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JUST DO IT → 和訳=「やる」

以前とは毛色は違うが、思いつきの駄文という事はそのままの文章を。

他人のnote記事をぼんやり見ていたら、ページビューがどうのこうの、という記載があった。え?そんな機能あるの、と思って探してみたら、ダッシュボードというのがそれだった。閲覧数は智子さんtweetのまとめである賢者関係が多いだろうと思っていたら、結構自分が以前書いたオリジナル駄文の閲覧数もけっこうあった。意外と数字があった。そこで思った。ああ、読む人も居たんだな、と。

それらの文章は結局そのいっときの心の中のモヤモヤが書かせた文章だったのだろう。モヤモヤが解消されたので、書く事がなくなった。これは良い事(モヤモヤの解消)でもあり、悪い事(ネタが尽きた)でもある。いや、やれば色々出て来るのだろうが、その一時の初期衝動に気持ちが追いつかないというか。

これは音楽やらなんやら、あらゆる作品作りとかでもよくあると思う。初期衝動が全てで、後が続かない、みたいな事って非常によくあるでしょう。自分の好きな音楽アーティストで言うと、デリック・メイ。彼は1987年~1992年くらいにバーっと、今でも伝説となっている数々の名曲を作成した後、ほとんどパタっと音楽を作る事をやめてしまった。

これは、なんとなく、彼の立場に立てば気持ちがわかる様な気がする。当時に衝動的に作成した音源の神がかりなまでのテンションにはもう追いつけないのは自分でもわかっている。だからと言って違う事をやったら、駄作だとか、迷走しているとか言われるだろうし、やれる事が無いし、モチベーションも当時と比べるとまったくと言っていいほどだ・・とまあ勿論本人の事はわからないわけだが、まあそんなところだろうと思う。

という事で、「初期衝動は続かない」というのを、ことわざ的に提示したい。しかし、ことわざ、ってのは、いいよな。言葉に含みを持たせていて、二面的、多面的な意味合いを持つあたりが。「良くも悪くも、なんとかだ」的な言い切り。よって、良くも悪くも、初期衝動は続かない。それは良い面もあり、悪い面もある。ということ。

誰しもに通ずるテーマで言えば、勿論恋愛なんかもそうだろうし。だからと言って初期衝動も無い恋愛が果たして意味があるかというと・・、意味とか言ったら語弊があるか。しかし語弊のみならずそもそも恋愛のこの辺のネガティブ面に関してああだこうだ言うと、根が正直者ゆえに、どうも大半の人にとっても自分にとってもあまりよろしくない結論となり、常に墓穴を掘る事になりかねないので、やめておくw。


とにかく言えるのは、過去の衝動は衝動として割り切って、今を生きるにおいては、そこになるべくとらわれずに行きたい生きたいものです、と。その時そうしたかった事はそうしてその時に消化したわけで、その時はその時、今は今、今そうしたいと感じる事を、過去にとらわれずに行う、今を生きる事が大事なのではないでしょうか、と。(そういう気持ちで今この文章を書いている。)

その為には、あまり自分の書いたものを読み返したり、作った音楽を聴き返したり、そして日々日常生きる上では自分を俯瞰しない事も大事だろうなあと思う。自分を俯瞰してる状態ってのは、テレビを見てるときで言えば、一回テレビの外枠を見てしまったがゆえに画面の中の世界になかなか戻れない状態の様なものではないだろうかと。

まあ時にはそんな事もあっても良いが、やはり人生とは、自分の内側の、自分の世界の中に居て、そこからあれこれするものだろう。俯瞰していれば、確かに色々見えて来るものはあるだろう。しかしそれも良し悪しなのである。考えなくても良い事まで考えてしまって、他人の目を意識したりもして、自然な自分本来のアクションが出来なくなったりもする。だから、あまり余計な事は考えずに、常に自分の中目線で、内側の気持ちで、その時やりたい事をやればいい。

しかし、やりたい事なんてわからない、少なくとも今やりたい事と言えばこれだけだよとばかりに、酒飲んでテレビ見て寝る事が人生の全てになっているのであれば、きみの人生が止まっているかもしれないぜ、と言いたい。それは確かに、今本当にやりたい事かもしれないが、人が人として生きる為には、それだけでは人生を終われないだろ。

そこに理屈なんて無いんだよ。理屈が無い事がダメみたいな頭でっかちな風潮も現代にはあったりするが、別に理屈なんて無いって事をデッカい声で堂々と主張したっていいんだよ。だから言いますよ。そしてもしもそこに異論を呈するのならば、質問責めで返すよ。本当にそれだけで終わっていいのか?心の底からそう言えるか?楽しいって何だ?幸せってなんだ?とエンドレスに。

(とにかく、奴隷労働からの一時の週末限定の解放感だけで生きて、日曜日の夕方には憂鬱が始まり、月曜日の朝を恨めしく思うネガティブな念が、この国には充満している様に思う。この月曜ネガティブの呪いを、邪気を、払いたい。最近自分がベーシックインカムと連呼しているのも、要はこれ。要点と中心点がここにある。曜日とか関係なく、やりたい事が束縛の反動の堕落的自由なのではなく、本当に自分がやりたい事をやれる社会が、まともな社会というものである。束縛も反動も、いずれ束縛に変わりない。)

しかし大丈夫、今は束縛されて、人生が止まっている(止められている)だけで、終わっているわけではない。新しい事は、いつ初めたって良い。遅すぎるなんて事はない。それはやらない理由付けに使用されがちな屁理屈の一つでしかない。やらない理由付けをしたがるのは、逃げだ。しかも楽しくもない、無意味な逃げ。だからやらない理由付けは、もうやめよう。なんだって、過程を楽しむ事が生きる事なのだし、いつも過程を楽しんでやっていれば、きっと何事かに繋がるし、精神も健やかになる。人生はそんなもので、前向きであればある程、イージーな法則性に貫かれている。

だから、やろう。JUST DO ITだ。ナイキの一時期のキャッチフレーズでもあったこの言葉が好きなのだが、これを自分はたった二文字で和訳したい。「やる」と。ただそれだけだぜ、と。

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