「リバーサイド・ストーリー」本編

人はいつ死ぬかわからない。だから、今日死んでもいいように生きるしかない。そんなことが、痛いくらい突き刺さる夏の日だった。

8月13日

ここは多魔川、富裕層が住むニコタマ町と、ヤンキーがたむろするカワサキ町の間を通る川辺。橋を渡れば、人も、空気も、賑やかさもうって変わる。そんな正反対の二つを結ぶ橋のふもとを重そうな鞄を持っている少年が一人夕暮れの中を歩いている。彼の名前は飽野空(あきのそら)。昨日から始まった夏期講習の帰りだ。空は小学6年生で、半年後に中学受験を控えている。
6年生になってから、サッカーもやめた。友達と放課後に鬼ごっこもしなくなったし、家に行ってゲームすることも無くなった。スマホゲームを友達とやりたいと、ねだったら、「受験が終わったらね。」と母に一蹴された。ただ、そういうものだと思っていた。

「今日の算数、難しかったな。頑張ってるんだけど、この生活も半年で終わるんだけど、いつまで、どこまで頑張ればいいんだろう。もし、第一志望に行けなかったら、そこから負けの人生になるんだろうな」とぼんやりと思う。この生活が、辛すぎて、耐えられない、とは思わない。ただ、いろんなことを我慢して、来るべき美しい未来があると母の京子がいつも言うので、空はそれを信じるしかない。

受験しないやつは、幸せなんだろうな。後で苦労するとわかっても、今幸せなんだろうな、きっと。なんで自分だけ特別な苦労をしているんだろう。
このまま、家までは歩いて15分。まっすぐ帰れば、温かいご飯が用意されていて、お風呂も沸いていて、そして夜復習をして、明日のために寝るのだろう。きっと、頑張ってね、とメモを書いた夜食も母は作ってくれるんだろう。きっとそうなんだろう、また明日のために一日を終えなければいけない。
毎日必死にやっているが、なんだか上の空な気がする。今日、珍しく橋の向こう側まで行ってみようかと思ったのは、このまま帰って一日が終わると分かりきっている事実に、なんとなく嫌気がさしたからだった。

マルコ橋をわたると、カワサキ町の方だ。ずっと河原に立ち入り禁止の柵とテープが貼ってある。どうやら、女の子が河原で足を滑らせて、溺死してしまった事故があったらしい。

夕陽が落ちるのをぼんやりと見つめていると、立ち入り禁止の柵をよじ登っている影が見えた。

男の子だ。子猿のような、ちびっちゃくてすばしっこい、使い古したジャージとTシャツを着ている。よく日に焼けた少年だ。そいつは、軽々と柵を登って、ぴょんっと立ち入り禁止のエリアに降り立った。

「なあ!何やってんの?そこ危ないぞ」思わず声をかける。

小猿のような少年がこちらを見る。バツが悪そうな顔をしていて、シーッと人差し指を立ててジェスチャーする。人差し指に、乳白色の指輪がはめられていて、きらりと光る。「秘密にしといて」そうして、橋の下に走り去った。

「おい!」慌てて空は河原の立ち入り禁止の柵に近寄った。先ほどの少年の姿は跡形もなかった。

あれからしばらく探したが、少年の姿はどこにもなく、諦めて帰宅した。夕食は、ボウルいっぱいの野菜、DHA豊富な鯖と、栄養満点な食事がずらりと並んでいた。母の京子が、つとめて明るく、しかし腫れ物に触るような笑顔で口を開く。「今日小テストだったじゃない、どうだった?」
「あー、むずかった…あのさ、今日、帰り道多魔川の河原行ったら変な奴がいたんだ」
京子は顔をしかめて「あんまり寄り道しないで帰りなさいよ。あの辺は、特に橋の向こう側は変な人いるから。フロウシャとか。」
「俺と同い年くらいの子だよ」
「ふぅん、まあでも気をつけなさいよ。あなた今、すごく大事な時期なんだから。明日も早いしね。小テスト、分かんなかったところは復習しなさいよ。お母さんも手伝うから」
空は、これ以上何かを言うのを諦めた。「わかった。ごちそうさま」僕の大事なことを、なんでお母さんが決めるんだろう、別に頼んでないのに。

