3.11に寄せて
震災から6年。
地震・津波・原発事故の情報は、この日たくさん流れてくるので、私はごく個人的な自分の体験を書こうと、久々にnoteを開いてみた。
東日本大震災の一番大きな地震が起きたとき、私がいたのは家の2階の居間。
2011年2月いっぱいの仕事がおわり、次の仕事に向けて準備段取りのメールのやりとりをしていたときだった。子どもたちは保育所、夫は仕事。
夫と子どもに頼み込まれて買った薄型テレビがぐらぐら揺れているのを見て、テレビをほとんど観ない私がそれを押さえているのが滑稽だなあと思ったのを覚えてる。
何か料理の仕込みもしているところだった気がする、ボウルが床に落ちた音がした。蛍光灯は消えたけど、バッテリーで動くパソコンは立ち上がったまま。それを閉じて、1階にいた義家族に声をかけ、まっさきに保育所へ。確認電話をしようか迷ったけど、どうせ通じないだろうと思った。子どもたちはお昼寝から覚めるか覚めないかの時間帯だった。
信号機が沈黙していたけれど、道路を行き交う車は譲り合って運転していて、危ない場面なんてひとつもなかった。
子どもたちは乳児クラスに集められていて、先生たちがその周りに集まってくれていた。「しばらくお休みになります」と告げられて、わかりました、と答えて三姉妹を引き取ってきた。どうしても預けられない人は、と気を使っていただいたけど、我が家は大丈夫です、と答えた。
会社員だったらどうなっていただろう。私は家でできる仕事だったので、しばらく子どもたちとのんびりするのもいいだろう、と思った。
ガソリンは10Lもない状態。携帯の充電もほとんどない。
この時点で、津波のことは全然知らなかった。実家の家族も電話には出なかったけれど、山形市なので大丈夫だろうと思った。仙台の長町にいる弟のことだけは心配だった。
反射式の石油ストーブを出してきて暖をとり、明かりは蝋燭と懐中電灯を用意した。
我が家のお風呂は灯油が燃料なのだけど、給湯器は電気。この日はお風呂には入らなかった。井戸水のポンプも電気で動かしているためうんともすんとも言わなくなったけど、水道の水は出た。プロパンガスで料理もできた。
オール電化が嫌いでライフラインは全て分散させていたけど、電力会社から買う電気に依存するのはやはりこわいと思った。
子どもたちは蝋燭に照らされる夜にわくわくしていて、私は先のことがいろいろ不安でもあったけど、子どもたちと一緒に笑っていた。
義父さんがつけたラジオで津波のことを知った。夫が帰宅してワンセグのテレビで津波の様子を家族に見せた。
早々に三姉妹と布団に入り、興奮する彼らを寝かしつけた。
次の日は静かな部屋で三姉妹といつものように淡々と過ごした。まだ1歳半の三女が反射式ストーブに近づかないように注意してたくらい。
電気が復旧したのは夕方。
私の携帯の充電はとっくになくなっていたので、電気が復旧してまっさきに実家に連絡をした。山形市は昼すぎ(震災からまる1日)に電気が復旧したとか。
ガソリンスタンドに行列ができたとか、コンビニから備蓄食が消えたとか、電池が姿を消したとか、いろんな話がネットに流れていたけど、私はこれを見て、3月いっぱいは一切外に出ない、と決めた。実際に出なかった。買い物にも、ガソリンスタンドにも。子どもたちと部屋の中でずーっと遊んでいた。
もともと畑をして備蓄だけで暮らしていける状態を望んでいたので、保存食もたくさん作っていたし、米もあるし、秋の野菜も少し残っていた。必要な物資は必要な人のところに届けられればいい、と思った。
夫だけは仕事があったので外出した。ガソリンを10L、行列で入れた、という話をきいて、そうなんだ、と他人事のようにきいていた。
当時はSNSといえばtwitterとmixi。救援活動に出かける知り合いもいたし、大丈夫かと心配して連絡をくれる人がいたり、電気が復旧してからは情報は常に入ってきていた。原発が爆発するだろうこともわかっていたので、ロシア製のガイガーカウンタの値段を比較したりしていた。震災直後に一切外出しないと決めたのは、子どもたちを外に出したくないからというのも強くあった。原発事故の状況が見えるまで決して外に出さないと決めて、実際に3週間、引きこもりっぱなし。子どもたちは喜んでいたけど、ずっと遊んでいられて。
「がんばれ日本」が「がんばろう日本」になっていって、不謹慎という言葉に過敏になる人が増えたり、公共広告機構のCMに子どもたちは飽きてテレビは一切見なくなったりして、家から一歩も出なくても周囲の状況はどんどん変わっていった。3月以前は祝島の原発反対運動の情報を追っていったのだけど、震災を機に賛成反対ころっと手のひらを返す人たちを目の当たりにして、人間土壇場になると脆いものだと痛感した。正しい情報が入ってこない福島よりも、人間関係の相関図としてはそちらの方がリアルだった。
それまで続けていたコンポストをやめ、食料の備蓄を強化し、これから乱れる食の流通が不安で、自分の家にどんな食料が必要か、総点検した。北海道産の昆布、有明海の海苔、日本海側の海の幸、山菜・きのこも出どころがはっきりしているものを産直で買った。3月中に食料として買い足したのはそれらだけ。
前の年に砂利を入れて作った砂場、もう使えないかもな、と落胆した。(雨どいの下だった)
畑を借りる予定だった場所の持ち主さんが雪の事故で亡くなり、3月はじめに進めていた仕事も白紙になった。
