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了解しました失礼論に対する反駁


「了解」は新明解国語辞典によると、「事の内容や事情が分かる」ことである。

このことから、「了解」は「分かる」という動詞の同意表現であることが分かる―了解される―だろう。

したがって、少なくとも「了解しました」は「分かりました」とは同じ地位が与えられて然るべきだ。

そもそも、「了解」とは「諒解」の諒を了で代替したものである。

よって失礼論者が提唱する、了には「終わらせる」という意味があるから、目上の人には使えないなどという言説は、全く的外れなものである。

大辞林によると、元々の「諒解」の諒という漢字には、「真実・まことである」という意味がある。

すなわち、諒解とはまことであるとして解するということである。「承知する」と同じ意味を持つのだ。

したがって、「了解する」を丁寧語にした「了解しました」は「承知しました」と大して変わらないのである。

強いて失礼論者に与するとすれば、「承知」の承にはうけたまわるという謙譲語の用法があるので、その点で「承知しました」のほうが敬度は強いと言える。

しかし、だからといって「了解しました」を失礼とまで言うのは詭弁であろう。
少なくとも、「わかりました」と同程度かそれ以上の敬度はある。

ところで、私の個人的な言語感覚の話になるが、私はクライアントに対して「承知いたしました・かしこまりました」を使うことに違和感はない。しかし、身内である上司にこれらの敬語を使うのは違和感をおぼえる。

自衛隊・海保・警察など指揮系統が明確に存在する組織では部下が上官に対して「了解」を使用する。

これと同じように、本来ならば同一組織内の上長に対しては「了解しました」を使うほうが自然なのではないだろうか。

このようなごく普通の表現である「了解しました」が、失礼とされてしまっていることを私は了解しかねる。「了解」という言葉に脊髄反射で「了解は失礼だからやめな」などとのたまう失礼論者にはいったい何の根拠があると言うのだろうか。

せいぜい辞書も引かずに、訳のわからないマナー本や愚鈍な先輩のありがたい助言を鵜呑みにしたのだろう。

失礼論者には、自身が言論弾圧の加害者として日本語表現の豊かさを狭めていることを自覚してほしい。

そもそも、失礼であるかなんて態度の問題である。こんな言葉一つで腹を立てる方がおかしい。

ここまで読んでくださった読者の皆様には、ただ言葉尻を捉えて、人を無知だの失礼だのと糾弾する言語感覚の欠片もない鈍物こそが礼を失しているということをご了解いただけるだろう。








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