3.11の後
高校卒業後は主に地元を離れて暮らしている。宮城県の出身なら震災のときはどうだったかと聞かれると、「まあまあ…うちは大丈夫でした。物が壊れてちょっと停電してたくらいで」などと軽めに曖昧に答えていた。13年経ち、今は「宮城県」と聞いてもどうだったかと一番に聞く人は少なくなった。聞かれないとホッとする。目の前の初対面の方がどこまで重い話を受け止めてくれるのか、どのくらいのことを話したら程よく納得して次の話題に移ってくれるかを、その場その場で考えてしまって、毎回ちょっと疲れていた。
そのうちに当たり障りのないシンプルな答え方を覚えた。
その理由のひとつに、何もしなかったことへの後ろめたさがある。高校で募集していたボランティア活動に参加しなかったことは今でも後悔してる。避難場所になっていた近所の高校で炊き出しの手伝いをしたエピソードでも持っていれば、こんな小さな罪悪感を抱えることもなかったんだろうか。3,4年前に母から、当時妹と小さな弟を安心して家に残しておけたのは私がいてくれたおかげだと言われ、少し救われた。
去年のGWの帰省の間に、宮城県石巻市の、今は震災遺構となっている大川小学校を訪ねた。学校管理下にありながら74名の生徒、10名の教職員を津波で失ったところだ。校舎以外は綺麗に整備されて、何も残っていなかった。
語り部として活動している遺族の方から当時のお話を聞けた。震災がなかったら今も生きていた人たちの話だ。市と県を相手にした裁判には勝ったが、説明不足のため納得していないことも多いようで、これからも戦い続けると言う。
かつては塀も校門も体育館もあって、集落があって、町の人や子供が集い、あの日は地獄絵図のような瓦礫と遺体だらけになったということは、ただひとつで風を浴びて佇むぼろぼろの校舎を見ても想像できるものではなかった。
被災地をしっかりと見るのは12年ぶりの2度目だった。震災が早く過去のものになればいいと思っていた私。本当に避けてきたな。
現地に立ったり話を聞いたりしたところで、ここがそうか、と思うばかりで何が出来るわけでもない。ひとつこの日の前後で変わったことは、大川小で亡くなった方々が私の中で生き始めた。 私がその人たちを思い描くことで、彼らは少なくとも私の中に存在する。あの時のことを思い出そう、あの時悲しんだ人、大変だった人の話を聞こう。
私の小さな罪悪感なんて、遺族の話を聞いていたら本当にどうでもよくなった。それよりも起こったことを知ること。あのときも今までも何もしなかった私がこれから出来ることはそれしかないのだ。
震災当時のことを聞いてくれる人に変に気を遣うのはやめた。今はその時々で思っていることを素直に話すようにしている。
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