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「聴き方」という知性

こんにちは!ノート第二弾です。ここはクラシックから現代音楽から現在はBGM何でも屋と作曲活動をしている私が、主に音楽に関して思ったことを書きまくる場所です。

今回は「聴き方」というテーマについて書いてみました。

「自身が最も良い聴衆であれ」

この言葉は日本人の有名な作曲家の言葉で、レッスンにおいて常におっしゃっていた言葉です。

自身の中にある「良い耳」を常に磨いておかないと、良い演奏、良い曲を求めていくことができない。だからこそ常に勉強し続けなければならない、という自身への戒めも込めて、たまに思い出します。

でも、良い耳、とは…?

コンサートの後、みなさん「今日何を聴いたか」という話ってしたことあるでしょうか?

私に置き換えても、意識をしなければ音楽の「感想」を言い合う場っていうのはあまりありませんでしたし、それを深く言語化するのは思ったより難しい作業です。

そこで最近ふと思ったのですが
みなさん、一体音楽の「何」を聴いているのだろう・・ということです。

人の「聴き方」の曖昧さ

そもそも人間の音の聴き方というものは、それほど信用に足りるものでしょうか。少し考えてみました。(音響心理学的な勉強は全くしておりません。以下は個人の経験と少しの知識からくるものです。)

カクテルパーティー効果というものをご存知でしょうか。パーティーや飲み会なんかで人がたくさんいて、部屋の反響なんかもあってとてもうるさい時でも、目の前の相手の会話だけはなんとか聞き取れる、みたいな現象です。

・オーケストラなど複数の楽器のコンサートやライブに行った時、特定の楽器を視覚的に追っているとその音が重点的に聴こえてくることはありませんでしょうか?

・昔知り合いと「カフェの中でそれぞれが聴いている音を書き出して発表しよう」と言われたことがあって、その場で1分ほど聴いている音を時間軸で書き取り、その場でその時間軸通りに音読したことがあります。その1分の中で目立った音(グラスが割れた、近くの席の人の会話など特徴的な音)は確か同じだったと思いますが、その他、聴いている音は結構違うものだなぁと思った記憶があります。また、人の会話なども聴いている断片が少しずつ違ったり。

・友人と山に遊びに行った時のこと、「鳥の鳴き声、きれいだねぇ」と言われなければ、私はさっきからずっっと鳴いていたはずの鳥の音に気がつくことが出来ませんでした。何だか人生損した気分になりました。

要するに、です。
聴覚は私が思っているより、

信用ならん、ということです。

(ちなみに、ここでいう聴き方、聴覚というのは個人の聴こえる音域、可聴音域などのことではなく「どの部分をきくか」という意味の聴き方です。)

同じコンサートに行って

私が学生だったころ、同じ音大の友人達と同じコンサートで同じ作品を聴いた時のことです。(確か新曲初演でした。)同じ曲を同じ演奏で聴いた結果、かなり大雑把にまとめると出てきた感想はこのような感じでした。


①「音色が綺麗だった。あの瞬間のあの音が好き。」
②「全体の構成が良かった。緻密に計算されてる感じがした。」
③「分かりやすくてリズミカルで面白い曲。弾きたい。」

ちなみに、1は私です。
私は作曲科時代、いかに器楽で綺麗な音を重ねて鳴らせまくるかばっかり考えていて、全体の形式とかは二の次で瞬間が並んでれば良いと思っているようなタイプでした。(賛否は置いといて!)
そして2は曲全体の構成に命をかけているようなタイプの作曲科の学生でした。そして3は演奏科の学生です。

「解釈こそがクリエーション」

この言葉も有名な作曲家の方の講義にて聞いた言葉であり、私が一番肝に据えている言葉です。確か文脈としては「演奏家はただ曲を忠実に再現するだけではなく、解釈して演奏することが表現だ」といった内容だったかと。これは作曲でも同じことです。

