いくらかの不安とコーヒーを

母と妹がリビングにいる。わたしはそれを知っていて、急いでもいないのにどたどたと階段を降りていく。この騒々しい歩き癖はもう長年治らない。妹は「足音で姉ちゃんってすぐわかるわー」と明るく言ってくれる。妹のいつでも明るいところは母に似たのだろうと思う。わたしと言えば機嫌がよくない時には無表情で、何を言われても黙っていて、リビングを緊張感で満たしてしまうことがある。その緊張感を無くしてくれるのは母と妹だ。

月曜日の午前10時。妹は早番のコンビニエンス・ストアのアルバイトを終えて、お店でもらってきた期限切れのサンドウィッチを食べようとしている。「コーヒー飲む?」と妹が聞いてくれる。わたしは「うん」と明るく頷く。今日のわたしは機嫌がいい。不自然なほど明るい声色のワイド・ショーのコメンテーターをにこにこ見つめる母は、妹に「わたしもコーヒー、飲みたいなあ」と明るい声で答える。

妹は3人分のコーヒーを淹れてくれた。わたしはショートヘアの寝癖を洗面所で濡らしていて、パジャマのままで、またリビングに戻った。妹の淹れてくれた、すこし冷めたコーヒーをちょいと飲む。

本当は冷めないうちに口をつけて「ありがとう」って言える37歳の姉でありたかった。34歳の妹はわたしの不機嫌にも、いつも屈託無い笑顔で答えてくれる。気にしていないよ、というように。そんな彼女も、わたしの不機嫌に真っ向に向き合って悩んでいた時期がある。中学から高校にかけてくらいだっただろうか。でも、今はこうして、穏やかにしていてくれる。妹が、多くの葛藤を経てきたからだろう。そんなことを、薄情なわたしは知らないふりをしている。

30歳を超えたふたり娘とその母がコーヒーを飲んでいるところに、とつとつと、父が階段を降りてくる。父はわたしたちに特別何をいうでもなく、洗濯機の廻る調子を見てまたどこかへ行った。妹がわたしに聞く。「お父さんにコーヒー淹れてあげればよかったな。気にしているかな」わたしは表情を変えずに答える。「大丈夫じゃない?」母はワイドショーにも飽きたようで、録画していた韓国ドラマに切り替えようとしている。母は自分に関わりのないことには関心のない様子だ。これもいつものこと。ただ自分のことに何か言われるとそれも聞かないふりをするので、困る一面もある。

これからわたしが話したいのは、たぶんさっき本当はコーヒーが飲みたかった、父の話である。父は昨年の夏、肺がんだとわかって手術を受けた。扁平表皮肺がん、と言う喫煙が主に原因となるらしいがんだった。父は相当のヘビースモーカーだったので、わたしはショックだったけれど、まあそうだろうなあと納得もした。

父にとって、肺がんに罹ったことは、人生にまさか起こるなんて思ってもいなかったことだと思う。これまでは、自分の周りだけは大丈夫だ、と安心しきってきたひとだった。でも、わたしは、わたしの家族がテレビドラマのように大きな病気にかかることは、起こりうることだろうという覚悟があった。それでも、おそらくがんでしょうと主治医に言われてから、がんだと確定させるための幾度の検査と結果を繰り返すなかで、転移がありませんようにと、その度に、やっぱり願った。こんなに緊張することがあるのか、と言うくらいの、はじめての緊張も経験した。またわたしも、わたしたちにだって起こりうる、とか、そんなの、実は格好つけた覚悟でしかなくて、わたしもやっぱり、どこかで父だけは大丈夫だと思いたかったのだ。

また別の日の夕食のあと。父と母が健康に関するバラエティ・ショーを観始めたので、わたしは「コーヒー淹れようか?」と尋ねた。母は「飲みまーす!」と明るくひょうきんに答える。父も「もらおうかな」と言うので、わたしは無言でコーヒーを淹れる。妹は今日はどうやら帰りが遅いらしい。母の隣にはミニチュア・ダックスフンドのモカが寝ていて、父はモカのそばに行って、顔を近づけてもしゃもしゃやっている。モカは尻尾を振ることもなくただ父のもしゃもしゃを受け入れてじっとしている。コーヒーを淹れ終えて、父と母には揃いのカップを、わたしは別のひと周り大きいカップを取って、深煎りのブレンドを注いだ。父はモカのわしゃわしゃをやめてテーブルに戻ってきた。

