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フラミンゴ

推敲してもらったところ、私のしてきた努力を書き出さなければ本文のもどかしい悔しい気持ちがうまく伝わらないかも、と指摘があったので前書きを書きました。読まなくても本文は成り立ちますが、前書き込みで読んでいただけるとより私の価値観が鮮明に見えてくると思います。

〜前書き〜
(違うアカウントでの投稿を本文用に改訂したものです。)

なぜ日本語が上手いのか、とよく聞かれる。
正直、めちゃくちゃ勉強した。人生で一番頑張ってきたことが日本語と英語の両立なのってダサいけど、本当。
両親2人とも日本人だけど家で日本語を話すだけでは日常会話しか身に付かない。実際、アメリカ育ちの日本人やハーフの方には、「簡単な言葉しか使えない」「聞き取りはできるけど日本語で返せない」「日本語が訛っている」「漢字が読めないので日本の新聞が読めない」人が沢山いて、私くらい日本語ができるのは極めて珍しい方。
親が厳しくて、小さい頃から「日本にいる日本人と同じくらい日本語が出来る大人になって欲しい」と育てられてきた。学校にいる時間や友達と話す時はずっと英語でも、家の中では英語禁止。家にある漫画は「ちびまる子ちゃんのことわざ辞典」など教育系。トイレの壁には日本地図、食卓の壁には漢字のポスター。幼稚園年長の時から高校一年の時まで毎週土曜日に日本語補習学校に通い、国語算数理科社会を日本の教科書で勉強していた (一番日本育ちの方にわかりやすい伝え方が、「羅生門辺りまでは勉強しました」笑) 大学入学と同時に家を出て英語漬けの毎日で日本語を失ってしまいたくなくて自習で漢字の書き取りをしたり、日本語の小説を送ってもらって読んだり、Googleで敬語や日本育ちでも知らない人が多いマニアックな伝統的な日本文化の知識まで調べたり…

でも、平日の学校で日本語は通じない。アメリカは個性を重んじる文化だが、ある程度の協調性は求められるし、日本人らしさの要素だけでは日本人の少ない地域では友達が出来ない。更に社会に出て日本訛りがあると「こいつアメリカのことよく知らないな」と舐められ詐欺に遭ったり扱いが雑だったり。アメリカでも一人前を目指していた私は「英語しか話せないアメリカ」の英語を話せるまで発音や喋る文章の構成を練習し続け、結果電話で白人に間違えられるような英語力を手に入れたし、友達は日本人じゃない人ばかりになった。アメリカ社会に馴染み、他のアメリカ人と対等な大学生として生活するにはやはり欧米化は必須で、明らかに移民っぽい人ではいられない。「普通の日本人」になることからは遠ざかった。


〜本文〜

多分自分が一番持っている魔法は、言葉なんだと思う。

「考え過ぎ」や「帰国子女」は沢山いるけれど、多分そういう人達の大半は考えや経験を「普通の」日本人に伝えることが得意じゃない。(特に生粋の帰国子女は日本語を操るのが上手い人が圧倒的に少ない。)私はその形にはなかなかされない経験を言語化するのが上手いだけという、シンプルなのに魅力は理解されにくい魔法。

人生をかけて身につけてきた言語両立も両国の半人前ちょっとにしかならないけど、その半人前以上で形となった声を世に出せるのなら
住んだこともない国への憧れと帰国子女は日本語が下手という偏見を変えたい責任感だけで磨いてきた日本語は少しは意味があったのかもしれない。

でも、悔しい。

日常会話レベルで喋れれば凄いって言って喋れる認定もらえる世界では、価値観も話し方もネイティブに染まらずにちょっと齧ったくらいの人が一番得をするように出来てる。アイデンティティーについて悩むことも少ないだろうし、母国では「他の国行ったかっこいい奴」の称号を得ながら変人扱いされることもない。勝負じゃないけど正直ずるいと私は思ってる。
私の一生をかけた言語力で表現するものは半人前の変人の戯言扱いされるのだから。

それに加えて表現活動は日本語。私、アメリカ育ちでそのままアメリカで大学進学したし実は英語の方が得意…

合計語彙の50%以下を駆使して日本人の皆さんに伝わるようにと全て日本語で表現している辺り、自分凄いと思うし評価されたいし
語彙の100%使って表現出来たらどれくらい幅が広がるだろうと思うと悔しいから人生から下された私へのハンデだと思って生きてる。

「英語使えば本気のバイリンガル見せられてかっこいいんじゃない?」とも言われる。
でもここで英語で表現してみても結局訳さないと内容が日本人の相手に伝わらないので意味がない。「横文字で知らない単語いっぱい並んでるな、すげえ」くらいで終わるならモノリンガルがGoogle翻訳開いてコピペした方が早い。
伝えたい相手に伝わらないと分かっている表現を出来るほどあたしは強くない。

私にはこんなにも考えていることがあるのに、伝えたいことがあるのに。どこに行っても日本語か英語か、どちらかの言語に縛られたまま表現しなければいけない。語彙力の100%を使うことは許されないのだ。それでも作り上げられた形が偏見に塗り潰されることも「共感出来ない」と捨てられることもある。なのに私が日本育ちの日本人やアメリカ文化にしか触れていないアメリカ人の経験や価値観を理解するのは当然だと思われている。共感や理解をしてもらえるのはマジョリティーだけの特権なんだろうか。分からなかったら悪気もなく当たり前に仲間外れされるから、TPOによって持っている半人前で求められてる一人前を演じるしかない。

一生場所によって片脚ずつで歩いていくしかないんだ。
他の人より片脚ずつで歩くのはとても得意になれたけれど、両脚で歩ける人にはいつまでも敵わない。どこへ行ったってなんとなく歩きにくくて、片脚だけの姿で両脚人間の「普通」について行くのに必死だ。でもアメリカも日本も私の一部なのだから、どちらかに偏ることや染まってしまうことは自分の一部を切り落とすこと。

片脚ずつで歩いて行く道が悩む道であろうと、二つの母国のどちらにも理解されない道であろうと。私はこの道、この歩き方しか選びたくない。中途半端な道だからと諦めて半人前で終わる人もたくさんいる。私が両脚で歩ける道は存在しないのだけど、もし両脚で歩けたなら、実はいつも両脚で歩いている人の大半より強いのは知っているから。実力が半分に分かれているから半人前だと言ってくる世界にこの道を認めさせたいから。最後に中途半端と絶対言われないくらいどちらも捨てることなく双方の片脚歩きの完璧を目指し続ける。その歩いてきた道、変な歩き方こそが私の魔法だ。

でも魔法なんていくら出来ても使い方次第。私はいつまでも語彙の的確さだけに縛られるのは絶対に嫌だ。アトラクション扱いされるのも嫌だし、大人しく帰国子女って個性だけを使って翻訳者やら文化紹介系インフルエンサーやら英語講師だけやってろって将来を決めつけられるのもしんどい。英語と日本語が操るのが上手いだけでも職業にはなるのはラッキーって分かってるけど、私はただの通訳機にはなりたくないしその二つの言葉の魔界だけで人生が完結してしまうのは嫌だ。言葉って、魔法って、自分が使って他の人の心と触れる為にあるんじゃないなら何の為にあるんだ。

育ちだけでなりたいものになる権利を奪われてたまるか。

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