上記にあるように、同じ作品からどこを読み取るか。

私は「聴き方」というのは、本人が持っている「問題意識」から来るものではと思っています。

1の私は、きれいな音を並べたい。2の学生は、新しい構造を発見したい。3の学生は、面白い曲を弾きたい。そのためにどうすれば良いかを、常に考えている。

その結果、その解釈、その人が持っている視点、聴き方を通して「作品」が生み出される。

クラシックに名前が残っている有名な作曲家達も、ただ「新しい曲を書いた」だけではなく、過去や同時代の膨大な作品から「新しい解釈」を見出し、「新しい価値観・新しい聴き方」を提示して、技術や感性を駆使し「作品」という形で残したこと、それが歴史に名が残る所以かと思っています。

例えばベートーヴェンの曲の分析方法にしても、音の重ね方を見るか、全体の構造を見るのか、フレーズの作り方を見るのか、何かの数値を選別して1曲を通してグラフにするのか、など。(そういえばこれらはどれもこれも、大学のアナリーゼの授業でやってきたものでした。)

そして、それは音楽だけではなく、生活そのものに活きるものでは、と思ったのは、最近のことでした。

「教養」の役割

最近ツイッターで「大学の勉強は社会に出たら全く意味がない」と言った声を見かけました。
まぁ正直なところ、私も音大から音楽関連の企業に就職したもの「あんなに勉強したのに、今までの知識も経験も全然役にたたん!私の血と涙の努力まじで返せし!!」と大学に対して逆ギレしていた時期もありました笑。ベートーヴェンの分析とかロック書く上で何一つ役に立たない・・笑。

ですが、最近はまた違った見方ができるようになってきました。

上記の「解釈こそがクリエーション」
これは音楽に限った話ではないと思うからです。

一つの物事、テレビやネットのニュース、

本を読んだり、人と話したり、映画を観たり、音楽を聴いたり


その情報をどのように解釈し、受け取り、自分に落とし込むのか。
それこそが知性だと思ったのです。

ただ「知る」だけではなく、自分なりに解釈し、考えるということ。

それは多分、エクセルを使えることやPCのショートカットが速いこと
それらとは全く別のスキルなのではないでしょうか。

大学の授業や本などで学ぶことは「教養」の一端ではないかと思います。
ちなみに教養とはgoo辞書で調べた所以下と記してありました。

㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。「高い教養のある人」「教養が深い」「教養を積む」「一般教養」

イの「社会生活」というのは、多分、仕事のことだけではありません。

教養というものは、短期的なスキルではなく、生涯をかけて私を助けてくれるものではないかと思ったのです。

もちろん大学の勉強だけではなく、読書、映画、美術館、音楽

どれも明日の会議には役に立たないけれども、決して無駄ではないはずです。

長い時間をかけても、自分を責めずに温めること

私もコンサートに行って、とても感動して言葉にならない時もあります。むしろ言葉にしてしまうと分析的になってしまって、あまり面白いくない、そう感じる時も。

でも、最近悩んでいる新曲の構想が友人の演奏を聴いたことで明確になったり、昨日まで「ただ好き」だった曲の新しい魅力を発見したり。

毎日悩んでいることも、問題意識として持っているものも変わってくる。だからこそ、新しい発見の繰り返しがこの先もずっと続いたら嬉しいな、と思っています。

明日を切り抜けるためには何の役にも立たないかもしれない。
でも来年、10年後
もしかしたら学んだものの断片が、その先を生きるための、ほのかに明るい道しるべになってくれるかもしれない。

学んだことや感じたこと、好きなものがすぐに役に立たなくても、
それを責めずに
大事に温めて物事を見つめていたら、
そのうちいつか、自身を助けてくれるものであることを願って。

この先、どのように何に救われるか、全く予想つかないのです。

音楽を「聴く」ということも、
そういうものであるといいな。

終わりに

みなさんの「音楽の聴き方」を知りたいです。どんなところを注意して聴いているとか、どんな箇所だと勝手に耳が追ってしまうとか、その他色々、よかったら教えて下さい!

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