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元気にしてますか?(前編)

2年前の今日、2018年の12月15日の夜、俺は妹の頭を撫で続けた。その感触や温もりは今でも鮮明に覚えてる。

前日12月14日の夜、父親からの電話で呼び出された。実家のリビングのベッド(看病のため、リビングに医療用ベッドを設置)で横たわり、※下顎呼吸が始まっている。
※下顎呼吸:一般的に息を引き取る間際の呼吸と呼ばれる。

もういつ息を引き取ってもおかしくない状況。父親、母親、妹の旦那さん、妹の3歳になる息子、兄貴、兄貴の家族、みんなが妹の側にいた。
溢れそうになる涙を堪えながら、必死に声を掛ける母親。ずっと手を握り続ける旦那さん。傍らで見ているだけでも、心を切り刻まれるほどに辛い。

2018年2月1日。
それは、父親から突然の電話だった。
重苦しい声で「千鶴子が肺がんらしい」と。目の前が一瞬で真っ暗になった。ただただ言葉を失った。数回の検査の後、ステージ4(末期がん)と診断され、もって半年とのことだった。


1980年4月22日、我が家、待望の女の子としてこの世に生を受けた妹。父親からは「最初に千鶴子が産まれてたら、兄貴であるお前達はいなかったかも」と言われるほど、溺愛された。

昔からドジな妹で、2人の兄貴の後ろをよく走って付いてきては転び、膝を擦りむいたり、顔をぶつけたりと親からしたら、心配の絶えない女の子だっただろう。

短大を卒業後、生まれ育った鹿児島を離れ、大阪で就職し、素敵な旦那さんと出会い、結ばれ、苦しい不妊治療の末、2015年に男の子を出産。幸せな家庭を築いていた。

互いに実家を出てからは、そんなに顔を合わせることもなくなってはいたが、お盆や正月にはその相変わらずな笑顔を見せてくれていた。

料理が好きで、飲食店のアルバイトで経験を積みながら、管理栄養士の資格を取り、大阪の地で仕事を頑張っていた。たまに実家に帰って来た時は、美味い飯をたくさん作ってくれた。得意料理のだし巻き卵の味は、きっと一生忘れない。


病気が発覚してから、妹は大阪から鹿児島の実家に戻り、療養生活が始まった。旦那さんも大阪の仕事の合間を縫っては、鹿児島に来てくれて、妹に寄り添い、一緒に病気と闘ってくれた。両親も出来る限りの手を尽くした。
俺は、自分の無力さに嘆きながら、励ますことしかできなかった。俺らには決して辛い顔を見せず、泣き言も言わない妹の姿に、いつも胸が苦しくなった。
毎日、近くの神社にお詣りをして、病気の回復を願うことが、俺に出来る精一杯のことだった。

繰り返す入退院、日に日に顔色も悪くなり、痩せていく。何も出来ないまでもなるべく会いに行き、心だけでも寄り添ってあげたかった。
ただ無情に時だけが過ぎていく。どんな時間を過ごしても、妹のことが頭から離れない。
「何故!」「もっと早く発見できたら…」「何がしてあげられるんだろう」
こんなことを考えてばかりだった。

(後編へ続く)

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