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和歌山の鰹節専門店「カネシゲ」の歩み




はじめまして、ストロング店主です。

ストロング店主オリジナルの、自身をモデルにしたキャラクター
何とも言えないキャラ感で一度見かけたら忘れない


はじめまして。ストロング店主と申します。
かつお節発祥の地と言われる和歌山で、かつお節専門店「カネシゲ」を家族で経営しています。
私は店主をしていて、3代目になります。

早速みなさんの「ストロングって何よ?」にお答えします。

私はサントリーさんの「ストロングゼロ」愛好家でして、毎日飲んでいます。冷蔵庫には1ダース以上常に入っているし、ケース買いは当たり前です。

昨年、その様子をXで発信したことをきっかけに「ストロング店主」と呼ばれるようになり、現在に至ります。

皆さまもどうぞお気兼ねなく「ストロング店主」「S店主」「ストロングさん」など好きに呼んでくださいね。


カネシゲの歩み

初代店主(祖父)の挑戦


戦後直後の昭和20年(1945年)、食べ物も仕事もなくて困った祖父が、
生まれ育った故郷の和歌山県御坊市(和歌山県中部の都市)から疎開地として和歌山市内(和歌山県北部)を選んで引っ越してきました。

そして、いきなり何の知識もないまま友人に誘われて、鰹節屋を始めたのです💦(なかなかのチャレンジャーやろ⁉️)

まだ、終戦直後いうことでみんな物不足に困っている中で、とにかく食べ物に特化した何かで一儲けって考えたかと…
そんでたどり着いたのが鰹節屋だったんじゃないかなぁ🤭

毎日ふわふわの花かつおになるよう微調整しながら削っています


カネシゲの店舗がある東卸市場の近くには、当時「ヤミ市」というものが存在しており、人々は食べ物を求めて集まります。

ところでみなさん、ヤミ市って知ってますか?
戦後の食糧不足の中、政府管理の商売形態外で人々が独自に作り上げた市場形態で、政府にバレないように行う商売という意味で「闇市」と呼ばれていた場所のこと。
当時の食糧難は政府の配給では補えないほど深刻で、飢餓による餓死者も多発するなどの状況にあったらしく、闇市での商売によって食料を得ることは政府も暗黙の了解であったし、人々の生活を支えるものになっていたそうです。

祖母は早くに亡くなり、長女である伯母は自身の人生を犠牲にしてまでも半生をカネシゲのために捧げてくれました。
そのおかげで今のカネシゲがあるといっても過言ではなく、伯母には感謝しかないです🥹

父は5人兄弟の末っ子で、その伯母が母親代わりになり、厳しくも優しく育ててもらったと語っていました😅


当時は今では考えられないほど忙しく、朝から晩までフル稼働で鰹節を削っても間に合わないくらい多忙を極めていたそうです。

祖父の先を読む眼力は感嘆するところですが、やはり田舎育ちの人間故に簡単に人に騙されることがあり、身内の借金でかなりの負債を被ったそうです😱
それがなければビルの一つや二つ所有していたらしいです💦

ホンマかどうかは知らんけどね😆


そんな危機も何とか乗り越えて、先代の祖父から2代目店主時代(私の父)へと事業承継されました。



2代目店主(親父)の挑戦


親父は若いころから機械をいじるのが得意でした。今も店の修理は親父が自分でやっています。

こないだも機械の調子悪くてあーでもない、こーでもないとメンテナンスに追われました。
うちの機械も年季が入ってきたのでね…

右手前が2代目(親父です)機械の奥に少し腕だけ見えているのが私ですね

話はそれましたが、
当時は小規模で物を作っている店で、機械化されている所なんて少なかったです。というか見かけなかったです。

ですが親父は、鹿児島まで出向き、廃棄寸前の機械を借金までして買い取ってきて、半年くらいかけて修理して使えるようにしました。

↓それがこの機械。今も現役で動いています。


動画を観ていただくとわかるかと思いますが、ここで袋詰めした「笹鰹 かつおパック」が誕生します。現在も人気の商品です。

笹鰹 かつおパック(血合抜)


この当時は今とは違い、削った鰹節を素手で掴み、袋に入れて販売していました。
昔ってお好み焼きとか焼き芋も新聞紙にくるんで販売していたし、自分が子供の頃は3秒ルールと言うものが存在して、「3秒以内なら地べたに落としても食べて良い」みたいな暗黙のルールあったんですわ😅


次第に時代の流れが変化していき、保存可能な加工が主流になり、それに伴い、物流が発達しました。
日本全国にいろいろな物資が届くようになったことで、近所でしか買えなかったものが、遠方で作られたものも手に入るようになってきました。

