すぴりちゅある
「自分は無宗教無宗派だ」
と言い切れるのかどうかは分からない。
お墓参りにはいくし、初詣とかもいかない年もあるけれど比較的行ってるほうだとは思う。
でも、
「実際自分が死んだ後お墓に入りたいか?」
と問われれば、絶対首は縦に振らない。
お墓参りに来る人の貴重な時間は、その人にとっての貴重な時間であるわけで、その人にとってお墓参りの時間が実に有意義に使われている、というのであればそれでも構わないとは思うのだけれど、自分自身のお墓参りを振り返った時に、必ずしも数々の、全部の、その時間が有意義かと問われればそうでもなかった気がするからである。
なので、もし自分が死ぬことがあれば、お墓には入らず、散骨とかで済ませて貰えればいいかなー、とは漠然と思ったりしてはいる(結局その場合でも散骨場所に訪れるケースも考えられるのでいたちごっこになってしまう可能性は捨てきれないが)。
少し話が逸れてしまうかもしれないが、死後の世界についても自分は実に懐疑的である。
この世の中には科学では説明できないことや実証できないことも沢山あるが、それにしても自分は死んだ後に、天国だの地獄だの、というものに振り分けられるなんてことは、絶対無いと思っているし、そんなことあってたまるかと思いながら、それでも結局日々を無為に過ごしている。
「死んだらそこで終わり」
これ以上でも以下でもなく、「続く」なんてことも無いと思っている。
生まれ変わり、とか、前世や来世とか、というものも自分は一貫して信じたくないし、これからも信じるつもりはない。仮に、
「そういうものが存在するのだ!」
と熱弁する人の立場を認めるとしても、
「じゃあ自分の場合は?」
と立ち返って見るに、前世や来世で別の人に、自分の黒歴史で塗り固められた前世を覗かれたり、繋がっていたり、あるいは、生まれ変わりでそもそも人ではなく蟻になって人やその他の生き物に踏み潰されるようなことなんてあってたまるか、と思うし、そんなしょうもないことになるぐらいであれば、おとなしく終わったままでいたほうがよっぽど救われているのではないか、と感じるのだ。
命は終わる。
その終わり方や、タイミング、場所、全てが不確実に、ただ「いつかは訪れる」という確実を持って、やってくる。
「後悔しないように」生きる、ということをしている人や、そうありたいという人もいると思う。
そんな人たちのことを否定しようとは思わないし、目の前にそういう人が居たとしても自分は、
「ああ、そうですか」
で終わりだ。でも、自分はこの1分1秒、生まれながらにして現在まで、そして、こうやってつらつらと無駄以外の何物でもない駄文・駄文字を書き連ねている今も含め、後悔を重ねていないことなどないと思っている。
後悔は何も悪いことではない、と思うので別にそれを引きずって嘆いているというわけでもないのだが。
「未完」の物語や芸術作品を見て、昔の自分なら「ああ、勿体無いな」とよく思っていた気がする。
しかし、今の自分は少し違う。
たしかに勿体無い、という思いを抱いてしまう部分は認めざるを得ないだろう。
しかし、その「未完」の物語や芸術作品、というものは、「未完」であること自体がその作品たちの一部であり、その作品と向かい合う者が避けては通れない部分であるとともに、作品たち自身が「未完」という自身のパーツを内包していることによって自身のアイデンティティの一部を形成していることは否定できないのではないだろうか。
「人生」や「命」にも少なからず共通する部分はある、と考えている。
死ぬ間際や死期を悟った際、
「ああ、もっとこうすれば。ああ、もっとああしておけば。ああ、もっとああしておきたかった。ああ、もっとこうしたかった」
後悔を抱く人。
「我が人生に一変の悔いなし」
を地で行く人。
そして、そんなことを思う暇もなく命を落とし、人生に幕を落とす人。
命の落とし方、人生の終え方は、それぞれだろう。
そこに後悔の有無や、醜美なんてものは、それを認識する人の裁量でしか判断できないわけで、その判断基準すら1人1人が異なっている以上は、いかんせん散漫な状態であると指摘せざるを得ないであろう。
死期にその言葉を、その意思を伝える術を持っているか否か、伝えたのか否か、ということの有無に関わらず。
また話が飛ぶ。
宗教チックな、スピリチュアル的な話が出たついでに、書いてしまおうと思う。
今自分は創作活動をしているのだが、そのタイトルに様々な作品に出てくる言葉(やモチーフ)でもあり有名な「アダムとイブ」を取り入れようかな、と考えている。
内容自体にはアダムもイブも出てこないし、宗教的な要素もそこには入ってはこない、と思っているのだが。
「世界を見ている」目は、「世界を見る」目は、見ている当事者以外にはない。
「アダムとイブ」の当事者2人にとっての人間は、2人だけ。
「アダムとイブ」の物語を書き、それを語っているストーリーテラーにとっても、(そのことについて言及しているときは)2人だけ(勿論、記述がはじまり示されてしまった後は、そこに新たな人間の存在があることは言うまでもない)。
もし、そんな「アダムとイブ」のすぐ近くに、もう1人の人間が居たら?
そのもう1人は、そんな2人のすぐ傍にいながら、片方の1人に想いを寄せつつ、しかし2人の間に自分の存在が無いことを知っていて、それでもその想いを捨てきれず、苦悩しているとしたら?
そんなイメージを抱いてしまうような、おセンチな恋に落ちてしまったとある主人公の様子を描いた作品になるかな、と思っている。
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