保育所も再開し、震災の混乱も一段落し、さて何をしよう、とそれまで自分がやっていたことを洗い出した。
土と水と空気があれば生きていけると思って畑をはじめたのに、それらが一瞬で失われると知った原発事故後。
それまで完全に内向き(家族)に使っていた自分のエネルギーを外に向けるようになった。自分が社会に出なければ、というより、子どもを社会に出さなければと思うようになった。彼らが頼れる人がどれだけ多いかが、本当の混乱時に一番大切になるのかもしれないと思った。
それまで、親の自分が生きて導く力があればいいと思ってた。子どもにも生きる力をつけさせたいと思った。でもそれだけじゃダメなんだって。子ども自身が頼れる人を、家族以外にもたくさん作らなきゃいけない。そして情報を選び取る力を、親がつけるんじゃなくて彼らがつけなきゃいけないんだって。
自分の仕事の方向性を一気に真逆に舵をきったことで、それまでやっていたことは無に帰すだろうなと思っていたけど、6年たってみると無駄ではなかった気がしている。
子どもは突然、突拍子もないものを作りたいと言い出すけれど、6年前は身の回りのあらゆるものはだいたい自分で作っていたから、案外覚えているもので。料理にしてもお菓子にしても、道具にしても。綺麗に作れるかどうかではなく、作り方を知っているというだけなのだけど。
あのころ内向きに使っていたエネルギーは、物事の仕組みを、たとえば家1軒を板1枚からネジ1本まで分解していくような作業。食べ物にしても道具にしても、成り立ちを知らないものを平然と使っていられなかった。
(機械オンチはさすがに直らず、パソコンや電化製品とかは、さすがにお手上げだけど…)
今はその頃の経験の貯金を使って外へ向けている最中。それまで仕事にするつもりのなかった文章を結局は仕事にしたのも、子どもが5人に増えたことで、自分の場所を変えずともできる、人に届ける何かを模索した結果。
それまで文章は私にとって記録のみの情報だった。そのときの記録が、今ひょっこり役に立つこともある。
双子を妊娠する前は、国の事業で被災地に野菜を届けるプロジェクトに同行したり、山形の芋煮を振る舞ったりして、仮設住宅にも行ったし実際に家族を亡くした人にも会ったけど、それだけで震災のリアルに触れられたとは思っていない。
太平洋側の海岸線にはずっと行く気になれず、去年の3月にようやく取材のついでに訪れてみた。塩釜の穏やかな海だった。そこは海岸線にほど近いところだったけれど地形の関係で被害がほぼなかった場所。しかし取材の帰りによく乗る高速の経路から見える景色は、津波がすべてを洗い流したあとの平地がどこまでも続いていたりもする。
震災直後、東京に行く予定がすでに入っており、4月はじめに新幹線の状況を聞きに行ったら「復旧の目処はたっていません」と言われたことを思い出す。(結局、直前になんとかなった)
実際に訪れてみると、夜間の電飾は半分程度、エスカレーターも停止しているところが多かった。用事があって行ったけど知り合いにも数人会えた。このとき話をした飲食店の店主(その前に山形に来たことがある人)は、その後新庄に移り住んでしまった。
東京はときどき訪れるには楽しいけれど、消費する以外の生き方が難しい場所だなと行くたびに思う。
2012年11月、双子出産のための管理入院が迫っている中、当時関わっていた事業のお手伝いで、大きな産直の代表の方(若い)とお話をした。津波で妻と子どもを亡くした人だった。その後がむしゃらに仕事に邁進していたのを知っている。
出張の帰り道、その人を仙台駅近くの交差点で見かけた。彼女と手を繋いでいた。
同行した当時の仕事仲間は驚いていたけど、残された人が生きていくってそういうことだよな、と思った。いつ自分が死ぬのかだってわからない。
・・
震災から6年後の今日のその時刻は、仕事をしながらうたた寝をしてしまい、長女が焼いていたマカロンの匂いで目が覚めた。
確実に生きる力のついた5人の子どもたちをみていて、特に小学生たちについては、家事はできるし、私以上に真面目だし、すごいなと思う。彼らは小さいときから双子が身近にいるから、赤ちゃんの世話もできるし、子どもが思い通りにならないなんてことも当然知っている。
長女は最近まで「バスケ選手になりたい。でもパティシエにもなりたい」といっていて、そうかそうか、どっちでもいいんじゃないと言っていたけれど、最近「パティシエになるためにバスケを続ける」と不思議なことを言い出した。よく聞いてみると、パティシエは体力も必要だからバスケで体を鍛えておく、ということらしい。将来は料理の方に進みたい、という。
0か100じゃない柔軟な考えができるようになったんだなあと、心の中で感心していた。
ひとつのことをやり続けるのもいいし、いろんなことをやってみて、その掛け算で自分だけの生き方を模索するのもいい。私は前者に憧れながらもどう考えても後者。
私も最近疲れやすくなっていて、若くはないんだなあと思うけれど、これからは子どもを庇護するより生き方で示す時期がきているのかもなと思う。
まずは3月の溜まった仕事を終わらせて、そのあとのことはゆっくり(できるかな)考えよう。
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