8月14日
空は、少し早めに多魔川のほとりを歩いていた。昨日はよく眠れなかったし、どうしても勉強が手につかなかった。いつもは自習室で1時間ほど勉強しているのだが、今日は早めに切り上げてしまった。気がつけば、足が多魔川に向かっていた。

河原で、見覚えのある小猿みたいなやつが大の字で寝ていた。

なんだか小猿を見ているとイライラしてくる。それを隠さず、空は小猿に話しかけた。「なあ」声を掛ける。小猿は眠そうに目をこする。「お前昨日立ち入り禁止のとこ入ってただろ。何してんの」

小猿は欠伸をして「んん~俺のこと知ってる人…?」「何してたんだよ」「あ、そういえば見られてたな。あれお前か。あのさ、昨日のあれ、秘密だよ~」
「今日もまたあそこ入るの?お前」空は問いかける
「うーん、分かんね。お前が見てるなら入らないかな」
「お前何してんだよ」
「お前お前って呼ぶなよ。俺は大地っていう素敵な素敵な名前があるんだ。お前なんて言うの?」
「…空」
「空と大地か、正反対だな。空、暇潰し付き合ってよ」ぽん、と肩を叩く「はい、お前鬼な。」そう言いてケラケラ走り去っていく。「は?」空はポカンとして、それから、塾のカバンを乱暴に投げ捨てて、大地を追いかけて走り出した。
それから、とにかく走って、泳いでいた。大地が橋の上から川に飛び込もうと言った時は、内心恐かったが、びびっていると悟られたくなかったので、平気な顔して飛び込んだ。お前度胸あんな、と大地は感心していた。

気がつけば、日がだいぶ傾いてきた。びしょびしょになった二人は、河原に寝っ転がって服を乾かしている、太陽が沈み始め、あたりはオレンジになりかかる。
「大地って、中学とか、高校どうすんの」
「しらね。明日どうなるかわかんないのに勉強すんのか、偉いな」
「でも、やらなきゃダメだろ。将来があるんだから。お前いつか親に怒られるよ」
「そうかなぁ」
「うちの親なら、絶対にうるさく言われる。別に頼んでないのに、心配ばっかりなんだ。」空がそういうと、大地はふっと遠くを見る。
「お母さん、お前のこと大事なんだろうな、きっと…」

ふっと、線香のような甘い匂いが風に流れてきた。

大地の顔が険しくなる。「空、ここから離れろ。帰ってくれ。」「なんだよ急に。」空は大地がふざけ始めたのかと思った。
「本当に、ここは危ないから、すぐに帰ってほしい。また明日遊ぼうな」大地は幼い子供を諭すようにそう言って、マルコ橋の下に走って昨日の立ち入り禁止の柵に向かっていく。空は急に大地が態度を変えたことに腹を立てて、「ふざけんなよ」と言って、大地を追いかける。

マルコ橋の下の立ち入り禁止の柵の内側は、やけに冷え切っていた。大地は、空に気づくと、「なんで来たんだ!」と怒りをあらわにする。

日が落ちた。それなのに、多魔川の中央が、薄ぼんやりと青い光が漏れている。光は、ひたひたと川岸に近づいてくる。

大地はかぶりを振って「くそ、もう時間がない、仕方ない」と言って四隅に小さな香り袋を投げて「空、この袋の内側にいろ。そして、じっとしていろ。喋るなよ。」

ぼんやりと、青い光の輪郭が見えた。ワンピースを着た、まだ幼い女の子のように見える。ゆらゆらと揺らぎながらその顔が笑ったように泣いたように、くるくると歪んでいく。

大地の顔が、戸惑いで揺らいだ。次の瞬間大地は右手にはめられた乳白色の指輪を胸に当てて、「力を貸してくれ」と言った。そして、右手を青い光に向かって振りかざす。轟音が鳴り、あたりの砂利や芝が舞い上がる。

青い光の女の子は、薄ら笑いをして、口を大きく開けた。

随分と苦しそうな、耳をつん裂くような悲鳴がこだまする。鼓膜に突き刺さるような声だ。なんだか、頭がぐらぐらしてきた。
「空、耳を塞げ!」そう言って大地は、再度、右手を青い光に向かって振りかざした。青い光は吹き飛ばされ、ヨロヨロと、川の方に下がっていく。そして、光が完全に消えた。辺りは、いつも通りの風景に戻った。

