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忘れられない事件

福岡にいた頃、私の自宅の平屋の家の前には小さな川が流れていた。川幅が十~十五メートルくらいだろうか。いわゆるドブ川だった。
このドブ川は、小学生の私の絶好の遊び場だった。


水面が低く、川底が見えるときには、川の中に入り虫かごでフナや鯉を取って遊んだ。水面が上がると、川から流れてくる目標物(それがゴミでも生き物でも同じだった)を狙って、石を投げて遊んだ。
家の前の道が砂利道だったので、投げる石には困らなかった。

そう、あのときも水面が上がっていた。
私は、いつものように学校の帰りに家の前で、川に石を投げて遊んでいた。
ちょうどそのとき、向こう岸に同じクラスの女子であるKとWが下校してきた。そして、あろうことか、一人で川に流れている目標物を目がけて石を投げている私に向かって、勝気なKが「こっちに投げれるものなら投げてみろ」みたいなことを言った。

当時の私は、遠くに流れている小さな亀にも石を正確に当てることができる腕前だった。ほんの十五メートル先のKに石を当てるくらいことは朝飯前。
最初は無視しようと思ったが、Kは一向に挑発を止めようとはしなかった。

そこで、平らな石を一つ握り、Kに向けて投げた。いや、『向けて』というより、わざとカーブをかけた。
その石は大きく右に弧を描いて、ちょうどKの顔の辺りに当たった。
その瞬間、Kは声を上げずにしゃがんだ。
私は強く投げてないし、悪いのはKの方だと思っていたので、そのまま気にせず家に帰った。

次の朝、学校に行くと、真っ先に担任の女の先生に呼ばれた。そして、「私に言うことはないか」と聞かれたので、「何もない」と答えた。昨日のことなど、すっかり忘れていた。
先生は呆れた顔をして、「Kさんの前歯を見てきなさい」と言った。Kの前に行き、口を開けてもらうと、前歯が欠けていた。
これが、自分のせいだと気づくのに多少時間がかかった。先生に言うなんて、いかにもKのやりそうなことだと思った。

その日のホームルームのテーマは、この『事件』のことだった。
かたや優等生のかよわき女子と、対する出来損ないのトラブルメーカーとの論争は、先生の一方的なK支持を除けば、なぜかクラスメートは私に好意的だった。この小さな陪審員たちの判決に気を良くした私は、夕食の時に母や妹たちにこの『事件』のことを自慢話として語った。

その話を聞くなり、母は烈火のごとく怒り出し、今すぐKの家に謝りに行くと言い出した。そして、食事の途中の私を無理やり連れて家を出た。
Kの母親に泣きながら謝る母を見て、私はどうしていいのか分からなかった。ただ、こんなに母を困らせて悪かったと思いながら、私も頭を下げた。
それでも、Kの母親もかなり頭に来ているらしく、母の差し出すお金を最後まで受け取ろうとしなかった。

それから、ちょうど1年くらい経った夏のプール時間のこと。
プール岸の近くまで泳いで来たところで急に苦しくなり、もがいた。
何故、もがいたのだろう。立てば済むような浅いプールで、である。

そして、プール岸のコンクリートの壁に最初に当たったのが、なんと前歯だった。小さなプールでどんなにもがいていたか、想像できるだろう。
当たったときは、全く痛くなかった。ただ、何か大切なものがプールの底に落ちたような気がして、恐る恐る前歯を触ってみた。
すると、前歯が1本欠けていた。

家に帰り、母に言うと、
「なんで、あんたは最初に前歯が当たるんかね~」
としばらく笑われた。
しかし、このときに真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、もうすっかり忘れていたあの『事件』のことだった。
あのときの彼女と同じ前歯が、同じように欠けた。そして、あのときの彼女と同じように、その前歯は丸々ガラスの歯に変わった。

毎朝、歯を磨くときにそのガラスの前歯が見えるので、あの『事件』のことは忘れることはできない。
今、Kがどこで何をしているか全く知らないが、私と同じようにあの『事件』のことは忘れられないだろう。

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