、愛情だとか友情だとかのもつれだったりして、すなわりポジティブでハッピーうれピーマンモスラッP!とか思っていた所からの一転のポジネガ変換での恨みの様なものが一番恐ろしかったりするわけで。

例えば、界隈、
われら一丸となって共に進まん!!WW1W1GAとかなんとか、WWA1WGAとかなんとか、元の言葉を覚えていないのでうろ覚えのパスワード入力みたいになってしまうがw、あるでしょう。そういうスローガンと、それによるノリが。確かに皆で協力する事で強力な推進力が生まれる事は、あるのだが、そのパワーって、感覚さんの感覚だとなんだかあぶなっかしいパワーと感じる。そういうワーっと盛り上がるポジティブなものの反面で、同調圧力の押し付けがあったり、また何かあった際にいがみあって(繰り返すが、人の世の必然)、それぞれがそれぞれの粘着アンチ状態になって、お前らどこが一丸だ、という様な事態になりがちっていう。

(結局その手の話かい、と思われる方もいらっしゃられるかと存じますが、タイトルからもまあ想像つくでしょう。ベタに着地です。)

そして、その恨みを晴らさんと、怨念で動く。
それもまた、楽しいものです。皮肉ではなく。わかります。
老体にイキイキとハツラツとしたエネルギーを感じる事でしょう。

されど、そのエネルギーは、別の事に使う方が生産的だし、もっと楽しいですよ。想像しましょう、イマジンです。「想像してごらん?もしも、老後に、ストレスの無い孤独な生活をおのぞみ通り手にいれたら、そこにおいて、あなたのやりたい事って一体なあに?おしえて。おじいさん。」
ってわけで、各々、その回答のシングスに、そのエネルギーを使おうぜ、と。

というのは、「恨み」という時点で他人の存在が前提になってしまっているかと。人生に他人というファクター、エレメント、そんなもの無い方がいいですよ。せっかく素晴らしい孤独があったとしても、そこにまで他人という余計な要素がつきまとう。これ、うっとおしくないですか?孤独の幸せも半減です。だから、恨みなんて捨ててしまいましょうよ。

「この恨み、はらさでおくべきだ」。
薔薇柄をあしらったロンTに、黒いマントを羽織り、前髪はデップでうねうねとねじり固めて、深夜に近所をあてもなく徘徊してまわり、警官から職質を受けた際に、そのセリフを言ってのけよう。これがスピリチュアル的に言えば、「恨み念法返し」、すなわち恨みという心の支配からの卒業の儀式です。

「自分は自分、他人は他人」。「ウチはウチ、よそはよそ」。であり、「俺がお前でお前が俺で」とか、「お前のものは俺のもの」、なんてやってたら、幸せになれないですよ。「俺のものは俺のもの」、だけでいいじゃないですか。ねえ。

「俺のものは俺のもの」、素晴らしい真理、素晴らしい言霊ではありませんか?その言葉を発する時に、幼小のみぎりに兄に食べれらてしまった自分の分のプリンというネガティブなイメージが浮かんだら、そのイメージこそが、最大限のネガポジ変換の、最大限のよろこび、マックスポジティブに昇華するチャンスでもあります。今ここにある自分だけの冷蔵庫の中の、自分だけのプリンを眺めながら、もう一度言いましょう、「俺のものは俺のもの」、と。そこに生ずる喜び、これが私たちの提唱する「マックスポジティブパワー」の一例です。

もしもあなたが更なるマックスポジティブパワーを感じたければ、その際にはこちらのマックスポジティブパワーストーンを部屋の四隅に置いておく事がより効果的です。種類によってお値段は色々取り揃えてございますが、お値段の問題というのはどうでもよろしいものかと思われます。と申しますのは、マックスポジティブパワーストーンのマックスポジティブ効果は半永久的に持続致しますので、要するにあなたの人生における時間という概念が有限である以上、なるべくお早目に手に入れるべき他ならないのです。

そう、だから、なるべく早めに、恨みの念など捨ててしまった方がいい。
感覚さんからも最後に言わせてもらうよ。
「そのうらみ、はらさでおくべきだ」。

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