大地は、ふっと力が抜けたように倒れ込む。空は慌てて駆け寄った。息も絶え絶えだ。慌てて、自分の水筒のお茶と大地の口元に流し入れる。
大地はぼんやりと目を覚ました。
「空、なんて顔してんだよ。」そう笑う。「来るなって言っただろ。」
「…なんだよ今の。大地、お前何やってんだよ…」
「別に空は知らなくていい。俺がやらなきゃいけないことだから。本当に、今日は帰ろう」
「ちゃんと説明しろ」
「マモノと戦ってた」大地は軽く言う。
「何言ってんだよ。何わけわかんない危ないことしてんだよ。今こんなことしてて、将来、絶対困るぞ」
「そうらよな、空のいう通りだと思う」
「すかしてんじゃねーよ。親にも怒られるぞ!」
「怒られないよ…母ちゃん、家にいないし。空はえらいよな、頑張ってる。いつも河原で単語帳読んでたり、すごく俯いたまま帰ってるだろ。それなのに、ちゃんと毎日外に出て、どこかに行ってる。空を見てると、俺も頑張らなきゃって思うよ」
「なんだよそれ!俺、明日も来るから。」

8月15日 

空と大地は、時々遊ぶ仲になった。空が全然教科書の漢字を読めないので教えたり、捨て犬と駆け回ったりしている。親には、図書館で自習していることにしている。

突如、線香の匂いが鼻を刺した。また、青い光の少女が現れた。鼓膜を指すような声が響く。大地が、うめく。「ごめん、俺が終わらせてやるから。ごめんな….はな」
大地が右手を振り下ろした瞬間、女の子は笑ってよけ、そして大地の耳元に寄り添い、そっと何かを囁いたように見えた。大地の力が抜けた。そして、倒れた。目から血を流している。
「大地!」
「空、俺、ダメかもしれない。」
「喋るな。いいから俺に託せ」
大地は、何やら呪文を呟きながら、指輪を渡した。空は、右手にはめ、思いっきり振り翳した。
青い光が消えた。大地は、動かなくなった。

8月16日 

空は、夏期講習をサボって夜中に出歩いていたことがばれ、しこたま怒られた。久しぶりの塾の帰り道、多魔川をぼんやり眺めていると、一人の女性がぼんやりと立ち入り禁止の柵の前で立ち尽くしている。空はなんとなく駆け寄っていった。若い女性だ。空が近づいてきたことに気づき、女性はこちらを振り向く。なんだか艶っぽくて、儚くて、どきりとした。でも、どこかわんぱくそうな面影を感じ、空はあ、と思った。目の形が、大地にそっくりだ。

「あの、大地の、お母さんですか?」
女性は驚いた顔で「大地を知ってるの?」そして、「あの子、いなくなっちゃったの。私がほとんどいっしょにいてやれてなかったからだ…でも、最近少し楽しそうだったのよ。そうか、あなたが空くんね。大地と、遊んでくれてどうもありがとう」
「これ、大地が僕にくれました。きっとお母さんが持ってた方がいいんじゃないかな」そう言って、大地の残した、くすんだ乳白色の指輪を差し出す。
「そう…でも、大地があなたに、って言って渡したなら、あなたのものだよ」
「僕、塾に指輪なんかつけていったら怒られる。まじめな生徒でやってかなきゃいけないから」そういうと、大地のお母さんは泣き笑いのような顔を浮かべた。「そしたら、紐を通してネックレスにして服の下に隠せばいいのよ」と言って、革の紐を取り出して指輪をネックレスにし、空の首にかけてやった。

空は、大地の母と離れた後、家までの帰り道を歩いていた。
「大地、なんでお前一人で背負ってたんだよ。今度、マモノが出てきたら、僕が倒す。それで、勉強もして、大学にもいって、アレがなんなのかちゃんと突き止めてやるから….僕は、僕の持てる全部を使って、お前がしたかったことをやってやるよ、なあ、大地」

ネックレスが、胸元でほんのり暖かくなった、気がした。

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