コーヒーを飲みながら、ぼんやりと3人でテレビを観る。バラエティ・ショーは軽快な音楽と共に終わり、ニュースが始まる。トップのトピックスは当然のように、新型コロナウイルスの話題である。わたしたちの暮らす街の病院やホテルの感染者の受け入れも、いよいよ逼迫してきていると言うことを知る。

「去年じゃなくて、本当によかったよね」とわたしは言った。「去年だったら、お父さんの手術も、伸びていたかもしれないよ」父はとっくに飲み干した空のカップを目の前に「そうだなあ」と応える。「あの時は先生も、来週手術の予約取りますね、とてきぱき動いてくれて。正直、大手術ははじめてだったから、もうちょっと心の準備も欲しかったくらいだけど」母は眠ったモカの背中を撫でている。「いや、ちょっとでも早くしてもらわないと、わたしの心が持たなかったよ」とわたしは早口で答えた。母はこちらを見遣って言う。「いい先生に担当してもらって、お父さんは本当によかったのよねえ」

いや。違うんだよ。「いい先生とかじゃなくってさ、あの先生だって呼吸器外科の先生だから、今はたいへんなはずだよ。お父さんの手術が今年だったら、去年みたいにはいかなかったよ、って話だよ」母は口をへの字にして、話題から離れ、テレビしか観なくなった。それからは誰も特にこの話題を深めるでもなく、ニュースは別の話題に移った。

父も母も平然としているけれど、去年の夏には、もしかしたら提示されるかもしれない重大な決断を、きっと覚悟をしたのだ。今ここにいない妹だってそうだ。家族4人で、がんが肺から別の場所に転移していないかを調べる検査の結果を、どきどきしながら個室で聞いた。「転移はありません。手術はできます。以上」以上、とは主治医はたぶん言っていなかったと思うけれど、それくらいのシンプルな話し方で、父の結果を伝えた。わたしは複雑なことを言われなくてよかった、とほっとした。父は顔を緩めて「本当によかったです、よかったです」と繰り返して、主治医に何度も頭を下げていた。

今、父はさいわいとても元気だ。術後一年経って、二ヶ月に一度の検査が、三ヶ月に一度になった。三ヶ月に一度の検査の予定の日、かかりつけの病院に新型コロナウイルスの感染者が出たらしいと聞く。父は「やめておこうかな……」と言い、わたしたちも「もしかしたら検査、延期したほうがいいのかな……」と心配した。結局、検査には予定通り行くことになった。わたしは急に心配になり、検査、何事もありませんように、と、ひさしぶりに父の病状に対して大丈夫でありますようにと願った。

わたしはずっと、父は自分のまわりだけは大丈夫、と思っているひとだと思っていた。かつてはそうだったと思う。でもその大丈夫はゆるやかに脆さを見せはじめた。わたしは中学生の時に登校拒否になった。そんな長女も大学まで進学し就職した。よかった。でも体調を崩してこの家に戻ってきた。次女もまた転職してこの家に戻ってきた。30代の娘ふたりと母、父と暮らす新築の家は決して強くない。脆さばかりだ。いつ何時、どうなるかわからないぼんやりとした不安は、いつでも、十分に、この家にもある。そうだ、モカは本当にいてよかったな。父がモカをとても可愛がるのも、どこかそんな不安からときどき離れるためなのかもしれない。

わたしたちは実は不安だ。不安で仕方がないのだ。わたしはそうだし、言葉にして話してはいないけれど、父も母も妹も、きっとそうだ。だけれど、それぞれに大きな決断が迫ったとき、わたしたちはそれなりに柔軟に、ぐんにゃり曲がることができるようになってきたのではないかと思う。その大きなきっかけは、父が大きな病気をしたことだったし、わたしが登校拒否になったことだったかもしれないし、そのほかの小さなピンチもあったし、それらはみんな、折れて曲がることのできるきっかけとして働いているのだろう。わたしたちは大丈夫。ぽきんと折れることはなかったから、きっと大丈夫だ。

玄関の電気が点灯した。モカが母の顔を見上げて、抱っこしてくれとねだる。妹が帰ってきたから、一緒に迎えに行こうよと誘うのだ。自分で歩きなさいよ、とわたしは思うけれど、母は「あ、帰ってきたねえ〜」と明るく言って、モカを抱っこして玄関へと向かった。モカはずいぶんと気をよくしている表情に見える。

わたしたち家族の今の状態は、遠くない将来に変わっていくのだろう。おそらくいくらかは今より、安心ではなく、不安な方向へ。でも大丈夫。何か大変なことを決めなくちゃならなくなっても、折れずに曲がりながら、なんとか、答えを出すのだろうと思う。


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