買い物自体も、近所の八百屋さんで自前の買い物かごを片手に買い物していた時代から、手ぶらでスーパーマーケットへお買い物できる時代に移り変わっていったのです😱

その流れは鰹節業界にも影響を及ぼし、長期保存できる商品が全国からスーパーマーケットに集まるようになったのでした。


そんな時代の転換期に親父は遅れをとるまいと、地方の弱小のかつおぶし屋であるにもかかわらず、時代についていこうと足掻いたのでした😆

昔人間の祖父は、自分の成功体験の自負もあってか「借金してまで投資する必要がない」と反対しましたが、今後を見据えて親父はガンとして祖父の諫言を受け入れませんでした🙅

レトロ感漂うスイッチ達 でも頑張ってくれています



親父は自身の判断で、この当時は必要不可欠であると判断したのでした。

なんせ言うこと聞かんねん、この親父は…😅


しかし、これが功を奏して県内のスーパーなどで広く扱ってもらえるようになり、順調に売り上げ伸ばすことができ、傾きかけていた店を何とか盛り返すことができたのでした😃

積み上げられた、削り節が入った木箱


その後スーパーの苛烈な争いに巻き込まれながらも、時代はバブル全盛期‼
1番波に乗っていた絶頂期やったと思います🤭

ちょうどこの頃、私は高校を卒業して、カネシゲで下積みを始めました。
(私のストーリーは「ストロング店主、誕生秘話!」をみてね)

ただ、その頃からはバブル後期。あっという間に絶頂期は過ぎ去っていきました😱


え?1番ええ時代経験できやんかったやん⁉️

その後、和歌山市を占有していたスーパー「マエダ」が衰退してしまい、過剰に増えたスーパーの淘汰の波が押し寄せます。
スーパーの閉店と共に、当然ながら販路が大幅に縮小します。

ピンチが来ました。今から30~35年前のことですが、よく覚えています。



「他でやっていないことをする」の精神から生まれたもの


 「笹鰹 かつおパック」の成功例から「他がやっていないことをする」の精神で、ピンチを乗り切るために新商品を開発します。
この時誕生したのが、「めんだし」。

めんだし


かつお節・さば節・うるめ節・宗田節をブレンドするという商品は、当時他にありませんでした。

さらに2代目夫人(母親)のアイデアでチップ状の昆布もその中に入れました。親父と母親の間で昆布を入れるかどうかでモメましたが、結局入れて販売。

ブレンドする前のさば節・宗田節・かつお節(手前から)


さらに他で見ることがない独自の商品になり、味もいいとのことで、大好評をいただきました。この後「めんだし」は、自社商品のNO.1に長らく君臨することになります。

おかげで店も持ちこたえることができ、またもやピンチを脱出しました。



3代目への継承


そして3代目の今(俺の時代来た〜🤣🤣🤣)

さらに地方のスーパーが減少し、販路を奪われます。

そんな中、ありがたい話が飛び込んできました‼️
『産直市場よってって』を紹介して頂ける機会がありました✨
最初は正直、あまりありがたい話とは思いませんでした。

しかし、いざ納品して販売開始すると、みるみる取り扱ってもらえる店舗数を拡大して頂け、それと共に売上もUP!
今ではカネシゲのメインといっても過言ではないほど、お世話になっています🤭

産直市場「よってって 貴志川店」の様子


「よってって」での販売開始はよかったのだけれど、
飲食店に卸している業務用鰹節などの取引数がが年々減ってきている・・・😖
しかも店舗に長年通ってくださるお客さんも高齢化し、足が遠のいていきます。

全体としては好調とはいえず、またしてもピンチの到来。



3代目の挑戦


 「誰もやっていないことをする」で幾度となくピンチを乗り越えてきました😤😤😤

「お店に通ってくれる個人のお客さんを大事にしたい。若いお客さんを増やしたい。」
その思いで2023年の春からSNSに参入します。

ここら辺の詳しいやり取りは「ストロング店主、誕生秘話!」につづっているので、ぜひ読んでみてくださいね!

結果的に、夫婦2人体制でのSNS参入から約2か月で、
20代~40代のお客さんが「SNSを見て」と来店され、年齢層の変化が見られるようになりました🙌🙌🙌

SNSの反響に正直驚いています!
と同時に、新しいことにチャレンジしたり、時代と共に売り方を変えていくことの大切さにも気づきました。


時代は変わっても、変わらないものは「お客さんを大事にする気持ち」


私たちは、お客さんが求める事に寄り添えるように、できる範囲で精一杯対応して最善を尽くそうと考えています。
もちろん出来ないこともありますが、可能な限り対応します!!

「他ではやってもらえない事を、この店はやってくれる」という強みをこれからも伸ばせるように努力していきます👍✨


これからも新しい取り組みに挑戦していきますので、応援よろしくお願いします🙇🙇🙇


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